第16話 予期せぬ幕切れ
「……我が国の少年犯罪は年々複雑化してきております。事件の動機や背景を探っただけでは少年の心の奥深くまでは辿ることができないのが現状です」
「そこで政府は、同世代の若者たちに事件を起こした少年と同じ環境で生活を送ってもらう、という少年調査官制度の導入を検討し始めました。彼らなら少年と同じ感性で物事を考えることができ、それが事件の真相究明に繋がるのではないかと考えたのです」
「まだ試用の段階なのですが、全国から無作為に若者を選出し、実際に彼らに事件の解決に協力してもらっております。関内君はそれにより選ばれた少年調査官なんです」
そこまで美羽子は一気に話すと、湯のみに口をつけて温かなお茶を啜った。
謙哉は美羽子の話に真剣な表情でじっと耳を傾けていた。
否定とも肯定とも取れない感情を欠落させた顔でその話を咀嚼している。
哲矢はそんな二人の様子を正座しながら見つめていた。
嫌な汗が背中を伝ってゆっくりと落ちるのが分かった。
隣り部屋から流れるテレビの音量は相変わらずうるさい。
美羽子は場の様子を汲み取るように頷くと再び話を再開させた。
「……関内君には昨日から将人さんのクラスに通い始めてもらっています。もちろん身の内は伏せてです。彼はそこで将人さんの環境を追体験しております」
「お恥ずかしい話ですが、私たち調査官は彼らの感性に期待しております。大人では見えないものを感じ取ることができると信じているからです」
哲矢にとってそんな話はまったくの寝耳に水であった。
美羽子がそんな期待を寄せてくれていたとは考えてもいなかったのだ。
プレッシャーに感じる反面、嬉しい気持ちも少しだけあった。
もう長い間、誰かから必要とされる喜びを忘れていたことに気がつく。
遡るのならそれは中学時代まで辿らなければならない。
「…………」
そんな哲矢の動揺とは対照的に、謙哉は高座椅子に深く凭れたまま微動だにせず難しい顔で黙り込んでいた。
先ほどまでの優しそうな表情は影を潜め、不満を腹の底にため込んでいるかのようにも見える。
美羽子はその謙哉の態度を特に気にする様子もなく、静かにこう切り出した。
「警察に何度も訊かれたと思うのですが、今一度、将人さんの普段の生活がどのようなものだったか、話して頂けないでしょうか?」
それが今回美羽子が一番訊きたかったことなのだろう。
彼女は今度は湯のみの縁をゆっくりと指先で撫でて、答えを待つように口をぐっと閉じた。
「…………」
それでも謙哉は変わらず下を向いて押し黙っている。
数分前の彼とは別人になってしまったかのようであった。
すると、突然隣り部屋のふすまが乱暴に開かれ――。
「帰ってくれッ!!」
そんな怒号が室内に響き渡る。
倫子が大声でそう喚き散らしながら乱入してきたのだ。
冗談ではなくその声量だけで平屋が壊れるのではないかというほどの迫力があった。
華奢な体の一体どこにそんなエネルギーがため込まれていたのか、哲矢は不思議でならなかった。
彼女は狂ったように叫び続ける。
「帰れぇェェッ~~!!」
奇声と言った方が正しいかもしれない。
謙哉は下を向いたまま何かを唱えるように呟いている。
倫子は近くに落ちていた和食器の皿を拾い上げ、まさにそれを投げようとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ! 私たちはただ話を聞きに……」
さすがに事態の深刻さを悟ったのか、美羽子が立ち上がって場の調停を試みようとするが、まったく会話のキャッチボールが成立しない。
「あたしらは関係ないッ!! あいつが勝手にしたことだ! 消えろッ! 消えちまえぇぇッ~~!!」
まるで、悪魔が乗り移ったかのように、倫子は激昂して同じ言葉を繰り返した。
これ以上交渉しても無駄だと理解したのだろう。
美羽子は哲矢の手を取って立ち上がると、走って玄関まで戻る。
(な、なんだよ……これっ……!)
