第161話 花サイド-10
どれくらいの時間が過ぎただろうか。
「…………」
花の肘はスチールの冷えた感触の上にあった。
おそらくテーブルに伏しているのだろう。
状況を確認したい花であったが、瞼は思うように開かなかった。
随分と泣いたのかもしれない。
瞳の奥がひどく熱い。
きっと赤く腫れているに違いない、と花は思った。
目を開けようと試みること数回、ぼんやりと視界が開けてくる。
花が最初に目を向けたのは、室内に掛けられている時計であった。
長針は9時43分を指している。
どうやら今は、一時間目と二時間目の間の10分休みのようであった。
次に部屋の中を見回す花であったが、そこにはすでに翠たちの姿はなくなっていた。
辺りはしんと静まり返っている。
まるで、今までの出来ごとはすべて夢である、とでも言うように。
けれど、テーブルには四つの湯のみと食べかけのクッキーが並べられていた。
辛うじて現実であったことを花は思い出す。
「……っっ……」
フローリングの床から花は体を起こす。
節々は痛んだが、立ち上がるのには問題なさそうであった。
ミキシングコンソール越しに見えるブースの中も覗いて確認するが、やはり彼らの姿はなかった。
(授業に戻ったのかな……)
そんなことを花がぼんやり考えていると――。
キィ……。
遠慮気味な音を鳴らして、放送室のドアがゆっくりと開く。
緊張の面持ちで中を覗き込む顔があった。
「あれ……」
驚きの声を上げたのは翠だ。
彼はバツの悪そうな表情を浮かべながら放送室へと入ってくる。
「も、もう大丈夫っ?」
今まで伏せていたことを訊いているのだろう。
花は小さく頷いた。
「はい……」
「そっか。よかった」
安心したのか、翠は胸を撫で下ろす。
本当に心配してくれていたのが伝わってくる。
彼は、後ろに控えている野庭と小菅ヶ谷にその旨を伝えた。
時より見せるそんな三人の信頼関係が花には微笑ましく感じられた。
「んしょっと」
翠たち三人は、再びテーブルを囲むようにして座る。
「でも、大磯先生に言ってあったんだ?」
「言ってあった、ですか?」
身に覚えのない問いを翠に投げられ、一瞬何のことか花は混乱する。
その反応を見て言葉足らずと認識したのか、翠はすかさずフォローを重ねる。
「いや、立会演説会の準備でさ。今日の授業出なくていいんだね」
「あ……」
その時になって花は気づいた。
翠たち三人は立場が違うのだということに。
授業に出ていなければ立派な無断欠席となり、教師らに素行を疑われかねない。
(しまった……)
巻き込んでおきながら、一人だけ安全な場所にいるのでは彼らも思うところがあることだろう。
しかも、授業が免除されている旨は翠たちに伝えていなかった。
花は無意識のうちに再びその言葉を口にしてしまう。
「ごめんなさいっごめんなさい、私っ……」
「ストーップ!!」
「――ふぇ?」
「なにを気にしてるのか分からないけど、べつに謝る必要なんてないよ」
翠は花の心を見透かしたように答える。
「僕らは自分の意思でここにいるんだから」
笑顔を作ってそう返す。
無理に笑っている様子はない。
「で、ですけど……」
それでも花は食い下がる。
謝ることを止められたら自分の存在意義がなくなってしまう、と思えてしまったのだ。
そんな強迫観念にも近い妄想を掻き立てる花であったが、翠は淀んだ空気を払拭するようにわざとらしく高笑いを響かせる。
「ふふふっ。大丈夫っ! ちゃんと休む許可も得てるし」
腰に手を当て、自慢そうに胸を張る。
翠のオーバー気味なリアクションに目を奪われ、大事なことを聞き逃しそうになる花であったが――。
(……っ。待って、それって……)
翠の言葉の裏に隠された真意が浮かび上がってくる。
彼らが授業を休む許可を得たということは、まだ花は信用を完全に失ったわけではないことを意味していた。
もう一度、手を差し伸べようとしてくれているのだ。
種明かしをするように、翠は両手を体の前に広げてこう続ける。
「実は、さっきまで教室に戻ってたんだ。大磯先生に数Ⅲの授業を無断で欠席したことを謝るためにさ。当然、職員室行きだと思ってたんだけど、先生は〝お前らが休む話なら聞いてるぞ〟って言って。状況が飲み込めなかったから相槌を打って続きを聞くと、さっきの話が出てきたわけ。演説会に関わる生徒は授業を休んでも構わないんだって」
「そうなんですか?」
それは花にとって初耳だった。
てっきり、立候補者だけが対象だと思っていたのだ。
運営委員に詰めて確認しなかったせいかもしれない、と花は思う。
しかし、疑問点はそこだけではなかった。
そもそも、花は翠たちが立会演説会を手伝ってくれるという話を教師に説明していない。
(なら誰が……)
不思議そうに眉間を寄せる花の表情に気づいたのか。
翠はそれも予測済みと言わんばかりに誇らしげに口にする。
「授業の前にどうも稲村ヶ崎君が言ってくれたみたいなんだよ。僕たちは川崎さんの手伝いに行っているって。多分、気を利かせてくれたんだと思う。もしかしたら、今朝のチラシ配りをどこかで見てたのかもね。大磯先生は特に疑問に思わなかったみたい。ほら、あの人って〝我関せず〟って一匹狼みたいなところがあるでしょ?」
そこまでしゃべり終えた翠は、わおーんと吼えるポーズを作る。
狼というより犬に近いモノマネだったが、花は場を和ませようとする彼の努力に応えるべく大げさに頷いてみせた。
(……でも。稲村ヶ崎君が……)
昨日、多目的ホールで一兵と口論になったことを花は思い出す。
〝犯罪者〟と、彼は躊躇うことなく将人のことをそう呼んだ。
それは一日経った今でも納得できない言葉であったが、花はどこか一兵を恨むことができずにいた。
(昨日、あんな態度取ったのに、庇うようなこと言ってくれて……)
複雑な感情が入り混じる中、花は心の中で一兵に感謝の言葉を呟くのだった。




