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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第4部・立会演説会編 4月10日(水)
182/421

第182話 哲矢サイド-7

 かご室は修羅場を誰にも邪魔させることなく堪能させたいという強い意思が働いているかのように、どこの階層にも止まることなく上昇を続けてきたが、やがてそれも終わりを迎える。


 哲矢の悪夢は最上階への到達によって終止符が打たれた。

 位置表示器が21という数字を示すと、扉は名残り惜しむようにゆっくりと開く。


 哲矢は体に纏わりつく重力と一緒に21階のエレベーターホールへと投げ出された。


「げっほ、ごほッ! ッぅぐ……」


 首の周りが火照るように熱い。

 咳き込むことを何度か繰り返し、ようやく本来の呼吸運動に戻るまで少々の時間が必要であった。 


 その間、哲矢は、魚市場を仕切る競り人が鮮魚を値踏みする時に見せるような冷めた目の大貴に、ただ黙って見下ろされていた。


 こいつに何か価値があるのか。

 そう問われているような気がして、大貴の冷徹な表情に哲矢は薄ら寒さを覚える。

 

 扉が閉じてしまうと、エレベーターホールは完成された静寂に包まれた。

 息を吸うことさえ、躊躇うほどであった。

 

 そんな中、鼓膜を震わす風の音に哲矢は思わずギョッとしてしまう。

 丸めた体を解いて顔を上げると、耳元まで真っ直ぐ伸びる大貴の手があった。


 彼は先ほどまでの態度とは一転、弁解するように静かに語り始める。


「……俺の親父は、お前が思ってるほどできた人間じゃない」


 そう口にしながら大貴は手を差し出すポーズを作る。

 反射的にそれに応じた哲矢は、大貴の助けを受けながらなんとかその場から立ち上がった。


「……っ……」


 重力が足腰に重く圧しかかってくるのが哲矢には分かった。


 そんな哲矢の様子を眺めながら、大貴は再び言葉を紡ぎ出す。

 場所の特性上、その声はエレベーターホールに大きく響いた。


「……親父は、子供は自分を生かすための道具としか考えてない。周りの目を気にしてわざわざ俺をこんな場所まで呼んだりするのさ」

 

 彼の口元から白い歯が覗いて見えた。

 その自虐的な笑みを目にして、大貴の父に対する不信感は相当なものだ、と哲矢は認識する。


 首周りの不快感はまだ消えなかったが、若さゆえか、ほとんど気にならなくなっていた。


 大貴は意味深にホール奥の廊下へと目を向けると続きを口にする。


「さも、できた父親のように周囲へアピールしているんだ。実際は俺のことなんてなんとも思っちゃいない」


 そこで息を大きく吐き出した大貴は天を仰いだ。

 だが、そこには簡素な天井が広がっているだけで、おそらく彼が望んだであろう安らぎは存在しなかった。


 一歩間違えば単なる愚痴にしか聞こえない話を大貴は巧みに工夫して話している、と哲矢は思った。

 現に哲矢の関心ごとは、完全に彼の父親へと移行していた。


(……市長に対する印象を操作してなにか意味があるのか?)


 大貴の話す内容は事実なのかもしれないが、彼が自分の父親を貶めようとしているように哲矢には感じられてしまう。


「なんで……」


 とっさにそんな弱々しい言葉が哲矢の口を突いて出る。

 そして、感情を直結させた言動を取ってしまった自分に哲矢は大きく驚く。

 先ほどの教訓をまるで生かし切れていないと思ったからだ。


 途端に「それなら」と、半ば投げやりな気持ちが芽生える。

 だが、続きを口にしようと試みるのだったが、自分が言おうとしていた内容がどれであったかが分からず、哲矢は思わず声を飲み込んでしまう。


 それは、〝なんでそんなことを俺に話すんだ?〟と素直に疑問を訊ねる内容であった気もするし、〝なんで俺をここまで連れてきたんだっ!″と彼に詰め寄る内容であったような気もした。


 結局、言葉は哲矢の奥深い場所で留まったまま、姿を現すことなく消えてしまう。


 哲矢の言葉が不完全な形だったためか、それについて大貴が何か言ってくることはなかった。

 相槌と解釈したのかもしれない。

 

