第181話 哲矢サイド-6
必要事項を用紙に書き終えると、哲矢は大貴と同じく入庁証明のカードが入ったホルダーを警備員から受け取る。
「仕事、頑張ってくださいー」
調子よく二人の男に別れを告げてその場を後にする大貴に続き、哲矢は守衛室の先に設けられた職員通用口へと足を踏み入れる。
ここまで来ればヤケだ、と哲矢は思う。
意地でも、どこへ向かっているのかと情けない声は上げないと心に決める。
カードホルダーを当てつけのように思いっきり首から下げると不思議と哲矢の気分は晴れていった。
手順はどうあれ、哲矢は今桜ヶ丘市の関係者として認められていた。
(なんか、これもいい気分だな)
自分でも気づかなかった些細なプライドが哲矢の自尊心を満たしていく。
ほんの数ヶ月前までは想像すらできなかった未来に誇りさえ湧いてくる。
人生どこで何が起こるか分からない。
そんな使い古された言葉が今の哲矢にはとてもしっくりと聞こえるのだった。
◇
外周に沿って続く薄暗い職員通用路を大貴は慣れた歩調で進んでいく。
哲矢は早歩きになりながらもなんとかその後を追った。
しばらくすると、通用路は職員用のエレベーターが数台設置されたエントランスへと繋がる。
大貴がボタンにタッチすると、タイミングよく1台のエレベーターが開く。
中へ入った大貴は、迷わず最上階である21階のボタンを点灯させた。
扉が閉まって密閉空間ができると、後には静かに昇り始めるエレベーターの駆動音だけが残った。
その音に耳を澄ませて、21階のボタンに灯った橙色の光に哲矢が意識を奪われていると、突然大貴が話しかけてくる。
「この市役所の高さが何メートルだか、お前知ってるか?」
「――んあっ?」
まさか、声をかけられるとは予測していなかったので、哲矢は思わず間抜けな声を上げてしまう。
上昇を続けるかご室が微かに振動した気がした。
また、からかわれているのだろうか。
そう直感する哲矢であったが、意外なことに大貴は先ほどの態度に気遣う素振りを見せる。
「……いや、これも唐突だったな」
珍しく動揺しているようにも哲矢には見えた。
もしかすると、大貴としても予期せぬ言葉を滑らせてしまったのかもしれない。
または密室内の重たい沈黙の気まずさがそうさせるのか。
大貴は自分で問うておきながらすぐに解答を提示する。
「ちょうど100メートルなんだ。俺たちは今その最上階に向かってる」
一度声を出してしまった手前、引き下がれないのだろう。
大貴は首を左右に振ると、ある人物の名前を口にする。
「そこに……俺の親父がいる」
「親父?」
「この街の市長さ。お前も知ってんだろ?」
「あ、ああ……」
なぜだろうか。
哲矢はこの瞬間まで彼の父親が桜ヶ丘市の市長であるということを忘れてしまっていた。
大貴は哲矢の反応を確認すると、低い声でこう毒づく。
「親父は……その頂きから毎日街にいる連中を見下している」
扉側に顔を向けて背を見せる大貴からは、表情が一切読み取れなかった。
「…………」
哲矢はどう口にすればいいか、返答に困った。
その間、実際の時間にすれば一瞬であったが、哲矢には終わりの見えない坑道を進み続ける時間のように耐え難く長く感じられた。
つい表情が強張ってしまう。
その顔を〝困惑している″と大貴は捉えたのだろう。
彼は、軌道をはっきりと提示するように言葉を重ねる。
その内容は、ここまで哲矢を連れてきた核心に迫るものであった。
「今日は、親父の仕事を見学する日なんだ」
相変わらず喜怒哀楽を欠落させた声であったが、重要な話をしているという姿勢は哲矢にも伝わってきた。
(なるほど……そういうことか)
大貴がバスの中で親しそうに声をかけられていたことの意味に哲矢は辿り着く。
おそらく、地元住民はこのことを知っていたのだろう。
だから、誰も宝野学園の前で降りなかったことに対して口を挟んでこなかったのだ。
わざわざ学園を休んで市庁舎まで来た理由が判明し、すっきりとする一方、まだ肝心の謎が残されていることに哲矢は気がつく。
(だけど、なんで俺を一緒に連れてきたんだ……?)
疑問をその場で伝えることができればどんなに楽だろうか。
だが、些細なプライドが邪魔をして哲矢は思ってもいないことを口にしてしまう。
「そっか。じゃ楽しみだな」
声にしてから哲矢はハッとする。
その言葉には奥行きが存在しなかった。
ハリボテで、形式的で、魂が欠落していた。
口にすべき種類の台詞ではなかったことを哲矢はすぐに悟る。
けれど、後悔しても後の祭りだ。
それが眠れる虎を呼び起こす結果に繋がった。
ドスンッ!!
物凄い衝撃が襲ったかと思うと、哲矢の体はいつの間にか大貴の手中にあった。
「……っ!?」
襟元を両手で掴まれ、壁に背中を思いっきり叩きつけられる。
痛さを感じるよりもまず一瞬のことで哲矢は何が起きたのかが分からなかった。
目の前にあるのは平常心を失った大貴の表情だ。
荒い口調で言葉を捲くし立てる彼の声を間近で聞きながら哲矢は状況の理解に努める。
「楽しみだと……? あの男と会うことの、どこか楽しみだって言うんだ?」
「ぅぐッ……や……」
締め上げられる襟元が苦しかった。
鍛え抜かれた大貴の上腕二頭筋に、哲矢は成す術なく体を宙に浮かせてじたばたとする。
こんな状況で哲矢の脳裏を過ぎるのは後悔の想いであった。
ほんのついさっきまで相手は懐を広げて油断していたのだ。
付け入る隙があったのなら、又とないチャンスであったはずだ。
しかし、哲矢は不用心なひと言でその機会を棒に振ってしまう。
朦朧とする意識の中、哲矢はエレベーターの駆動音に身を包まれていくのだった。




