第138話 第六区画のタワーマンション
しっかりと体調が戻るのを待った後、哲矢は花に連れられる形で彼女のマンションを目指すことになった。
横並びで哲矢は花と一緒にニュータウンの歩道を歩く。
すると、いつの間にか、見覚えのある景色が目の前に広がっていることに哲矢は気がついた。
一昨日の夜の出来ごとが鮮明に甦ってくる。
(そうか、この辺りなんだ)
身を隠すために使った小さな憩いのスペースも目に入る。
その時、大貴が操るビッグスクーターの集団が今にも暗闇の中から飛び出してきそうな錯覚に哲矢は襲われた。
頭を何度か振って気持ちを切り替えると、ちょうどそのタイミングで隣りを歩く花が何か思い出したように突然声を上げた。
「……そうだ。色々あって話しそびれちゃってたけど、哲矢君に言おうと思ってたことがあったんだ」
「ん?」
「さっき宿舎を出た時、車で送ってもらったでしょ? その時の藤沢さんの様子がどこか変だったんだよ」
「……どんな感じだったんだ?」
「うん、なんかね。しゃべっても一応返事はくれるんだけど、全部うわの空って言うか……。運転してる時もね、どこか遠くをずっと見てるような感じだったから」
「…………」
美羽子とはこの間の土曜日に気まずくなってからまともに会話を交わしていない。
おそらくずっとそんな調子なのだろう、と哲矢は思った。
(そういえば、宿舎に戻ってくるのも遅かったよな)
目の前のことでいっぱいいっぱいになり過ぎていて意識が回らなかったが、美羽子も色々と悩みを抱えているのかもしれなかった。
けれど……。
(……俺たちが藤沢さんのことを心配してもしょうがないんだよ、花)
正直、哲矢は美羽子が一体何を考えて生きているのかが分からなかった。
大人の女性相手に自分ができることなど何一つないということに哲矢は気づいたのだ。
哲矢はその話を一方的に切り上げてしまう。
「そっか……ありがとう。覚えておくよ」
「……う、うん」
その先も花は何か話を続けようとしていたが、結局、適当な言葉が見つからなかったのか、黙り込んでしまう。
街灯が等間隔に並んだ歩道を二人は無言のまま歩き続けることになった。
どちらも口にはしなかったが、美羽子の話となったことでメイの存在が強く意識され、それが二人の背後に大きな影を作り出していた。
あの瞬間は薄情になれたのに、時が経つにつれて後悔が波のように押し寄せてくることに哲矢は気がつく。
(……ダメだ。今はなにも考えるな)
そう暗示をかけて自分を縛らなければ、哲矢はいつ学園に飛び戻っても不思議ではない状態にあった。
◇
無心でそのまま歩き続けること数分……。
気づくと、哲矢は花の自宅があるタワーマンションの前に立っていた。
「やっぱすげー迫力……」
夜空を貫き、月まで届きそうな勢いでそびえ立つ高層建築物を見上げ、哲矢は感嘆の息を漏らす。
所謂、高所得者をターゲットにしたレジデンスである。
この第六区画があるエリアはこのような新興のマンションが多く建造されており、桜ヶ丘ニュータウンの中でも一際異彩を放っていた。
桜ヶ丘市はニュータウンの未来をこの第六区画に見ているのかもしれない。
「本当に、俺も入っていいのか……?」
周辺に乱立するくたびれた団地とは一線を画す高級感溢れるその門構えに哲矢は萎縮してしまう。
地元でもこれほど立派なタワーマンションは数えるほどしかないのだ。
「もちろんだよ。あと、あまりここにいるの見られたくないから早く入ろっ♪」
そう言って恥ずかしそうに入口を潜り、エントランスへと消えていく花の後ろ姿を見ながら、哲矢は改めてここが女子高生の一人暮らしには似つかわしくない場所だということを認識する。
慣れた手つきで玄関のロックを解除する彼女の後に続いて哲矢もマンション内に足を踏み入れる。
真っ先に哲矢の目に飛び込んできたのは、エレベーターホールの前に設置された室内装飾品の数々だ。
抽象的なモダンアートのパネルやフラワーアレンジメントがなされた造花、デザイナーズソファーや巨大観葉植物などがオシャレに置かれている。
「やべぇ、圧倒される……」
「あはは……。ホントはもっとこじんまりとしたところがよかったんだけどね」
花は謙遜して誤魔化そうとしていたが、彼女の家庭が裕福であることは一目瞭然であった。
自分とはまったく異なる環境で育った彼女と今この空間を共有していることの不思議を哲矢は感じる。
その後、エレベーターに乗って19階で下りると、花は〝1916〟とゴールドのプレートが掲げられたドアの前で立ち止まった。
鍵を使って開錠した彼女は、遠慮がちにドアを開く。
「どうぞ……」
「……お、おじゃましまぁす……」
緊張で少し声を上擦らせながら、哲矢は敷居を跨いで部屋の中へと入る。
先に上がった花は、パタパタとあちこちを忙しそうに駆け回っていた。
中は3LDKほどの広さがあるようで、哲矢はいくつかのドアの前を通り過ぎながらリビングに顔を出すと、掃除機を片手に持った花に申し訳なさそうに招き入れられる。
「ごめんねっ。色々汚くて……」
「い、いや……。汚いなんて全然っ……」
「ちょっと待ってて!」
「…………」
そう言ってなんとかその場を乗り切った哲矢であったが、彼女が申告した通りリビングはお世辞にも綺麗に片づいているとは言えなかった。
(……ってか、散らかりすぎじゃねっ!?)
リビングの隣りには障子で区切られた和室があり、そこにダンボールやらゴミ袋やら衣服やらが散乱しているのが見え、とっさに哲矢は心にもない言葉を口にしてしまう。
「イイヘヤデスネ……」
「んゃ、はは……」
さすがに同じ年の男子にこの現状を見られたことは恥ずかしかったのか、花は動揺した様子で掃除機をかき鳴らす。
中へ招き入れるまで部屋の状態をすっかり忘れてしまっていたのかもしれない。
(……までも、そこが花らしさではあるんだけどさ)
親元を離れた高校生の一人暮らしというのは案外こういうものなのかもしれない。
すべて一人でこなさなければならないのだから。
「えっと、これもここだし……。あ~っ! これはこっちじゃなくて……」
普段やり慣れていないことを始めたせいだろう。
花はかなりテンパっている様子であった。
好意で招かれている身分であるがゆえ、これ以上は彼女に気を遣わせるわけにはいかない、と哲矢は思った。
「そこまでしなくてもいいよ」
「えっ……」
「俺は気にしてないから」
「で、でも……歩きづらいでしょ?」
「平気、平気っ。ほらこの通――って、うわぁ!?」
宣言したそばから哲矢は何か物に足を滑らせて転んでしまう。
「痛ってぇ~!」
「だ、大丈夫っ!?」
「なんだこれっ……?」
足元を覗くと、ぶよぶよとした緑色の液体がこびり付いていた。
床には色の違う謎の物体が他にもいくつか転がっている。
「それ、集めるの趣味なの……。可愛いでしょっ!?」
「お、おぅ……」
人には隠している秘密の一つや二つある。
それが分かった慌ただしい春の夜であった。




