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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第4部・立会演説会編 4月10日(水)
175/421

第175話 メイサイド-9

 柔らかな材質のソファーは気持ちよく、メイはいつの間にか深い眠りに落ちていた。


 慣れない留置場で一晩明かしたせいかもしれない。

 抵抗する間もなく、睡魔は懐に入り込んできた。


 ハッと目を覚まし、メイが寝ぼけ眼で部屋の時計に目を向けると、時刻は10時30分過ぎを指していた。

 かれこれ一時間半近くこの部屋に滞在している計算だ。


「うそ……」


 密かに信じ難い事実であった。

 体感と現実の差が開いてしまっていることをメイは実感する。


 それから待てど暮らせど、誰かが呼びにくる気配はなかった。

 防護壁でも成されているのかと勘繰るくらい部屋は完全な無音の支配下に置かれている。


 メイは外の様子がとても気になったが、これも女性教官による罠のような気がして、大げさに騒ぎ立てる真似はしなかった。


 もう少しだけこのまま様子を見よう、とメイは心に決める。

 再びソファーに沈み込むと、今度メイを襲うのは睡魔ではなく、〝自分は一体ここで何をしているのか〟という自問であった。


 ほんの数ヶ月前まで日本なんて写真や映像でしか見たことのない国と思っていたのだ。

 幼い頃から日本語が流暢に話せていたにもかかわらずである。


(あの屋敷だけが私のすべてだったのに……)


 信じられないことに、今のメイは日本の鑑別局で傷害事件を起こしたとされる少年との面会を待っていた。

 想像すらできなかった未来である。


(バイロンの書いたことは本当みたいね)


 〝事実は小説より奇なり″


 メイはその言葉の意味を肌で強く感じていた。




 ◇




 その後、さらに試練の時は続いた。

 ソファーに身を沈めていることが得策に繋がるとは思えなかったが他にやることがない。


 このままでは思考の海に飲まれてしまうとメイは危機を抱き始める。

 気分を変えるためにソファーから離れると、メイは室内を意味もなくうろうろと歩いた。


 すると、ちょうどそんなタイミングで、久々に外部からの干渉がある。


 控えめなノックの音。

 ようやくか、という思いだった。


「ちょっといつまで待たせるつもりよっ!」


 メイは待たされたことへの苛立ちを隠そうともせず、勢いをもってドアを開けるのだったが……。

 

「――っ!?」


 目の前に立つのが見知らぬ男であることに気づき、思わず息を呑む。

 てっきり先ほどの女性教官が来たとばかり思っていたのだ。

  

 相手は痩せ型の神経質そうな中年の男であった。

 顔は少しやつれ、覇気に乏しい印象を受ける。


 彼はトレイを片手に持ち、その上にオレンジジュースの入ったグラスとバタークッキーの菓子折りを載せていた。


「もう少々お待ちください」


 消え入りそうな声で男は事務的にそう呟くと、メイの意思を確認することもなくそれらをテーブルに置き、無言でその場から立ち去った。


 その間、ほんの数秒の出来ごとである。

 メイが口を挟む隙さえなかった。

 

 亡霊のような男が去ってしまうと、テーブルに残された差し入れがメイの置かれている状況に同情するように粛然と佇んでいた。


 よく考えれば、昨日から何も食べるものを口にしていない。

 留置場でも食事は出されなかった。


 腹は間違いなく空いているにもかかわらず、メイはそれらのものに手をつける気にはなれなかった。

 感覚が麻痺しているのかもしれない、メイは思う。

 苛立ちだけが募っていく。


(もう限界っ……。あの女、どれだけ待たせるつもりなのっ……?)


 メイは、溢れる感情を何とか制御しつつ、ある仮説を意識し始める。

 もしかすると、女性教官はこちらの忍耐が限界に達するのを待っているのかもしれなかった。


(そういうつもりなら上等よ)

 

 これ以上待たせるつもりなら、無理にでも将人の元へ乗り込む。

 加熱する思考はメイに冷静な判断を失わせていた。

  

 だが、ここまで焦燥感に駆られる必要はないということにメイは気づく。

 昼休みの前に哲矢たちと合流する約束をしているとはいえ、まだ時間は十分に残されているのだから。

 

 むしろ優先順位はこちらの方が上で、花には申し訳ないが見舞いに間に合わなかったとしても、将人の証言を得ることが何よりの優先事項であった。


(私はなにを焦ってるの?)


 早く面会に漕ぎつけたいという思いは怯えの裏返しと言えた。

 また、証言を得なければならないというプレッシャーが予想以上に重くのしかかっていることにメイは今更ながら気がつく。


 チャンスは一度きりしか残されていない。

 失敗することは、この歪な事件の全容を闇に葬ることを意味していた。


 焦りの正体が分かり、メイはさらなる緊張で体を強張らせていく。

 本音を言えば、このまま宿舎に帰ってぐっすりと眠りたかった。


(ダメよ、しっかりしなさい私……)


 それでもメイはなんとか自身を鼓舞する。

 今、哲矢も花もそれぞれに自分がするべきことをしているはずだからだ。


 〝自分は一人じゃない″


 そう思えば体は自然と軽くなり、不安は和らいでいくようであった。

 

 コン、コン。


 まさにそんな瀬戸際の状況で。

 ドアをノックする音が部屋中に響く。


 その絶妙さゆえに、すべては見越されていたのかもしれない、とさえ錯覚してしまう。

 

 コン、コン、コン。


 先ほどのノックよりも力強い自己主張のはっきりとした音だ。

 メイは、感情の振り子をフラットに戻すと、一度深呼吸をしてからドアノブに触れた。

 

 この場所にいる意味。

 それは、自らの過去を決別することでもあった。


(運命を……切り開くわよ)


 その時、メイは自身の手に光が宿るような錯覚を抱く。

 金色に輝く手元は、次の場面を引き寄せる。

 メイの今後を占う大事な一歩となった。

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