第174話 メイサイド-8
9時になると、暁少年鑑別局の方角から時報が鳴り響く。
それはサイレンのように大きな音で、まどろみの中にいたメイを叩き起こすほどのものであった。
その場凌ぎの変装に身を包み、メイは再び暁少年鑑別局の敷地へと戻る。
狭い駐車場には変わらず決まった数の車が駐車していた。
おそらく、ここの職員のものなのだろう。
他に駐車している車もなく、自分以外に訪問者がいないことをメイは察する。
そもそも、鑑別局に来訪する者は限られている。
この狭い駐車スペースが埋まることの方が稀なのだろう、とメイは思った。
建物は、一日が始まったばかりだというのに真っ白な外壁のせいかひっそりとして見えた。
先ほどの職員の姿も見当たらない。
玄関の前に再度立つと、ガラスのドア越しに清楚な身なりの若い女が姿を現した。
彼女は、先ほどの男性職員とは違い、フレンドリーな笑みを浮かべながら手を前に差し出してくる。
土曜日に訪ねた時に対応してきた中年の女とも雰囲気がまるで違った。
来客が一人外で待っている、との話が行き届いていたのかもしれない。
その手に導かれる形でメイは局内に足を踏み入れるのであった。
女はメイが制服姿であることにまったく動じる様子もなく、フランクに話しかけてくる。
「どこで待ってたの?」
いかにも官員らしい落ち着いた話し方。
少しばかり威圧感も含まれ、その距離は近い。
「……すぐ近くの公園……」
基本的にコミュニケーションが苦手なメイの嗅覚は鋭い。
すぐさまメイの警戒ランプに火が灯る。
普段、クールに気取っていても根はやはり子供なのだ。
好き嫌いのベクトルで判断することも多かった。
女はそんなメイの不信感を気にする様子もなく、馴れ馴れしく話を続けてくる。
「ごめんなさいね。規則で入れることができなかったの」
そう口にする彼女は自身の身を明かした。
(法務教官……)
先の男とは、明らかに雰囲気が異なっていたのでその話を聞いたメイはすぐに納得する。
つまり、将人を指導、管理する立場の人間であった。
体は催眠術にでもかけられたかの如く、自然と反応してしまう。
受付の前まで案内され、そこに立つとメイは女性教官と向き合う形となった。
女はなぜか気遣うようなトーンで話しかけてくる。
「昨日は大変だったでしょ。わざわざ来たのにトンボ返りだなんて」
「えっ?」
突然、ありもしない出来ごとに自分が巻き込まれているような錯覚がしてメイの頭は混乱する。
だが――。
「そこで電話借りてたでしょ?」
その言葉を聞き、メイは彼女が伝えようとしている意図を汲み取る。
おそらく、昨日受付の職員に電話を借りていた姿を見られていたのだろう。
けれど、疑問があった。
今のメイは昨日とはメイクを変えて、カチューシャとブルーライトメガネで変装している。
服装だって髪型だって違うのだ。
(なんで分かるのよっ……)
暖簾に腕押しよろしく、努力が無駄であることを指摘されたような気分で、メイの中では先ほどとはまた違う焦りが生まれる。
そんなメイの疑問に気づいたのか。
女性教官は笑顔を浮かべ、フレンドリーにこう解答を口にする。
「その綺麗な髪と瞳。羨ましいわ」
彼女はメイの姿が昨日とまったく異なることについては言及してこなかった。
特に意味があるとは思っていないのだろう。
そのような理由で正体を見抜かれたことに、ハーフであることの息苦しさを再認識するメイであったが、女が根掘り葉掘り訊いてくることはなかったのでその点はひとまず安心する。
「実はあなたを見かけるのはこれで3回目なの。この間の土曜日も家裁の調査官の女性と一緒に来てたでしょ?」
「っ!?」
どこか見抜かれたようなその声にメイは言葉を詰まらせてしまう。
だが、やはり彼女が何か追及してくることはなかった。
「ちょっと待っていて。すぐに書類の準備をするから」
いかにも事務的な笑顔を口元に灯すと、彼女は受付で手際よく何やら準備を始める。
女性教官は、まだ学生と言われても信じてしまいそうな容姿であった。