増幅された人間の悪意がこれほどまでに強大なものだとは哲矢は知らなかった。
去り際、来る時は気づかなかったが、玄関には沢山の写真立てが飾られていた。
娘夫婦と旅行へ行った際に撮られたものだろうか。
倫子も謙哉も共に笑顔を浮かべている。
孫と一緒に撮ったと思われる写真も飾られていた。
その中に将人の写真が一枚も飾られていなかったことが哲矢の印象に強く残った。
◇
車の中に戻ると、美羽子は「よくあることなのよ」と哲矢を安心させるように口にした。
罪を犯す少年は家庭環境に問題がある場合が多いのだという。
保護者は彼らに対して無関心であるケースも少なくない。
「自分のことしか考えられない大人が増えたってことね」
美羽子は発進させたアキュアのハンドルを握りながらそう低く呟いた。
暗くてよく分からなかったが、その顔には若干の疲労の色が浮かんでいるように思えるのだった。
◇
哲矢たちが宿舎へ着く頃には、辺りは一面真っ暗となっていた。
宿舎からは明かりが漏れているのが見える。
アキュアを車庫に入れて玄関から上がると、美羽子は努めて陽気な声を上げながらリビングのドアを開けるのだった。
「ただいまぁ~。メイちゃん帰ってる?」
「やあ、おかえり。寒かったでしょ? そっちに晩ごはん用意してあるから」
テーブルで書類の山と格闘している洋助が手を挙げて迎え入れてくれる。
その近くでは、マーローとじゃれ合っているメイの姿があった。
彼女はなぜか銀縁のメガネをかけていた。
これまでと違うその姿に哲矢は一瞬ドキッとしてしまう。
だが、すぐに首を振ってその感情を追い払った。
「メイちゃん。ただいまぁ~♪」
「…………」
メイは美羽子の姿を見るなり少し不機嫌そうな顔をすると、マーローから離れてソファーに腰をかけ、近くにあった雑誌を手に取った。
「あはは……。振られちゃった」
美羽子はそんな彼女に対して何も問い詰めなかった。
きっと学園へ行かなかったことにも気づいているはずなのに何も口にしようとしない。
そこには先ほどまでの凛々しい美羽子の姿はなかった。
メイに媚びるように話し続ける彼女の姿を見るのは何だか複雑な気分であった。
「どうしたの?」
そんな哲矢の思いに気づいたのか、洋助が心配そうに言葉を投げかけてくる。
「いえ。ちょっと体調がよくないので夕食は部屋で頂きます」
「そう? どうぞ、召し上がって」
ダイニングのテーブルに並べられた食事をトレイに載せて、哲矢は軽く頭を下げながら皆の前を通り過ぎる。
去り際、ソファーに座るメイと目が合った。
その真っ直ぐな瞳はなぜかこちらに助けを求めているように哲矢には感じられた。
だが、それも一瞬のことだ。
哲矢はすぐに視線を逸らすと、奥の自室へ閉じ篭った。
(これ以上、深く関係を持つ必要なんてないだろ? これでいいんだ)
自分の胸に何度もその言葉を繰り返して哲矢は気持ちを落ち着かせる。
メイを目の前にすると、自分でもよく分からないくらい混乱してしまうのだ。
胸の高鳴りをゆっくりと鎮めるように深く息を吐き出す。
まるで、海の底で生活をしているような気分だった。
必死に何かを堪えるために息を止め続けている。
(なんのために俺はこんな辛い思いをしているんだろう……)
哲矢は突然故郷が恋しくなった。
唇を噛んで『明日までの辛抱だ』と心の中で唱える。
それまでは息を止め続けなければならない。
光も当たらないこの暗い海の底で――。
それから部屋をノックする音と美羽子の声が聞こえてくるも、哲矢は昨夜に続いてそれを無視した。
夕食にも手をつけずにそのまま掛け布団の中へと潜り込む。
眠気はすぐにやって来た。
哲矢は2日間ため込んだ睡魔を貪るようにして、夜の淵へとゆっくり落ちていくのであった。




