第154話 花サイド-3
花は意を決してスマートフォンをスワイプさせる。
「も、もしもし……」
『…………』
相手は無言だ。
電話の向こう側からは、断続的に何かが過ぎ去る音が聞こえる。
しかし、なぜか花はそれを不審に感じることはなかった。
「も、もしも~し……」
今度は大きめに声を上げてみる。
耳を近づけると、先ほどの断続音の正体がなんとなく分かってきた。
(車?)
その音に集中していると、花は自然と体を起こしていた。
すると、校門前の翠と目が合ってしまう。
(あっ……)
花は微妙に口角を吊り上げて、苦笑いの表情を浮かべる。
何か事情があると察してくれたのか、翠は笑顔を浮かべるとチラシの配布の続きへと戻った。
彼らへの罪悪感が芽生え始めたところで、突然、電話の主の大声が耳に飛び込んでくる。
『……ぷっ、あははっ~! 負けたわっ♪』
「は、はい……?」
まるで、睨めっこに負けた子供のように大きく吹き出して笑っている。
その声は若い女のようにも聞こえたが、音が篭っていて正確な判断ができない。
「ど、どちら様でしょうか……?」
状況が分からず、花は相手に恐る恐るその正体を訊ねるが、電話越しの笑い声はしばらく止みそうになかった。
さらに待つこと数秒。
ようやく相手はまともな受け答えができるくらいまで落ち着きを取り戻したようであった。
『ごめんごめん。ハナの言動が面白くて……ついね』
「……えっ?」
言葉のイントネーションを聞いて花はある人物の姿を思い出す。
「もしかしてメイちゃんっ!?」
『あたり』
いつもより声が高く子供っぽく聞こえたが、よく耳を澄ませればそれはメイの声であることが分かる。
「無事だったんだっ!!」
それは心の底から出た花の本心であった。
ホッと花は一息つく。
いわば、彼女は自分たちの身代わりとなったようなものなのだ。
昨夜、メイが哲矢の囮となっていなかったらどうなっていたか分からない、と花は強く思う。
『大げさよ。べつに大したことなかったんだから』
メイはなんでもなさげにそう答えるが、きっと苦労したに違いなかった。
「メイちゃん……ありがとう……」
声も変えずに淡々と答えるメイに対して、花は素直に感謝の言葉を口にする。
その後、花はあの後の出来ごとについて簡潔にメイに伝えた。
入れ替わる形でメイの話も花は耳にする。
会話の中で花はいくつかの情報を得ることができた。
やはり、メイは警備員に捕まってしまっていたようで、先ほどまで身柄を桜ヶ丘中央警察署へ移されていたのだという。
留置場で一晩を明かしたのち、今朝釈放となったようだ。
なぜこんなにも早く釈放となったのか、メイは理由を説明しなかったが、花には大体の予測がついていた。
おそらくメイの保護先が家庭裁判庁だからだろう、と花は思う。
警察としても恩を売っておきたいのかもしれない。
せっかく証拠を挙げて被疑者を捕まえても、裁判で無罪となってしまえば彼らの面目も潰される。
法執行機関の不釣合いな図式が垣間見えたような気がして、花はそれ以上詮索するのをやめた。
社会の仕組みを知ることが大人になる条件というのなら、まだ子供のままでいいと花には思えてしまう。
自分一人で解決できる範囲は限られているのだから。
それからメイは、美羽子の迎えによって警察署の外へ出たと口にした。
彼女らの関係が上手くいっていないと、哲矢の話ぶりの中からなんとなく肌で感じていた花は、それを聞いて驚きを隠せない。
だが、何か口を挟む前に彼女の言葉が続いてしまう。
今は一人でタクシーに乗車し、将人と会うために再び暁少年鑑別局へ向かっているのだと、メイは口にした。
(将人君……)
彼の名前が出てきたことで、花の胸はなぜかズキンと痛み出す。
とても大事なことを忘れているようなそんな感覚が突如湧いて出る。
「やっぱり、将人君に会いに行くんだ」
『ええ。昨日行けなかったからね』
「そっか」
メイのフットワークの軽さは相変わらずだ。
警察に釈放されてからすぐにアクションを起こせる積極性を花は見習いたかった。
(……もしかして)
昨日、彼女と電話した時のことを花はふと思い出す。
