第15話 少年の家庭環境
将人の自宅がある百草市までは車でならすぐの距離らしい。
哲矢はこの辺りの地理はさっぱりだったので、運転中の美羽子から詳しい話を聞く。
夕方のラッシュ時でも30分もあれば着くとのことだった。
車は見事に渋滞にはまっていたが、美羽子は気にする素振りも見せずにラジオのボリュームに手をつけた。
道筋は簡単で桜ヶ丘プラザ駅から伸びるモノレールの高架下を道沿いに進むだけ。
普段、将人はこのモノレールを使ってニュータウンの外から通学していたのだという。
助手席から頭上のレールを見上げながら哲矢は思う。
あれだけ仲間意識が強いクラスのことだ。
元々宝野学園の生徒であったというアドバンテージがどれほど作用していたかは分からないが、ニュータウンの外から通学していたとなると、彼もそれなりのプレッシャーを受けていたと考えられる。
しかも、ここへ引っ越して来る直前に父親を病気で亡くしているのだ。
母親とは生まれてすぐに別れて以来、会ったこともないのだという。
気が触れて今回のような事件を起こしたとしても、何も不思議なことではなかった。
「もうすぐよ」と、その美羽子の言葉を合図に車は小さな交差点で左折して坂道を上っていく。
しばらく進むと、小高い山の中にある閑静な住宅街が姿を現すのだった。
美羽子はゆっくり車を走らせながらカーナビのパネルに指を当てる。
「この辺りだったんだけど……っと、あの家かな?」
「あれが……」
辺りはすでに暮れかかっており、わずかな陽光が夜の闇と戦っていた。
目を細めて窓越しからその外観を覗く。
おそらく借家なのだろう。
似たような平屋の建物がいくつか並んでいる。
辺りに駐車場がなかったので美羽子は坂道の途中に車を止めた。
車から降りると冷たい空気がスッと通り抜けた。
春といっても、夜になるとまだ肌寒い。
美羽子の表情からは先ほどまでのふざけた色合いが消えていた。
車の中で聞いた将人の伯母夫婦についての話が甦ってくる。
将人の父――吾平の姉である倫子。
その夫の名前は謙哉。
彼は婿養子で生田家に入ったのだという。
二人とも60代後半で年金暮らしをしていて、一人娘は結婚のために家を出てから久しいらしい。
美羽子が一度洋助と一緒に話を訊きに行った際は、途中で倫子に帰らされてしまったとのことであった。
旦那の方は穏やかな性格なんだけどね、と美羽子は苦笑いしながら口にする。
その言葉が逆に倫子の凶暴性を主張していた。
あまり吾平との関係も上手くいっていなかったのだという。
将人がどのような境遇に置かれていたか、なんとなくだが察することができた。
美羽子は歩きながらビジネスバッグの中身を弄ると、準備はいいかと哲矢に訊ねてくる。
「あの……。俺はなにをすればいいんでしょうか?」
「ああ、ごめんね。特になにもしなくていいのよ。私の隣りで少年のご家族の話を聞いてくれるだけで。あとで提出してもらう調査報告書に感想を書いてもらうことになるかもしれないから、話はしっかりと聞くようにね」
「分かりました」
「じゃあ、入るわよ」
哲矢は美羽子の後について平屋が並ぶ敷地の中へと足を踏み入れる。
その一つに将人の自宅はあった。
◇
ピーンポーン。
美羽子が呼び鈴を鳴らす。
しばらくすると、声の低い長い黒髪を結った女が家のドアを開けて姿を見せた。
背筋をピンを伸ばし、鋭い眼光で哲矢たちを睨みつける。
神経質そうなこの女が倫子なのだ、と哲矢はすぐに思った。
話には聞いていたが、こうしてあからさまな敵意を向けられると、つい物怖じしそうになってしまう。
相手は「なんだい」とドスを利かせた声で威嚇するように唸った。
「お話をする約束でお伺いしました。家庭裁判庁の者です」
美羽子はそう言って一礼すると、懐から自分で作ったと思われる和紙を使用した名刺を取り出して彼女に渡す。
こういう時の美羽子はとてもしっかりとしていて、哲矢は好感を抱いていた。
「こんなもの……。前にも貰ったよ」
倫子は受け取った名刺を投げやりに美羽子へ返すと、家の中へと戻っていってしまう。
二人は黙ってそのまま玄関で待っていると、廊下の奥から人の良さそうな白髪交じりの男が腰を曲げながらゆっくりとやって来た。
