第165話 花サイド-14 / 花の過去 その3
それから後のことは、花はよく覚えていなかった。
とんとん拍子に事が進んだ気もするし、長く険しい道のりであったようにも思えた。
その間、両親の助けがあった。
決して近いとは言えない距離を送り迎えしてもらい、宝野学園へ何度も足を運んだ。
筆記試験の勉強よりも面接対策を重点的にこなした。
書道部に顔を出し、顧問の前で書を書き重ねた。
そんな断片の記憶は甦ってくるのだが、詳細は大きく欠落していた。
どれも上手くいった印象はない。
とても緊張していたし、本来の力は出せなかった。
ただ、入学に賭ける想いは、他の誰にも負けないつもりだった。
桜ヶ丘市に降り立ち、ニュータウンの空気を吸う度にその気持ちは日に日に強くなっていった。
そして、中学校生活も終わろうとしていた冬の日。
合格の通知が家のポストに投函されていた。
最後に宝野学園を訪れてからかなりの時間が経過していたので、可能性は薄いと花は覚悟していた。
(これがダメなら、死ぬしかない……)
花は本気でそう考えていた。
ライバルたちに差をつけられ、恥を晒しながらこの街で生きるくらいなら、消えてしまう方がまだ花の気持ちは楽であった。
母も口にはしなかったが、その思いは薄々勘づいていたかもしれない、と花は回想する。
結局、花が受賞して以来、母が何かを咎めてくることは一度もなかった。
すべての試験が終わってからの花は、抜け殻のように心在らずの日々を過ごしていた。
生きているのか、死んでいるのか。
その境はひどく曖昧で不確定であった。
そんな灰色の毎日をどう乗り越えたのか。
やはり、よく覚えていない。
記憶にあるのは、合格通知を手にした封の感触と、抱き合い全身で喜びを共にした母の体温だった。
〝……ごめんね……〟
その時、母の涙に混じってそんな声が花に聞こえた気がした。
単純にまだ書道を続けられることが嬉しかった。
重責は解かれ、花は自由を肌で感じていた。
そんな進学を控えたある日。
入学案内のため、両親と宝野学園を訪れる機会があった。
待ち時間の際、事務員の女がこっそり教えてくれたことがある。
「実は……」
彼女は、花にだけ聞こえるように小声で耳元に話しかける。
「高等部からの入学者はあなた達が初めてなのよ」
そのため、詳細な入学手続きはまだマニュアル化していないのだという。
また、この年は、花のほかにも二人の女子生徒が合格を果たしたらしい。
受験はごく限られた者たちにしか許可されなかったようだ。
なんだか恐れ多いと感じる一方、自分の能力や経歴が高く評価されたことについては、花は悪い気がしなかった。
街の同級生や書道家たちにも示しがつくと思ったのだ。
これから体現しようとしている書の形は今までとは異なるが、その方面の大会で近年優秀な成績を残している学校に狭き門を抜けて見事合格を果たしたのだ。
イメージとしても上々と言えるだろう、と花は思った。
「川崎さんがいなくなるのはこの街にとって大きな損失です」
どこで噂を耳にしたのか。
道場の師範は、花が話を切り出す前にそう惜しみの挨拶を述べた。
期待させてしまったことに申し訳なく感じる反面、これ以上この街で書道を続けても御眼鏡に適う成果が達せられるとはこの時の花にはどうしても思えなかった。
何よりプレッシャーに弱いことを花自身が一番よく知っていたし、周りが過大評価していることにも気づいていた。
(これでよかったんだ)
むしろ、潮時を見誤らなかった自分をもっと褒めるべきだろう、と花は思った。
こうして、花は最低限の世間体を維持したまま、故郷から逃げ出すことに成功する。
新しい街での新しい暮らしに夢を抱きながら――。
◇
しかし、花の学園生活は出だしから躓いてしまう。
あえて見ないようにしてきた〝特殊な条件〟の部分の異常さが実際に生活を始めてみて、如実に浮き彫りになってきたのだ。
それが足かせとなり、スタートは非常に奥行きの詰まったものとなってしまう。
中でも花が一番辛かったのは、コミュニケーションがほとんど取れないことであった。
どちらかと言えば、人見知りをするタイプの花であったが今まではそれなりに上手くやってきた。
だから、1ヶ月もすれば自然とクラスに溶け込めるだろう、と楽観視さえしていた。
けれど……。
実際は麻唯と出会うまでは宝野学園に馴染むことはおろか、クラスメイトたちとの会話すらままならなかった。
哲矢やメイと同じだ、と花は思う。
途中から敷居を跨ぐ者は、その毒気に必ずやられる。
努力以前の問題なのだ。
相手側には話そうとする姿勢がない。
無視というよりも存在の拒絶に近い。
それは、自己紹介のために初めて教壇に上がった瞬間に気がついた。
教室に張り詰めた空気は、これから先3年も続く闇の深さを悠然と物語っているように花には思えた。
一難去りまた一難。
これなら、故郷に留まっていた方がまだよかったのではないだろうか。
そんな疑問は花の学園生活の始まりに常に付きまとった。
後になって分かることなのだが、その独善に満ちたジャッジの行方はニュータウンの出身であるかに懸かっている、ということにあった。
中等部も含め、宝野学園全体を見渡してもこの条件に適合しない者はほとんどいない。
言わばそのステータスは、宝野学園で息継ぎをするために必要な酸素ボンベのようなものなのだ、ということを花は学習する。
それがなければ、やがては窒息してしまう。
自己紹介の最中、花はあまりの寒々とした状況に耐えられず、助け舟を貰おうと臨時で来た教師に声をかけた。
ある種のパニック状態に陥っていたのである。
この時はまだ、大勢の生徒から敵意の眼差しを受けることに花は慣れていなかった。
だが、教師は助けを求めてくることを予め見透かしていたかのように、ただ冷淡な笑みを浮かべるだけに留まった。
その瞳を覗いた瞬間、ゾッと戦慄したことを花は今でも覚えている。
鬼でも宿したような双眼を携える彼こそ、社家その人であった。
まるで、真夜中の海原に一人放り出されたような気分であった。
掴まるものがなければ溺れるだけ。
ボンベの代わりなど存在しない。
彼の目はそう訴えかけていた。
それ以来、花は教師が助けとならないことを悟り、宝野学園で生き抜く術を模索していくことになるのであった。




