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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第3部・証明編 4月9日(火)
135/421

第135話 囮

 数秒間、頭をフル回転させて考えた後、哲矢は一つの決断を下す。

  

(……ダメだっ……。早くここから逃げないと……!)


 これは自分だけの問題ではない。

 ここで見つかれば、共犯であるメイや花も一緒に処分されてしまう可能性があった。

 

 事実は目にしたのだ。

 今後のことは逃げてから考えるしかない。


 核心に迫る証拠を手に入れられそうな哲矢であったが、退却を余儀なくされるのだった。


 電源ボタンを長押して8番のパソコンを強制的にシャットダウンさせると、哲矢は念のためにクシャクシャとなった利用許可証をポケットの中にねじ込む。


 そうこうしている間も靴音は断続的に続き、こちらへ近づいて来ているようであった。


 そして、その時は突然訪れる。

 先ほどまで一定だった歩調が早足に変わったのだ。


 相手が何か確信を持って歩調を速めたのは明らかであった。

 廊下を打ちつけるようにして加速する靴音は、間違いなくマルチメディア室へと向かっていた。


(……くッ、出遅れたッ!)


 あっと言う間に相手の射程圏内に哲矢は入ってしまう。

 このままノコノコと部屋を出ていけば、靴音の主と鉢合わせるのは確実であった。


(どこかに隠れるかっ!?)


 明かりの消えたマルチメディア室をとっさに見回す哲矢だが、これといって隠れられそうな場所はない。

 

 まさに、絶体絶命。

 口にすればチープに聞こえるそんな言葉も、いざ自分がその場面に直面すると鼻で笑い飛ばすことなど哲矢にはできなかった。


(マズいって、マジで見つかるッ……!!)


 この土壇場になって、哲矢は自身の置かれている状況をはっきりと理解する。

 仮に僅かでも逃げられる可能性が残されているとすれば、先手を切って駆け出すほかない、と哲矢はとっさに思った。


 この場所に君臨することを強く主張するように、廊下に響く靴音が一歩また一歩と大きくなっていく。

 そのたびに選択肢が狭まっていくようであった。


(くそッ! 出るしかないのか……!)


 一か八か。

 哲矢がその賭けに乗ろうとしたちょうどその時――。


 〝……え…………! ……の……員さぁー……っ!〟


 廊下から誰かの叫び声が聞こえる。

 

(っ、なんだ……?)


 声は断片的で細部まで聞き取ることはできなかったが、哲矢にはそれは聞き覚えがあるように感じられた。

 

(いや、違うッ……)


 そこですぐに哲矢はとっさの感情を訂正する。

 そんな漠然とした思いで処理すべきことではないと分かったのだ。


「メイッ!!」


 それは、この数日間で濃密な関係を一緒に築き上げてきた仲間の声であった。

 哲矢は無意識のうちに彼女の名前を強く口にする。


 急いでドアまで近づくと、そこに耳を押し当てて哲矢は彼女の声を正確に聞き取ろうとした。

 しかし――。

 

 〝迷…………た……案……し……れる…………! ……よっ!〟


 聞こえるのは、やはり断片的な言葉であった。

 何かを叫んでいることは伝わってくるのだが、まだ距離があるのか内容まで聞き取るには至らない。


(声の方角からいってメイがいる場所は職務棟の辺りか?)


 突然の大声に、イレギュラーな事態が起こっているのは明らかであった。

 本当は今すぐにでもドアを開けてメイの元へ駆けつけたかったのだが、寸前のところで哲矢はその衝動を抑え込む。


(……ダメだ、やっぱり今出るのは危険すぎるっッ!)


 メイは賢く、頭も切れる。

 おそらくマルチメディア室に警備員が近づいていることにも気づいているはずだ、と哲矢は思った。

 

 その彼女が自らを犠牲にしてまで取った行動には、何かしら意味があるに違いなかった。

 

(――っ!?)


 そこで哲矢はふと気づく。


(靴音が……)


 メイの声を境にそれはぴたりと止んでしまっていたのだ。

 その瞬間、哲矢は彼女の意図を理解する。


(囮になってくれてるんだ……!)


 その事実が分かるとすぐに、後ろを振り返った哲矢の目に現実が映る。


「……っ、な、なんでっ……!?」


 強制的にシャットダウンしたはずのパソコンからの眩しい光が放たれていたのである。

 

 慌てていたせいだろうか。

 ひょっとすると、電源ボタンを何度も強く押してしまったため、再起動がかかってしまったのかもしれない。

 

 そのため哲矢が気づかないうちにマルチメディア室からは淡い光が漏れてしまっていた。

 だから、警備員も異変に気づいたのだろう。

 

 けれど、それに気づいたのは一人だけではなかった。

 

「くっ……メイッ……」


 ディスプレイから放たれる光に目を向けながら、哲矢はその場で拳を強く握り締める。

 ミスを庇う形で彼女が囮となってくれたことに対して、哲矢は自分を情けなく感じるのであった。

 

 ここでメイの好意を無駄にするわけにはいかない。

 今、哲矢にできることは、嵐が過ぎ去るのをただじっと待つことであった。




 ◇




 やがて――。

 どれくらい時間が過ぎただろうか。

 

 気づくと、それまで聞こえていたメイの叫び声と警備員の靴音は、まるで初めから幻聴であったかのように、跡形もなく無音の洪水の中へと飲み込まれてしまっていた。


 その後、十分過ぎるくらいの間合いを取ってから哲矢はパソコンの電源を消してマルチメディア室を出た。

 先ほどまでの緊張が嘘のように辺りはしんと静まり返っている。


(メイ……)


 彼女が職務棟の方へ警備員を誘い込んだのなら、逆方面は安全ということになる。

 奇しくも、その逆方面というのが部室棟へと続く渡り廊下であった。


 結局、ピッキングを試して部屋を閉めることはできなかったが、今はそんなことをしている場合ではない。

 もはや、防犯カメラや赤外線センサーの位置を確認する余裕もなく、哲矢は一目散に廊下を走った。

 

 ここで捕まることだけはなんとしても避けなければならない、と哲矢は走りながら思う。


(でないと、全部水の泡だ……)


 メイもそれが分かったからこそ、少しでも望みがあるような行動を取ったのだろう。

 あとは、彼女が無事に逃げ延びてくれることを祈るしかなかった。

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