第179話 哲矢サイド-4
大貴は決して後ろを振り返ることはなかった。
小高い丘にある高級住宅街を抜けて降り切ってしまうと、二車線が走る幹線通りにぶつかった。
そこでようやく大貴は立ち止まると、初めて哲矢の方を向く。
「ここで待つ」
彼は近くのバス停を指しながらそう答えた。
(バスに乗ってどうするんだ?)
問い質したい思いが寸前まで出かかるのを哲矢はなんとか抑える。
なぜかそれを訊いてしまうと目の前にいる大貴が消えてしまいそうで、結局声にすることはできなかった。
二人の間に再び沈黙が降り立った。
だが、不思議と居心地は悪くない。
むしろ、この距離感を心地よく感じる自分がいることに哲矢は驚く。
相手はいわば敵軍の将。
〝殺す〟とまで言われた相手なのだ。
それにこれから行こうとしている場所も罠かもしれない。
本来ならば全力で警戒すべき対象なのである。
にもかかわらず、哲矢は大貴に対して不思議とそのような感情が湧いてこなかった。
一層のことこの場で『お前が将人に罪を被せたんだろっ!』と凶器を突きつけ、本音を吐かせることができたらどんなに楽に事件を解決することができるだろうか、と哲矢は思う。
けれど、それは当然フェアではないし卑劣な行為であった。
哲矢はあの日の廃校で大貴が投げ捨てた言葉を思い出す。
〝そこまで俺があの事件になにか関わってるってほざくなら証拠を提示してみろよ〟
それを思い出した瞬間、ふと――。
哲矢の脳裏にある仮説が思い浮かぶ。
(……待てよ。あれは、関係を対等にするためのこいつなりの気遣いだったんじゃないか?)
普通に考えれば、単に挑発してきただけと捉えられるが、哲矢には裏にメッセージが隠されているような気がしてならなかった。
それはこれから大貴が見せようとしているものと何か関係があるのかもしれない、と哲矢は思う。
今の大貴には、あえて懐を曝け出すような脆い一面を持ち合わせているように哲矢の瞳には映っていた。
それからしばらくすると、クリーム色のバスが幹線通りに姿を現した。
大貴は無言でそれに乗り込むと、哲矢も急いで後に続く。
車内は通学時間のピークを過ぎているせいか、中高生は数名しか乗車しておらず、代わりに遅出のサラリーマンや大学生、地元住民の姿が目立っていた。
自然と哲矢は大貴と離れた位置のつり革に掴まる。
並んで立つにはまだ気恥ずかしさがあった。
そんな哲矢の思いなどまるで気にする様子もなく、大貴は前方のつり革に掴まりながらバスの振動に揺られて窓から過ぎるニュータウンの景色をじっと目で追っていた。
「次は鶴牧6丁目~鶴牧6丁目です」
バスは停留所が過ぎるたびに運転手がアナウンスをして進んでいく。
その間、車内はまるで生態系の均衡でも保つかのようにバランスよく客の乗り降りを繰り返していった。
哲矢たちが乗ったバスは桜ヶ丘ニュータウン周回の環状線で、このまま乗っていれば同じ停留所へと戻ることになる。
哲矢はチラチラと大貴の方を覗くが、彼が停車ランプに手をかける気配は一向になかった。
(どこまで行くつもりなんだ……?)
