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桜色の街で ~ニュータウン漂流記~  作者: サイダーボウイ
第3部・証明編 4月9日(火)
129/421

第129話 散り始めた桜

 それから洋助の即席料理を急いで平らげ、「おやすみなさいっ!」と口にして駆け足で自室へ戻る頃には時刻はゆうに20時を回ってしまっていた。


 物音はマーローにも気づかれていないか不安であったが、あれからリビングに姿を見せることはなかったので、おそらく洋助の部屋で寝てしまっているのだろうと、哲矢は自らの言葉を信じることにする。


 そして、すぐに窓を開けると……。


「うわっ!?」


 そこにはこちらを睨みながらジト目で張りつくメイの姿があった。


「遅いわよっ!!」


 メイは、周囲を気にしないボリュームで叫ぶ。

 哲矢は慌てて彼女の口元を押えると、自分も窓を跨いでようやく宿舎から抜け出すのだった。


 隣接した大木に目を向けると、枝に括りつけられたシーツの姿が顛末の壮絶さを雄弁に物語っていた。

 また、着地に失敗したであろう箇所の土は盛大に掘られていて、その際の傷が痛むのか、メイは恥じらいもなく、お尻のあたりをスカート越しから何度も手で擦っていた。


 とりあえず、この場に留まっていることは危険と言えた。

 物音がバレなかったからよかったものの、いつ洋助の目が外に向かないとも限らない。


「急ぐぞ!」


 哲矢はメイの手を掴むと、宿舎を半周するようにして敷地の外へ抜け出し、羽衣駅を目指そうとする。

 しかし、その途中――。


「ちょっと待って!」


 突然、メイが大きな声を上げて立ち止まる。


「な、なんだよっ……」


「しっ!」


 今度はメイが哲矢の手を引く形で二人は植え込みの影に隠れる。

 暗くてよく見えないが、メイは前方を注意深く観察しているようだ。

 

 やがて、ヘッドライトが見え始める。


「ミワコの車よ」


「えっ?」


「赤のアキュアっ!」


 そう言われて目を凝らすも、哲矢はそこまで視力が良い方ではなかったので車種まで識別することはできなかったが、彼女にはそれが何かはっきりと分かっている様子であった。


 車は徐々に光の輪郭を大きくさせて宿舎へと向かってくる。

 哲矢たちは頭を低くし、体を丸めて美羽子の車が通り過ぎるのを待った。


(……んうぅっ!?)


 その時、いつも以上に身を寄せ合っているせいか、メイの甘い香りが哲矢の鼻孔をくすぐる。

 普段は何とも感じない哲矢であったが、こう密接してしまうと彼女が女子であるということを変に意識してしまう。


(今余計なこと考えてる場合かっ……)


 そう自分に言い聞かせ、哲矢は目の前の出来ごとに意識を集中させる。 

 そうすること数分――。


「行ったわ」


「ふうぅ……」


 結局、紙一重のところで美羽子とは鉢合わせずに済んだようだ。


(だけど、戻るにしてはちょっと遅くないか?)


 美羽子の帰宅が遅かったことでこうして脱出できたわけだが、哲矢の中で沸き起こる疑問は尽きない。

 けれど、今はそれよりも逃げる方が先であった。


 哲矢は振り返ってもう一度だけ宿舎に目を向けると、再びメイと手を取り合って宝野学園までの道を急ぐのであった。




 ◇



 

 二人がそれから校門の前に到着したのは、約束の時間から15分ほど過ぎてからのことであった。


「ゼヒ……ゼヒッ……ヒ、ヒッ……」


「はぁっ……ウッ、キモチワルぅ……」


「ゼヒッ……ぜぇ……だ、大丈夫か、よぉ……」


 息も切れ切れの状態で二人して周囲を見渡すも、花の姿はどこにも見当たらない。


 もしかしたら、先に一人で校舎の中に入ってしまったのかもしれない。

 だが、鍵の受け取りに手間取っている可能性も考えられた。


 こういう時に連絡手段がないのはやはり不便だ、と哲矢は思う。


 普段、どれだけスマートフォンに依存した生活を送っているかを痛感せざるを得なかったが、嘆いたところで連絡手段が見つかるわけでもなかったので、哲矢たちは当初の予定通りこの場でしばらく待つことにするのだった。


「……もう少しだけ、ここで待ってみようぜ……」


「ぐ……うぅっ……そ、そうね……」


 メイと共に門扉に背中をつけて哲矢はその場に座り込む。

 そして、夜空を見上げながらふと思った。

 スマートフォンを所持していないことはある意味では不幸中の幸いだ、と。


 美羽子が戻ってからの宿舎が今頃どうなっているのかは分からなかったが、哲矢とメイは彼らからの連絡を免れることができていた。


(差し迫る脅威はなくなったわけだし、あとは気長に待ってもいいかもな)


 哲矢たちはここまで花を待たせないために急いでいたのであって、これ以上焦りを感じる必要はなかった。

 逆にここに来て、時間は有り余っているようにすら哲矢は感じる。

 明日の立会演説会までに犯人の筆跡を証明できれば、それで事は大分前進するのだ。


 それが分かると、哲矢の中で途端に緊張が薄れていく。

 それはメイにしても同じようで、彼女はいつの間にか茂みに隠れていたふっくらと太った黒い猫と猫語で会話を楽しんでいた。


「にゃー」


「んにやぁ~♪」


 そんな光景を横目に眺めながら、哲矢は学園前に広がる公園のベンチまで移動してそこに腰をかけ、しばらく星空を見上げることにする。


 この斜めに引かれた歩道と桜並木が印象的な公園は、きっと空から見下ろせば幾何学模様に見えるだろうということで、生徒たちの間ではトリック公園と呼ばれていた。


 昼間は散歩する地元の人々で溢れる場所だったが、この時間だと人影は皆無だ。

 周囲に立ち並ぶ団地の明かりが園内にある半数以上の桜の木が散り散りとなってしまったという現実を淡々と告げていた。


 その景色を見て、哲矢の脳裏にはメイと交わした約束がふと甦る。


(そういえば……結局、花見やれてないな)


 あれから色々なことが起こり過ぎて、哲矢はそのことをすっかりと忘れてしまっていた。

 地面に落ちる無数の花びらを眺めながら、哲矢は巻き戻ることのない時間の残酷さを知るのだった。

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