第17話 憂鬱な朝は
この日の朝の目覚めは最悪だった。
睡眠はしっかり取ったはずなのに、体がだるくて起きるのに手間取ってしまう。
哲矢がベッドから起き上がる頃には、部屋の中は強烈な朝の陽光に包まれていた。
びっくりして時計を確認する。
デジタルの表示は6時53分を指していた。
昨日、一昨日よりもかなり遅めの起床となっていた。
哲矢は慌てて1階のバスルームへと駆け込む。
体を洗い流して拭き終えると、自室へ戻り急いで制服に着替える。
その時、学習机の上に置かれたままの食事に目がついた。
(やべぇ。やっちまった……)
せっかく洋助が作ってくれた昨日の夕食に手をつけず、寝てしまったらしいことに気がつく。
ぎゅるるるっ~。
食事のことを考えたせいか、途端に腹の虫が鳴った。
「温めて食べ直すか」
哲矢はトレイを持って忍び足でリビングに顔を出す。
誰とも顔を合わせたくなかったが、そんな哲矢の願いも虚しく、リビングでは美羽子が慌しそうに赤いキャリーケースの中に荷物を詰め込んでいた。
彼女は一度哲矢に目を向けると、驚いたように口を開く。
「今日は一段と遅いのね」
「お、おはようございます……」
美羽子は反射的にかけ時計に視線を飛ばした。
「ヤバっ。もうこんな時間じゃんっ! ごめんね! 今日は朝なにも作ってあげられてないんだけど……」
そう口にした美羽子の視線は、哲矢が手にしたトレイへと注がれた。
哲矢は弁解するように「いやっ、これは……」と短く呟くがその後の言葉が続かなかった。
怒られると思い、とっさに覚悟を決める哲矢であったが、彼女からはまったく予想外の反応が返ってきた。
「そこにレンジがあるから温めるといいよ。こんなこと言ったらあれだけど、こっちも丁度助かったし。洋助さんはもう出かけているから。内緒ね」
「すみません……」
美羽子は笑顔でウインクを返すと荷詰めの続きに取りかかった。
キッチンのレンジに食事を入れながら哲矢はふと思う。
(なんだか萎縮したり謝ったりしてばかりだな……)
レンジの中で回転する竜田揚げのプレートを眺めながら、哲矢は途端に自分自身が情けない存在に思えてきた。
すると、そんな哲矢の思いを知ってか知らずか、結果的に追い討ちをかけるような質問を美羽子が投げかけてくる。
「……そういえば、昨日あの後すぐに部屋へ戻ったけど、体調は良くなった?」
「体調? あ、ああ……。はい」
「そう。声をかけても反応がなかったから。別になにもなかったのならいいんだけど」
「ごめんなさい。頭が痛かったので昨日はすぐに寝てしまって」
「いえ。いいのよ。あんなことがあった後だったから少し気になっていただけ」
「…………」
なぜ、こんな小さなことでも自分は嘘を吐いてしまうのだろうか。
罪悪感がさらに哲矢を苦しめる。
おそらく美羽子もこちらが適当な嘘を吐いて誤魔化していることに気づいているに違いなかった。
けれど、美羽子がそれ以上何か追及してくることはない。
話はそこで終わってしまう。
表面をただなぞっているだけという風に感じられた。
きっとそこまで興味を持たれていないのだろう、と哲矢は思う。
3日間一緒に暮らしてみて分かったことだが、美羽子は上辺だけでしか会話をしてこない。
実際は何を考えているのかは分からなかった。
だから、未だに警戒してしまう部分がある。
(まぁでも……俺も人のことは言えないけどな)
美羽子にしても、こちらに同じような思いを抱いているに違いなかった。
そんなぎこちない二人の関係は平行線を辿ったまま4日目を迎えようとしていた。
チンッ。
レンジが軽快な音を立てて温め終わったことを知らせてくれる。
プレートをトレイに載せ、哲矢はダイニングのテーブルまでそれを運ぶ。
急いで食べないといけない時間ではあったが、これは結果的によかったのかもしれない。
早く教室に着いたところで居場所なんてないのだ。
だったら、ぎりぎりで登校した方が賢明と言える。
唯一信頼できそうな花とは昨日微妙な感じで別れたっきりだった。
今日はどう接すればいいのか。
なんだかそんなことを考えるだけでも億劫であった。
あまり深く考えず無難に一日を乗り切ることだけ哲矢は念頭に置く。
「やっと終わったぁ……。はぁ~。荷物が多いのよね……」
美羽子は赤いキャリーケースに物を詰め終わったのか、ようやくひと息つくように哲矢の向かいのテーブルに腰をかける。
その近くにはいつの間にか現れたマーローの姿があった。
彼女はその大型犬の頭を撫でながら、癒しを補給しているようであった。
(そういえば……国家公務員でも土曜日って仕事があるのか?)
