第144話 ひと時のお別れ
「ごちそうさまでしたっ♪」
花はペロッと哲矢の作った朝食を完食してしまう。
その後は、二人でコーヒーを啜りながら何を話すわけでもなく、朝の日差しにそれぞれの思いを馳せていた。
この緩やかな時間が終われば、あとに待っているのは厳しい勝負の世界だ。
文字通り戦場に行く気分だった。
花もそれを分かっているのだろう。
だからこそ、このゆったりとした時間を大切にしているのが伝わってくる。
やがて――。
その時間も終わりを迎える。
「そろそろ、準備しよっか」
花のその言葉で哲矢の意識は現実へと帰る。
「そうだな。俺はこの後、鶴間に渡す原稿を書き上げるよ。内容はもう見えてるんだ」
「うん、分かった。じゃあ、私はその間に着替えてくるね」
最後のひと口を啜り終えてから花はカーペットから立ち上がった。
哲矢は宣言通り、花が登校の準備をしている間を利用して、応援者用の演説原稿を書くことにした。
言葉は自然と溢れ出てくる。
ブレイクを一度挟んだのがよかったのかもしれない。
完成予想図に向けて執筆を進める。
それも短時間で書き終えてしまうと、哲矢はそれ以上することがなくなってしまった。
花が準備を終えるまでリビングで待機していることにする。
それからしばらくして……。
深緑色のブレザーを羽織い、襟元にクリーム色のリボンをつけた花がリビングへと戻ってくる。
哲矢のよく知る花がそこにいた。
「ごめんね。お待たせ~」
「おう、じゃ行くか」
「りょーかい♪」
彼女のツインテールの後ろ髪がふわりと靡いて揺れる。
きっと今朝のことはずっと忘れないだろうな、と哲矢はなんとなくそう感じていた。
◇
二人で1階まで降り、タワーマンションのエントランスを抜けると、眩しい太陽が顔を出した。
緑の木々の間から洩れる光に哲矢は思わず目を細めて空を見上げる。
雲一つない晴天が広がっていた。
どこまでも澄み渡る青が今日という日を祝福してくれているように思える。
微かな初夏の香りが哲矢の鼻をかすめた。
「それじゃ……ここで一旦、お別れだね」
「そうだな」
哲矢と花は一度ここで別れることになっていた。
それぞれにやることがあるからだ。
哲矢は大貴の行方を探り、彼を立会演説会の場所に連れてこなければならない。
花はメイの連絡を待ちつつ、選挙活動と平行して筆跡の鑑定の続きを行う。
「追浜君とも連絡取ったし……。あ、そうだ。さっき準備してる時にね。鶴間さんにLIKE送ったんだ。今、哲矢君が書いてて原稿上がりそうだから、朝のホームルームの時に渡そうかって」
「そっか。じゃこれ渡しておかないと……」
そう言って哲矢は鞄の中から原稿を取り出そうとするのだったが――。
「いや、あのね。その後、すぐに返事が来たんだけど、やっぱり今日は一日生徒会でバタバタして教室にも顔出せないみたいだから、言った通り直前で構わないんだって。一応、四時間目の終わりにもう一度連絡することになってるんだけど……。受け渡しは教室でいいかな?」
「ああ。それじゃ、それまで俺はこいつを持っておくよ」
「そうだね。また昼休みに校門で合流した時に詳しく話すよ」
「話した内容はそれだけか?」
「えっ?」
「昨日の夜のことは、鶴間や翠には話してないんだな?」
「う、うん……。なにか言って不安を与えても仕方ないと思うし……」
「……ああ、そうかもなぁ……」
そこで一度、哲矢は黙り込む。
本当にそれが正しいのだろうか、と。
彼らは仲間なのだ。
だったら包み隠さず、すべてを打ち明けるべきなのではないだろうか。
だが、しかし――。
哲矢はそれについて迷いなく頷くことができなかった。
花もきっと同じ気持ちだったからこそ、そうしなかったに違いないからだ。
沈みかけた空気を元に戻すため、哲矢はあえて明るいトーンを装ってその話を終わらせる。
「なんか、色々やってもらって悪い」
「ううん。私は自分にできることをしてるだけだよ」
「いやホント、感謝してるぜ。あとは……この後無事に校門で合流するだけだな」
「それまでに結果が出せるよう頑張るよ」
「ああ、俺も絶対に大貴を連れてくるからさ。お互い頑張ろうぜ!」
「だねっ♪」
哲矢が拳を突き出すと花もそれに応える。
そこで花は隠していた想いを吐露するよう控えめにこう口にした。
「……もしね。メイちゃんも無事ですべてが上手くいったら……立会演説会の前に麻唯ちゃんに一度報告したいんだ」
その台詞は、彼女の中で麻唯の存在が大きなウエイトを占めていることの証でもあった。
自分が想像している以上に花の中で麻唯に対する思いは巨大なものなのだろう、と哲矢は思う。
断る理由などどこにもなかった。
「分かった。俺も一緒に付き合うよ。昼休みの間に行こうぜ」
哲矢はしっかりと頷いてからそう返す。
「うん。ありがとっ♪」
哲矢の言葉を聞いて安心したのか、花の顔は綻んだ。
それが二人の一時の別れの挨拶となる。
「じゃ、私、行くね」
「おう。それじゃまたな!」
花は手を振りながらニュータウンの景色の中に消えていく。
その背中は、以前よりも何倍も逞しく哲矢には見えた。
哲矢は彼女の姿が見えなくなるまで大きく手を振り続ける。
やがて、それが完全に消えてしまうともう一度空を見上げた。
「メイ、絶対無事でいてくれ……」
風が言霊を運んでくれると信じてそう口にすると、哲矢もその場を後にするのであった。