「あぁ……。お待たせして申しわけありません。藤沢さんね。前に一度いらっしゃった」
「はい。再びお伺いすることになりましてご迷惑をおかけいたします」
「いぇ……。いいんですよ。あのようなことがあった後ですから……。話足りないということはないんですよ。さぁ……どうぞ」
「すみません。失礼します」
哲矢は美羽子に手招かれ、一緒に家の中へと上がった。
廊下は薄暗く、歩くと床が音を立てて軋んだ。
築年数は相当なものだろう、と哲矢は思う。
(……この人が謙哉さんか)
先頭を歩く男の姿を見ながら哲矢は思う。
腰が悪いのか、彼は背中を曲げながら壁に手をつき、ゆっくりと前進していた。
そのまま茶の間らしき場所へと通される。
そこには倫子の姿はなかった。
「今、お茶をお出ししますんで。お座りになってお待ちください」
「いえ。お気遣いなく。すぐに帰りますので」と、美羽子は配慮無用の姿勢を取るが、耳も遠いのか謙哉は体をゆっくり回転させると、そのまま台所の奥へと消えてしまう。
二人は言われた通り座布団に座り、黙って謙哉が来るのを待った。
隣りの部屋からは何やら騒がしい音が聞こえている。
倫子がテレビでも見ているのだろうか。
茶の間の照明はチカチカと不規則なリズムを刻んでいた。
きっと、電球の交換も長い間行っていないのだろう。
部屋の中はよく見ると乱雑に散らかっており、あらゆる物が散乱していた。
掃除をするだけでも謙哉にとっては一苦労に違いない、ということは哲矢にも理解ができた。
もしかしたら、将人が暮らしているうちは彼がこの家の整理や掃除を手伝っていたのかもしれない。
そう思うと、将人の残像のようなものがこの部屋から伝わってくるから不思議であった。
母親の顔を知らずに育ち、父親もつい最近亡くしてしまった。
今まで暮らしたことのない伯母夫妻との生活。
一体それはどんなものだっただろうか。
哲矢には正直分からなかった。
環境が違い過ぎるからだ。
今回の件を除けば、今まで哲矢は転校したこともなければ、両親と別れて暮らしたこともなかった。
ごく平凡な家庭の一員として日々を過ごしてきただけなのである。
だが、こうして初めて親元を離れ、見知らぬ土地で生活してみると、将人の気持ちが少しだけ理解できるような気がした。
それからしばらくその場で待機していると、台所から謙哉が湯のみをトレイに乗せて運んでくる姿が見える。
よろよろと危なげに歩く彼を支えるために美羽子は立ち上がると、トレイを受け取って湯のみをテーブルの上へと置くのだった。
ようやくひと息吐くように謙哉は高座椅子にゆっくりと凭れかかった。
「いやぁ……すみません。お手間を取らせまして。どうぞ召し上がってください」
「ありがとうございます」
「あぁ……そういえばお菓子もあるんですがぁ……」
そう言って再び立ち上がろうとする謙哉を美羽子は大丈夫だと言って制する。
その美羽子の慣れた扱い方から察するに、家族に謙哉と近い立場の者がいるのかもしれないと哲矢は思った。
高座椅子に再び謙哉が腰をかけるのを確認すると、美羽子はようやく哲矢の紹介に移った。
「生田さん。ご紹介したい者がおりまして」
「えぇそうですか……なんでしょうか」
美羽子からちらっと送られてきたアイコンタクトから挨拶をするようにとの意味を読み取った哲矢はぶっきら棒にこう口にする。
「……初めまして。関内哲矢って言います」
「あぁ……関内さん? こりゃどうも」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。先ほどから藤沢さんの影に隠れているので気になってはいたんですよ。その制服……宝野学園の生徒さんですねぇ」
「はい。そうです」
無愛想な哲矢とは対照的に謙哉は笑みを浮かべていた。
その表情からは人の良さが滲み出ている。
笑った時に伸びる皺が彼の誠実さを物語っているように感じられた。
ここで話を一旦整理するように美羽子が割って入ってくる。
「実は、これからお話することはご内密にお願いしたいのですが……」
「えぇ」
謙哉はにこやかに微笑みながら頷いた。
美羽子はそれを確認すると、声のトーンを一段下げて本題を話し始めるのであった。