カリフォルニアのハイスクールで自立心の強い学生に囲まれてきたメイでも、彼女のようにしっかりとした立ち振る舞いをされてしまうと、さすがに萎縮してしまう。
自分が小さく感じられてしまうのだ。
「……生田将人はこれから技官と心理テストに入るの。でも、すぐ終わると思うから、少し待っていてくれるかしら。その後で本人に面会の意思を確認するから」
メイは「これに記述をお願い」と付け加えた彼女から一枚の紙を受け取る。
最初に訪れた際に美羽子が記入していた用紙だろう。
「…………」
まるで、用意周到に罠へと導かれているような気分であった。
すべてが女性教官のペースだ。
メイが一番懸念しているのは、〝将人の妻〟という嘘がバレて、結局面会に持ち込めないことであった。
しかし、昨日の段階で別の職員から面会の許可は得ている。
どちらにせよ、受け取った用紙の必要事項をすべて埋めれば答えが分かる、とメイは思った。
メイは〝続柄〟という項目だけ何食わぬ顔で嘘の記述をし、それを彼女に渡した。
用紙を受け取った女性教官は、埋められたそれらの項目に一点ずつ目を通していく。
その間、メイは気が気でなかった。
だが、結局それは杞憂に終わる。
形式的なものに過ぎなかったのかもしれない。
「奥さんね」
彼女は妻である証明を出せとも言わなかった。
射抜くような鋭い瞳が一度だけメイに向けられただけだ。
「それじゃ、待合室へ案内するわ」
メイは彼女の後に続いて薄暗いリノリウムの廊下を歩く。
前回、訪れた時と同じく、内観の至るところに傷や汚れが目立った。
今日はまだ朝も早いせいか、中庭のグラウンドからは何も聞こえてこない。
揺れる黒い後ろ髪に目を奪われながら歩いていると、女性教官はメイの方を振り向くわけでもなく、独り言のように声を漏らした。
「私もね。学生の頃、刑務所に入った彼氏と付き合ってたことがあったの。あなたのようによく面会に訪れたわ」
甘い青春時代を懐かしむような優しい声。
親近感を抱いている、というアピールなのかもしれない。
「…………」
しかし、メイにはその話が本当のことだとは思えなかった。
根本からして違う世界の住人。
メイが彼女に下した振り分けだ。
規則正しい歩調、洗練された立ち振る舞い、手入れの行き届いた容姿。
どれも幼少時から徹底的に叩き込まれた習慣に違いない、とメイは思う。
そもそも、国家公務員となる人間が罪を犯した男と付き合うとは思えなかった。
彼女としては職業的に染みついたフォローのつもりなのだろうが、皮肉にもそれはメイの評価を決定づけさせた。
その後も彼女の一方的な回想は続いたが、メイは気を許すことなくあくまでも無関心のスタンスでやり過ごした。
最終的に効果がないと悟ったのか、女性教官はメイを待合室に通すと、ここで待っていてとの言葉を残して足早にその場を離れた。
「ふぅ……」
メガネを一旦外し、深呼吸をする。
そこでようやくメイは安堵を手に入れた。
張り詰めていた緊張の糸が弛む瞬間であった。
狭い小部屋は、四方をコンクリートに囲まれており、外世界とを繋ぐ役割りの窓も取りつけられていなかった。
ソファーとテーブルが遠慮気味に置かれているだけだ。
しかし、メイにとってこの空間は別段居心地の悪いものではなかった。
独りで居ることに慣れ過ぎてしまったせいだろう。
ソファーに腰をかけて天井を見上げると疲れが一気に押し寄せてきた。
内縁の妻であるという嘘が見過ごされたのはよかったが、肝心の将人がそれを受け入れるかは賭けであった。
しばらくそのままソファーに腰をかけていると、メイの脳裏に突然哲矢とはしゃぐ光景がフラッシュバックする。
(そっか。この場所って……)
気持ちが高揚していたために気づくのが遅れたが、この待合室は初めて将人の元を訪れた際に通された部屋と同じであった。
つい先日のことなのに遠い過去の出来ごとのようにメイには感じられる。
(テツヤとの壁がなくなったのもここがきっかけだったわよね)
そんな懐かしい感傷を抱きつつ、メイは目を閉じてあの日の空間に身を浸した。
耳を澄ませば、数日前の笑い声が甦って聞こえてきそうであった。




