第168話 花サイド-17 / 花の過去 その6
それからの花の物語は、麻唯に助けられ、将人に救われて、極彩色豊かなものへと劇的に変化してゆく。
だが、その煌々とした輝きは、今の花を照らしてはくれていなかった。
気持ちの整理もついているとは言い難く、麻唯や将人のことを思うと花の胸は締めつけられるように強く痛んだ。
〝本当に彼の冤罪を信じているの?〟
突然、そんな突拍子もない言葉が頭に思い浮かぶ。
ともすれば、計画の存続自体を揺るがしかねない発想だ。
(違うっ……将人君は社家先生にいいように丸め込まれて……)
反論は予め用意できていたが、証言が掲示するのは将人が麻唯を突き落としたという事実だけだ。
本人でさえもその犯行を認めているのである。
それをどうして否定できるというのだろうか。
思い当たる節はあった。
花には時々将人が何を考えているのか分からなくなる瞬間があった。
そんな時の彼は決まって遠い目をする。
いるはずのない誰かの影を追い求めるような、そんな暗鬱に満ちた表情だ。
また、麻唯はほとんど気にしていない様子であったが、クラスメイトが将人のことを〝昔と別人みたい〟と口を揃えていることに花は引っかかりを覚えていた。
話を紐解き詳しく耳を傾けてみると、以前の将人は積極的で行動派。
クラスの中心的存在だったのだという。
少なくとも、それは花の知る将人の姿ではなかった。
高校生となると、中学生時代とは異なり、色々と差が生まれ始める時期でもある。
残酷な青春のカーストから振るい落とされ、徐々にまとめ役のポジションから退いていった、と結論づけることは可能であった。
複雑な思春期を送る青少年の性格の一つとして、それは別段珍しいことではないだろう。
しかし、同級生の語るイントネーションは、〝別人〟という箇所を入念に意識しているように花には聞こえた。
まるで、過去に在籍していた将人はもうこの世に存在しない、とでも言うように……。
◇
不幸か幸いか。
花は昔の将人のことを何一つ知らなかった。
記憶にあるのは、教室の前の席で物静かに読書に耽る彼の背中。
はにかむように笑う優しい仕草。
怪獣のイラストを描くのが好きで、丹念に細部まで再現する時のペンを握る右手。
実は目を合わせることが苦手なほどシャイで、少しだけ頑固なところもあり、涙脆かったりもする。
それが花にとっての将人の全てであった。
外から支配された情報とはまるで重ならない将人の姿である。
出会ってまだたったの数ヶ月。
それだけの短い期間にもかかわらず、花は将人と一緒に居ると幼い頃から互いを知っているような関係になれた。
一度だけ。
10月の文化祭の帰り道。
ちょうどその日は、麻唯が生徒会の打ち上げに顔を出すため、花は将人と二人きりで下校していた。
いつもは麻唯が間に入って話を仲介してくれていたので、どうすればいいか緊張していた花であったが、意外にも将人の方から積極的に声をかけてくれた。
思っていた印象と違う、というのが花の抱いた感想だ。
将人は飾ることなくよく笑った。
一緒に三人で帰宅している時も、同じような表情を浮かべていたのかもしれない。
けれど、花はこの時に初めて将人の本当の笑顔を見たような気がした。
会話は予想以上に弾んだ。
文化祭の思い出話やお互いの好物、勉強の進捗など、話は尽きることなく続いた。
それは何気ない日常の一コマ。
夢中になって話していると、夜空を切り裂く一瞬の光芒が花の頭上を大股に横切った。
言葉にする間もなく、ただ花は天を見上げた。
素足を駆ける肌寒い秋の風。
踏みしめる落ち葉の感触。
ニュータウンに染み込んだ夜の空気。
そうした情報が一気に花へと押し寄せる。
そして、花が一番心を奪われたのは、流れ星さえ射抜きそうなほどの澄んだ将人の真剣な眼差しであった。
彼の横顔を覗いた瞬間、花はこれまで抱いたことのない感情の起伏を確認する。
「これ、川崎さんにあげるよ」
「えっ」
「仲良くなったしるしだから」
そう言って彼から手渡されたのはデフォルメ調の怪獣のキーホルダー。
男子の趣味全開の物なのに、花はそれを大切に受け取った。
それから花は将人を意識するようになった。
だが、秋が終わり冬が来ても、結局なぜ自分が彼のことを目で追っているのかが分からずにいた。
悠長にその理由を探しているうちに、将人は目の前から姿を消してしまう。
もう、自分の手の届かない場所へ行ってしまったのだ。
(そっか。だから、私……)
もう一度将人と会ってその正体を確かめたいんだ、と花は思う。
なぜ、今まで面会を避けてきたのかがようやく分かった。
それは、縛られた環境の下ではなく、お互いが自由な身でなければ意味がない。
(ちゃんとお話がしたい)
〝将人の冤罪を証明する〟という計画に賭ける最たる理由。
それを再認識し、花は回想から離れる。
―――――――――――――――――
現実の花はいつの間にかテーブルを離れ、翠の後を追うように立ち上がっていた。
上履きのつま先にギュッと力を込めると、フローリングの床にゴムの擦れる音が小さく響く。
久しぶりに体感するリアルな音だ。
これまで胸を騒がせていた焦りはどこかへと消え去ってしまっていた。
(大丈夫……。麻唯ちゃんも絶対に目を覚ます)
過去は今に繋がっているのだ。
麻唯と将人。
二人と過ごした日々は決して褪せることはない。
そう花が確信した瞬間――。
(あっ……)
意識を再び観念世界へ戻すと、花はちょうどステージへと駆け上る影とすれ違うところにいた。
輝く赤いドレスを纏ったその少女は、花の存在に気づかない。
足元は迷いなくコツコツとヒールを響かせながら、一段ずつしっかりと踏み込んで登っていく。
ハートカットネックの大きく開いた白い背中に目を奪われ、花は一瞬、〝彼女〟がもう一人の自分であるという事実を忘れてしまいそうになる。
(ようやく登場だね)
階段を登り終えた〝彼女〟は、舞台袖からステージへと進んでいく。
その姿を花は瞳に焼きつけた。
背丈や顔つきは同じなのに、とても大人びて見える。
照明の影響もあってか、両者明暗のコントラストは艶やかに二分されていた。
(キレイ……)
最後にはスッと輝くステージの中へと吸い込まれるように〝彼女〟は消えてしまう。
花は余韻とも言える残像を手でなぞりながら、すでに権限が交代していることを実感する。
一歩、二歩と――。
願いを込めるように花は階段を下り始めた。
(お願い、追浜君に届けて……)
下まで降りてしまうと、そこからは舞台を臨める傍観席が見えた。
花はそこへ着席し、〝彼女〟の引き継ぐ意思が翠へしっかり伝わることを祈る。
幕は今まさに開けようとしていた。




