第159話 花サイド-8
いつの間にか翠の話は途切れていた。
彼は再び沈黙の中に身を沈めると、静かに花へ視線を送る。
その目は、今度はそちらが話をする番だと訴えているように花には感じられた。
部屋の隅では、野庭と小菅ヶ谷が翠に追随してくる。
どうやら逃げる場所はなさそうだ。
だが、真実を話すことは、惜しみなく協力をしてくれた彼らに対する花の義務であった。
今がここへ来た目的を果たす時、と花は心に決める。
(ちゃんと言わなきゃ……)
募らせた思いの丈を解放する瞬間が訪れた。
「あ、あの……実は追浜君たちに言わなきゃいけないことがあって……」
心臓が口から飛び出そうだった。
そんな心境の花とは対照的に、翠はとてもリラックスした表情を浮かべている。
そして、わざと話の腰を折るようにパンと手を鳴らす。
「分かった。でも、その前になにか飲みものを入れるよ」
「で、でも……」
「いいからいいから。座って待ってて」
そう言って翠は、放送室を足早に出て行ってしまう。
後には、行き場をなくした花の言霊が残留するだけだった。
ひと時の休息を得た花は、思わず安堵の息を漏らす。
それをすることで幾分緊張は解れた。
(もしかしたら、これが目的で……)
彼が話を中断した理由に花は気がつく。
翠はすべて計算して行動しているはずだ。
こんな時でも彼の気配りが変わらず健在なことに花は嬉しくなる。
「隣りに給湯室があるから」
「えっ?」
置き去りにされた花に同情したのか。
部屋の隅で腰をかけていた野庭が声をかけてくる。
そんな彼女の姿は初めて見たので、花は思わず驚きの声を上げてしまった。
「そ、そうだったんですね。なんか、放送室の隣りに給湯室があるって笑っちゃいますね」
「…………」
「あはは……」
会話は続かない。
彼女には花の言っている意味がよく分からなかったようだ。
けれどそれでいい、と花は思う。
信用は地に落ちたと思っていた。
だが、まだこうして優しさを受け取ることができている。
それが花の琴線に触れた。
◇
穏やかな小休止はその後もしばらく続く。
この間、花は飛び出してきた教室のことを考えていた。
(今頃、どうなってるかな……)
立会演説会当日ということもあって、花は特別に今日は授業に出なくてもいいという決まりとなっていた。
準備があるだろうという学園側のはからいだ。
だから、花は授業に関して心配はしていなかった。
花の関心ごとは主に二つある。
一つはクラスメイトたちのこと。
本番で彼らの力を借りる必要があるのに、花は今教室を勝手に抜け出してしまっている。
哲矢やメイについての噂話が飛び交っているこの現状で、花の求心力は最低レベルにまで下がっている言わざるを得なかった。
もう一つは、翠たちを巻き込んでしまっていることだ。
三人が教室にいないことを不審に思うクラスメイトがいても不思議ではない。
そうなると、噂の対象は翠たちにも及ぶことになる。
だからこそ、ここできちんと真実を彼らに伝えなければならない。
花は改めて局面の重大さを認識するのだった。
ガチャッ。
放送室のドアが開く音が響く。
「お待たせ~」
トレイに人数分の湯のみを乗せた翠が姿を見せる。
彼が放送室に戻って来るのを確認すると、野庭と小菅ヶ谷は素早くスツールから立ち上がった。
野庭が手際よく折りたたみ式のテーブルを持ち出してくると、花が座るキャスターチェアの前にそれを広げる。
小菅ヶ谷は翠からトレイを受け取り、湯のみをテーブルに並べるのだった。
熟練された客人用の連携スキルだ。
「飲みづらいし、一旦床に座ろっか」
翠の促しで四人はテーブルを囲むようにフローリングの床に座り込む。
その光景は、花に幼い頃に体験したサマーキャンプの課外活動を連想させた。
「あっ……」
ようやくひと息入れようというところで、野庭が何かを思い出したようにすぐさま立ち上がる。
「どうしたの?」と声をかける翠の言葉は、彼女の耳には届かなかったらしく、おもむろに何かを探し始めるのだった。
その間花はというと、湯のみから立ち昇る白い湯気を見つめながら、この後どう話を切り出すべきかについて考えていた。
相手を傷つけることが前提の話だ。
所詮、裏切りの懺悔に過ぎない。
告白する側よりも、受け手の方が苦痛を感じるに違いなかった。
「これ……」
「……よかったらどうぞ」
二人の女子の声に花はハッと我に返る。
どこから用意したのか、テーブルにはチョコチップのクッキーが盛られた皿が並べられていた。
野庭の探しものはどうやらこれだったらしい。
なぜ放送室にクッキーが常備されているのかは置いておいて、花はその好意を素直に受け取る。
「ありがとうございますっ♪ いただきます」
一枚頬張ると、チョコレートの甘い香りが口いっぱいに広がる。
野庭と小菅ヶ谷も花に続き、クッキーを口にする。
普段、無表情な彼女らも、この時ばかりは幸せそうに頬を緩ませていた。
そんな光景を苦笑いで翠は見つめる。
「授業サボってお茶してるのが先生にバレたら絶対マズいよね」
口ではそう言いつつも、彼もこの状況を楽しんでいるのが伝わってきた。
部屋の空気は、今朝と同じくらい平穏に戻っていた。
しかし――。
和やかな時間が続けば続くほど話を切り出しづらくなるのも事実だ。
お茶を啜りながら気持ちを落ち着かせようとしても、花の焦燥感は消えない。
まるで、大量の砂利を飲み込んだように上手く声が出ないのだ。
先ほどの翠とそっくり同じ状況に花はいた。
彼もそれが分かっているのだろう。
暢気に野庭と小菅ヶ谷と駄弁るだけで、急かすことはしてこない。
ただ時間だけが無常に零れ落ちていく。
見守られているという状況は、場合によっては極度のプレッシャーになるということを花はこの時になって初めて知る。
このまま話をだらだらと先延ばしにすることもできない。
背中を伝う嫌な汗を感じながら、花は焦りと戦っていた。
(ただ謝るだけなのに、なんで……)
秘密にしていたことを謝罪する。
たったそれだけのことができない。
後の展開が恐ろしいのだ。
信用を失っているとはいえ、まだ最後の篝火は微かに灯っている。
翠たちの協力を失えば、計画も難航するかもしれなかった。
こんな状態が永遠に続くのではないか。
そんな妄想に恐怖を抱き始める花であったが、意外な人物のひと言からその葛藤に終止符が打たれることとなる。
歯車が再び動き始めた。
「(……川崎さん……)」
「ぅゆっ!?」
物思いに耽る中、突然、耳元で話しかけられたことで花はおかしな声を上げてしまう。
至近距離には、湯のみで口元を隠した小菅ヶ谷の顔があった。
声をこもらせて何か話しかけてくる。
他の二人は他の話で盛り上がっているようで花たちの様子に気づかない。
彼女は神妙そうな表情を浮かべたまま続ける。
「(ごめんなさい。話したいことがあって……)」
嫌な予感がした。
スタート直前で走者交代を宣告されるリレー選手のように。
特権を取り上げられるような危機感を花は抱く。
そして、残念ながらその予感は的中することになる。
時間切れ。
早い話がそれであった。
「(……知ってたんです、私たち)」
まるで、舞台女優のように通る声で小菅ヶ谷がそう口にする。