キャリーケースを持ってどこへ出かけるのかは分からなかったが、家庭裁判庁の調査官の仕事が色々と大変であることは、この数日間彼女と行動を共にして理解できていた。
そんな風に疑問を浮かべる哲矢の心を読み取ったのか。
美羽子は誤解を解くように身振りを交えながら弁明してくる。
「ああ、これは違うのよ。明日自宅へ帰るからその準備をね」
「自宅?」と、哲矢は思わず驚いて聞き返してしまう。
「だって、ここでずっと生活をしているわけじゃないから。次に戻ってくるのは週明けね。……って、そっか。関内君とは今日で最後よね?」
「えっ?」
「だって、今日で最終日でしょ」
美羽子にそう言われ、哲矢は当たり前の事実を思い出す。
そうだ。
今日でこの少年調査官の務めも終わるのだ。
ただ、メイはまだこの宿舎に留まり続ける。
この生活が今日で終わるのは俺だけなのだ、と哲矢は思った。
(…………)
それが分かると、なぜか胸が詰まりそうになった。
だが、すぐに哲矢は喉元まで出かかった感情を静かに押し戻す。
(これ以上、ここで暮らすことに未練なんてないだろっ……)
必死で自分にそう言い聞かせる。
美羽子はさばさばとした口調でこう続けるのだった。
「だから、関内君も今日中に荷造りお願いね」
「……分かりました。学園から帰ったら準備します」
動揺を隠すように哲矢が簡潔にそう答えると、マーローが気怠そうに「くぉ~ん」と短く吠える。
「あれっ? もしかして寂しかったりする?」
「いえ。全然そんなことないっすよ」
素っ気なくそう返すと、哲矢は目の前の食事に手をつけ始めるのだった。
◇
穏やかな朝の時間が静かに流れる。
食後、哲矢は食器をキッチンで洗っていた。
美羽子はマグカップに入れたコーヒーをリビングのソファーに座りながら啜って雑誌を捲っている。
「あっ……」
すると、彼女は突然何か思い出したように声を上げた。
「そういえば、今日って午前で授業が終わるんだっけ?」
「……ああ。なんかそんなこと言っていたような」
昨日、帰りのホームルームが終わるとすぐに社家がやって来て、『明日は午前中で授業が終わりだから』と声をかけてきたことを哲矢は思い出す。
公立の学校なのに土曜日にも授業があるのかと、その時、哲矢は少し同情の眼差しでクラスメイトを見渡した。
哲矢の通う地元の高校は土曜日に授業はないからだ。
「それじゃ、帰ってきたら少年に会いに行きましょう」
「えっ? 少年って……」
「生田将人のことよ。当たり前じゃない。最終日だし一度くらい彼に会っておいてもいいと思うの」
「…………」
なぜか哲矢は、これまで将人や事件のことをどこかリアリティの欠く存在のように捉えていた。
書面だけの出来ごとだと勝手に思い込んでいたのだ。
ここへ来ることができたのもそんなフィルターがあったからこそだ、と哲矢は内心思っていた。
だが、実際に宿舎で生活を送り、宝野学園に通って将人の自宅のリアルを覗いてしまうと、そうした思いは徐々に薄れていった。
そして、ついに今日将人本人と会うのだという。
この一線を越えてしまえばもう他人ごとではいられなくなるだろう、という予感のようなものが哲矢の中にはあった。
今なら引き返すこともできる。
『絵空ごとの事件』に適当な感想を述べて終わらせることだってできるのだ。
けれど、そんな風に逃げることは果たして正しいことなのだろうか。
ふと、そんな感情が沸き起こってくる。
一線を越えた先にある景色は何もネガティブなものとは限らないはずだ、と哲矢は思う。
微かに希望も見え隠れしている。
(……それを俺はずっと探し求めていたんじゃないのか?)
突然の動悸が哲矢を襲う。
胸が息苦しく感じられる。
そんな変化を悟られまいと必死で堪え、哲矢は美羽子に向けて何でもなさげにこう口にした。
「そうですね。分かりました」
会うのをやめたければ、まだ引き返すことだってできる。
そのようにして、哲矢は自身と向き合うチャンスへと近づいていくのであった。
「いけないっ! あまりゆっくりしてる暇もないんだった!」
美羽子は飲みかけのマグカップをキッチンの流しに置くと、バタバタと慌ただしく出勤の準備を始める。
神出鬼没のゴールデンレトリバーはすでにその場から姿を消していた。
哲矢も洗い物を終えて登校の準備をするために自室へ戻ろうとするが、その途中で美羽子に止められる。
「学園が終わったらすぐに宿舎へ帰ってきてね。私も昼過ぎには戻れると思うから」
「はい」
自分の部屋へ入ると、哲矢はベッドに体重を預けて横になり天井を見上げた。
このまま眠りについてしまいたい衝動に駆られるが、必死でその怠惰感を振り払って起き上がると、哲矢は再び頭を働かせた。
賽は投げられたのだ。
もうどこかへ後退する余剰スペースはない。
あとは前に進んで、自らの力で切り開いていくしか道は残されていない。
「はぁっ……」
まだ一日も始まったばかりだというのにため息が漏れる。
それは廊下まで聞こえてしまいそうなほどの深いため息であった。
ふとそれに反応するようにドア越しから美羽子の大きな声が響く。
「あとっ! メイちゃんは体調不良で休むみたいから。戸締りもよろしくね~!」
哲矢が何か答える前に口早な美羽子の声は途絶え、あとには慌しい音が断続的に続いた。
それからしばらくすると、宿舎に静けさが戻ってくる。
哲矢は鞄の中に教科書が入っているかを確認してから部屋を出る。
リビングからは美羽子の姿が消えてなくなっていた。
ふとメイのことが気になり、哲矢は階段を見上げる。
リビングにいなくてもまったく気に留めなかったが、やはりそうかと哲矢は思った。
脳裏に甦るのは、昨日の昼間の出来ごとだ。
(これも逃げってやつか……。少なくとも俺は通学するつもりだ。やっぱり、俺とお前は違うんだよ)
哲矢は物音一つしない2階を睨みつけながら、「行くか」と自分にしか分からないくらいのボリュームで呟くと玄関を開けて外へ出た。
朝の眩しい光が哲矢の全身を優しく包み込むのだった。