あの時はなぜメイが将人から貰った怪獣のキーホルダーを持って来てほしいと言ったのかが分からなかった花であったが、今ならその理由がなんとなく分かるような気がした。
(将人君に見せるため? でも……)
そうだとすると、メイは昨日の夜から暁少年鑑別局へ行こうとしていたということになる。
キーホルダーは翌日手渡ししてもよかったはずなのだ。
だが、あのタイミングであれを要求したということは……。
(メイちゃんは最初からなにかあったら自分が囮になるつもりでいたんだ)
メイの覚悟がはっきりと分かり、花は改めて心の中で彼女に感謝の気持ちを伝える。
できることなら、自分も一緒に将人に会いに行きたいという気持ちが花の中にはあった。
しかし――。
「…………」
その思いが空気を震わせることはない。
そして、途端に嫌悪感が押し寄せてくる。
なぜか将人のことを思うと、花は平常心ではいられなくなってしまうのだ。
『マサトから裏づけの証言をICレコーダーに取ってからそっちに向かうわ』
電話越しからは並々ならぬ決意の声が聞こえてくる。
「う、うん……」
花はそう返すのがやっとであった。
なぜ、自分はメイのような行動を取れないのか。
初めからそうしておけば、何もここまで話がこじれることはなかったんじゃないか、という疑問がなぜか浮かんでくる。
(でも……無理だよ。私にはそんな勇気ない)
大切に思っている相手だからこそ、直接会うのが怖いのだ。
もし、将人が本当に犯人だとしたら……。
花は心の内でその考えをどうしても払拭できずにいた。
将人の無実を信じていると哲矢たちに公言しておきながら、内心ではこんなことを考えているのだ。
哲矢たちがその矛盾を知ったらどう思うだろうか、と花は時々不安になる。
こんな考えを持っている以上、将人には会えないというのが本音だった。
目的は同じなはずなのにメイとはそれを証明する順序がまったく逆なのである。
「あっ、そうだ! もしこっちに来るのが間に合えば、メイちゃんも一緒に麻唯ちゃんの見舞いに行かない? 昼休みに哲矢君と行くことになってるんだ」
花はそんな想いをメイに悟られまいと、沈みかけた感情を浮上させて明るい声でそう訊ねる。
「校門の前で合流ってことで、どうかな……?」
少し声が上ずり気味だったかもしれない。
その言葉が彼女の耳にどう届いたのか、花は怖かった。
『分かったわ』
花の心配をよそに、メイは短く淡々とそう同意を示す。
だが、その言葉にはどこかしら皮肉が込められているような気がして、花は一瞬ドキッとしてしまう。
〝マイには会いに行けて、マサトには会えないんだ″
そんな彼女の声が今にも聞こえてきそうで、花はスマートフォンを握る手が汗ばむのを感じた。
「ありがとうっ! それじゃ、そっちはよろしくお願いしますっ♪」
『ええ、任せておいて。もう着いたみたいだから一旦電話切るわね』
「はぁーい」
けれど、メイはすぐには電話を切らなかった。
ギィギィッというタイヤとアスファルトが擦れて止まる音は聞こえたのだが、それからはハザードの規則正しい音が鳴っているだけで、メイの声はどこかへと消えてしまっていた。
電話を切り忘れたのかと思う花であったが、どうやらそういうわけではないらしい。
メイの吐息が電話越しに伝わってくる。
「メイちゃん?」
『――ん、っと……』
まるで、話しかけられたことで意識を取り戻したかのようにメイの歯切れは悪い。
何か言うのを躊躇っているようなそんな感じがあった。
『その……そ、そっちも気をつけるのよっ。私はいつでもあなたを大切に思ってるんだから』
「えっ?」
『じゃ、じゃーねっ!』
そこでメイとの電話は切れた。
一瞬何が起こったのかが分からず、唖然とスマートフォンを覗き見る花であったが、すぐに彼女の言葉の意味に気がつく。
(そっか……メイちゃん、勇気づけてくれたんだ)
メイとの距離が一気に縮まったような気分となる。
(こっちもしっかりやらないと……)
そして、花の気分はすっかり元に戻っていた。
「よぉ~しぃっ!」
再び闘志が自分の中で燃え上がるのが分かる。
花はベンチから立ち上がると、花びらの絨毯を踏みしめて翠たちの元へ戻るのであった。