 結果的にそれは事態を好転させることとなる。


 それから大貴は慣れた様子でテラゾーの床に靴音を叩きつけながら、すぐさまエレベーターホールから移動を始める。

 まるで、彼に呪いをかけられた人形のように、哲矢は慌てて彼の背中を追った。




 ◇




 大貴の後に続いて一本道の廊下を歩きながら哲矢は考察する。

 おそらく、話の流れから察するにこれから市長のところへ向かおうとしているのだろう、と。

 

 大貴の話を信じるなら、息子を市役所まで呼んで仕事ぶりを見学させるというのは、周囲の目を気にした市長のパフォーマンスということになる。


 皮肉にも父親の思惑に応えることで地元住民の大貴に対する評価は上がり、良い息子を演じざるを得ない状況に追い込まれているのかもしれない。

 ゆっくりと廊下を進む彼の背中を見つめながら哲矢はそんな風に感じた。

 

 しかし、そういうことだと哲矢が大貴に本題を話すチャンスは限られてくるかもしれなかった。

 そもそも、この先に話をする機会なんてなく、このまま別れてしまわないとも限らない。

 伝えるなら市長と会う前の今しかない、と哲矢は考える。


 覚悟を決める瞬間だった。

 当初の目的を忘れてはいけない。

 何のために彼を探して第一区画を訪れたのかを。


(――そうだ。大貴を立会演説会の場に連れて来るためだ)


 むしろ、今の大貴ならすんなりと受け入れてくれそうな予感があった。

 元はと言えば、大貴の側から挑発してきたことなのだ。

 自分たちはそれに応じようとしているに過ぎない、と哲矢は思う。

 

 哲矢は意を決して、歩みを進める大貴の肩に手をかける。

 

「……なんだ?」


 呼び止められたことに気づいたのか、大貴は足を止めて軽く首を捻る。


「ちょっと待ってくれ。市長と会う前に一つ言っておきたいことがあるんだ」


 気持ちを逆撫でしないようにと気遣ったつもりであったが、言葉はどうしてもぶっきら棒に響いてしまう。

 緊張で気が立っているせいかもしれなかった。


 大貴は、鬱陶しそうに整ったツーブロックの前髪をかき上げながら哲矢に向き直る。


「んだよ」


 いつまで経っても彼のギラついた眼力に慣れそうにない。

 圧倒されそうになる気持ちを堪えて、哲矢はなんとか言葉を絞り出した。


「今日、学園はどうするつもりだ?」


 哲矢は導入としてその言葉を選んだつもりだった。

 ほんの軽く世間話でもするように。


 しかし、実際はそんな慣れ親しんだ間柄ではない。


 大貴が口元を歪ませ、不敵な作り笑いを浮かべると、哲矢は現実を理解する。

 手順を間違えたというよりも、最初から彼に適した話題など存在しない、という絶望感がそこにはあった。


 大貴は高々とこう断言する。


「行くさ。そのために俺を探してたんだろ?」

 

「……っ!」


 その返答を聞いた瞬間、哲矢は思わずゾッとしてしまう。

 言葉に凄みがあったことも確かだが、それが意味するのは〝意図が読まれていた″という事実であった。


(まさか気づかれてるのかッ……!?)


 臓器の内側まで透明なルーペで覗かれているような気がして、突如、哲矢に嘔吐感が込み上げてくる。

 けれど、そのように考えると合点がいった。


 今朝、あの場所で会った時に大貴が妙に落ち着いていたのも、初めから哲矢が来ることを予測していたのだとすれば納得できる。


(お、落ち着けっ……焦っちゃダメだ……)


 むしろ、弱みを握ろうとしているのはこちら側なのだ、と哲矢は思う。

 話す手間が省けたと考えればいい。


 心の中で何度か自己暗示を唱えると、哲矢はすぐに冷静さを取り戻す。


(仕切り直しだ)


 哲矢は大貴の問いに対して慎重に頷いてみせ、ついに本来の目的を口にするのだった。

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