第169話 花サイド-18
「待ってくださいっ!!」
鋭く響く声は、放送室から出ていこうとする翠の足を止めるのに十分であった。
外へ吐き出すことで初めてその全容が伝わり、事の大きさに怯む花であったが、一方の静観した感情は事態を冷静に把握していた。
言葉は閊えることなく続く
「追浜君たちに、私言わなきゃいけないことがあって……」
翠はドアノブに手をかけたまま動きを止めていた。
後ろ姿からは表情を読み取ることはできない。
「謝りたいんですっ……!」
はっきりと断言するその声は、自分のものではないように花の鼓膜に響く。
全身からねっとりとした汗がじわじわと噴き出すのを花は感じた。
それが誰の汗であるのかさえ、今の花には区別がつかなくなっていた。
朦朧とする意識の境は曖昧となり、次第に目の前の翠へと集中していく。
とても長い夢を見ている気がした。
だが、それは悪夢なのだ。
錨<いかり>を下ろして、初めてその夢は終結する。
花は、その一投を〝彼女〟となら投じられる気がしていた。
360度水平線で囲まれる大海原のど真ん中で花はゆっくりそれを下ろしていく。
不思議と重さは感じない。
錨の先端が水面に反射し、陽の光を帯びていた。
眩しい煌きは先導するように花の声へ加勢する。
すると、宣告することは恐怖ではなくなった。
〝彼女〟に支えられながら、花はついに言わなければならないことを口にする。
「ごめんなさい……。私、追浜君が言うように、隠しごとをしてます」
翠は振り向くと、二重のラインをくっきりと刻ませた瞳を花へ向ける。
今朝の喧騒をどこか懐かしむような、そんな光輪を宿らせているように花の目には映った。
「そっか」
そう呟く翠の視線は1秒もしないうちに花から外れ、的を失った双眼は宙を彷徨うことになる。
どこか寂しそうな表情。
だが、気持ちは少しだけ晴々としているように見えた。
花には彼の本心の細部までは計り知ることはできなかった。
情を感じないと言えば嘘になる。
しかし、〝彼女〟は一切の妥協を許さなかった。
〝彼女〟は、一方しか救われない世界の残酷さを本能的に知っているのだ。
「でも、その内容については言えないんです。きっと迷惑をかけてしまうから」
誠意の込め方も徹底されている。
〝彼女〟は、いかにも日本人的な物腰で深々とした最敬礼を作り、話を決着させようとしていた。
正装が功を奏してか、ドレスは誠意の表れのようであった。
その姿を翠がどう感じたかは分からなかった。
「…………」
暫し間がある。
まだ半日も消化していない午前の総括をこの場にいない二人の分も含めて、翠は一身に背負うことになる。
濃密な時間をゆっくり回想するような、実直さが成しえる間の取り方であった。
それから翠は選択肢が一つしか残されていないことを悟るように「うん……」と短く口にする。
それ以上、彼が何かを訊いてくることはなかった。
(やっぱり、追浜君は大人だ)
〝彼女〟は、正直にすべてを打ち明けることよりも翠たちの安全を優先した。
話をしないことで、彼らに危険が及ぶのを避けたのである。
花としても非常に苦しい決断であった。
しかし、それは同時にメイの名誉を守ることにも繋がった。
メイがどんな気持ちで身代わりを買って出たのか。
最後の最後で、花は彼女の意志を思い出すことができた。
今まで頑なに昨夜の出来ごとを打ち明けなかったのは、そうした感情が心の淵で働いていたためかもしれない、と花は思う。
自身の心と向き合う経験を通じて、花の感情は一つに収束する。
気づけば、胸を熱く燃やす感情のうねりはどこか遠くへと消えてしまっていた。
そして、〝彼女〟の退場はやはりクールで、去り際を相手に悟らせない。
ただ一つ。
(あっ……)
存在の証明を密かに掲示するようにドレスが脱ぎ捨てられていた。
まだ温もりが残るそれに触れながら花は思考する。
次にこのドレスを着こなすのは私でなければならない、と。
「すみません……。それじゃ、私行きます」
花がそう告げると、翠は放心したように小さく頷く。
これまで対峙してきた間合いは、二人の温度差を表していた。
その溝を花は手探りに埋めていく。
やがて、互いが触れ合えるほどの近さ。
翠とすれ違えば、今度はドアノブに手をかけるのは花の番であった。
ガチャッ。
ドアノブを少しだけ回すと、廊下の光が漏れ出してきた。
まだ何も失われていない午前の光だ。
春の暖かな空気も混じって一緒に運ばれてくる。
ふと、放送室から消えてしまった野庭と小菅ヶ谷のことが花は気になった。
もしかすると、彼女らは春風に乗ってどこか遠くの街へと旅立ってしまったのかもしれない、と花は想像する。
頭に浮かぶのは、部活の帰り道の風景。
隣りに並ぶのは一緒に入学した女子二人だ。
一緒に駄弁りながら帰宅を共にした。
色々と話をした気がする。
だが、そのどれも今の花には思い出すことができなかった。
なぜかその二人の姿に重ねて、野庭と小菅ヶ谷の行方を花は思うのであった。