乗り始めた時はこのまま宝野学園まで行くつもりなのだろうと見通していた哲矢であったが、その場所は早々に過ぎ去ってしまう。
宝野学園の制服を着ているため、当然、周囲の視線が気になり始めた。
住宅街で声をかけられた時のように、この先も乗車を続けていれば「学園はどうした?」と誰かから声をかけられる可能性は十分にあった。
哲矢としては説明に困るので一刻も早くバスを下車したかった。
けれど――。
宝野学園から随分と遠ざかっても、哲矢が周りの視線を感じることはなかった。
(気にし過ぎだったのかな)
半信半疑のまま改めて車内の様子を見渡してみると、哲矢の瞳にそのカラクリが飛び込んでくる。
乗客の隙間を縫って目と耳を凝らせば、親しげに笑う大貴の姿にぶち当たる。
距離や騒音で細部まで内容は聞き取れなかったが、周りの乗客と楽しそうに駄弁っているのだけは伝わってきた。
(な、なんだよ、あれ……)
驚くべきことは、大貴がその一人一人と丁寧に接していることにあった。
おそらく、何度もこういう場面に遭遇するのだろう。
慣れた様子で笑顔を振りまいている。
狂ったように暴言を繰り出すあの日の冷酷な彼はそこには存在しなかった。
「え~次は市役所前ぇ、市役所前です~」
周回のハイライトなのだろう。
運転手の声はエンジンが温まってきたように緩急を織り交ぜながら次の停留所をアナウンスする。
柄にもない姿を目撃したせいだろうか。
哲矢の動揺は思いのほか重症であった。
それがどの程度かと言うと、車内の停車ランプが一斉に灯り、「次、止まります」という自動音声が車内に響き渡ってもまったく気づかないほどであった。
もちろん、乗客の誰かが降りるたびにそうした場面を繰り返し見てきたわけで、哲矢が気づかなくても無理はないのかもしれない。
だが、これまでと異なったのは、大貴が停車ボタンに手をかけたということであった。
その瞬間、身の危険を感じるような視線が哲矢に突き刺さる。
(ここで降りるのかっ……?)
その時になって初めて、哲矢は大貴に下車の意思があることを知った。
僅かな間、哲矢は大貴と目を合わせることになる。
彼の瞳は、まるで濃い霧の中でひっそりと佇む洋館のように得体の知れない不透明な闇に包まれていた。
それを目にして哲矢は前言を撤回せざるを得なくなる。
(やっぱり違う!)
一緒にいることを心地よく感じるなんて言語道断なのだ。
本物の大貴は警戒すべき相手。
愛想よく振舞う彼は偽者に過ぎない。
(すべて計算された演技に違いない)
哲矢は改めて自己の甘い認識を訂正することとなった。
大貴は視線を元に戻すと、哲矢にだけ分かるような仕草で一度頭を斜めに傾ける。
ここで降りろ、という合図なのだろう。
やがて、バスは市役所のロータリーに進入し、目的の停留所に停車する。
「市役所前~市役所前っ~」
運転手のマイクが響くと、それをきっかけに大貴の周りを囲んでいた乗客たちから激励の言葉が行き交った。
(な、なんだっ……!?)
その対象はなぜか哲矢にも及んだ。
複数の好意的な眼差しの矢が飛び込んできたのだ。
同じ深緑色の制服を着ているせいかもしれない。
そもそも、宝野学園近くの停留所を過ぎたにもかかわらず、何も咎められてこなかったのは大貴と一緒のバスに乗車していたためだろう、と哲矢はその意味を理解する。
内容は分からなかったが、学園をサボっても非難されない正当な理由を大貴が所持していることは明らかだった。
パレードのような興奮が車内を別世界へと染め上げる。
「ありがとうございますっ!」
大貴は周囲の期待に応えるように手を挙げながら、一人一人に声をかけていく。
こんなところに取り残されたら大変だという思いから、哲矢も遅れまいと乗客の間を素早くすり抜けてなんとか大貴の後に続いた。
異常な熱気は不気味さそのものであった。
まるで、見知らぬ世界に迷い込んでしまったかのような不安が哲矢の中で込み上げてくる。
バスが排気ガスを巻き上げてロータリーから姿を消してしまうと、哲矢は頭上に広がる高層タワーを見上げて緩んだネクタイの結びを締め直す。
陽の光に反射して輝く市役所はどこか神々しくさえ感じられた。
大貴も同じように天を仰ぐ。
何を考えているのか。
その横顔はこれから死線にでも赴くような歪んだ形相をしていた。
宙を睨みつけるその表情を見て、哲矢はかつての大貴が完全に戻ってきたことを確信する。
だが、大貴からオーラを感じたのはその一瞬のことで、彼はあとは興味を失ったように市庁舎へと向けて歩みを進める。
相変わらず、大貴が哲矢の方を振り返ることはなかった。
見下されているのか、それとも――。
(分からない……)
それくらい、哲矢の大貴に対する感情のふり幅は巨大だった。
真意がまるで読めないのだ。
流されるがままに大貴の後を追ってきた哲矢であったが、この場所に何があるのかさっぱり見当が付いていなかった。




