第114話 後戻りはできない
哲矢は今一度、心の中で同じ言葉を繰り返し唱えた。
(俺の正体がネットに漏洩している……)
しばらくするとその台詞は、石灰石を混ぜ合わせたセメントが素早く足元を固めてしまうように、確固たる事実として哲矢の心に突き刺さるのだった。
すると、ちょうどその時。
先ほどの花が放った言葉が哲矢の脳裏に自然と甦る。
(あぁ……そうか)
今になって花が唖然とした意味が分かる。
彼女も同じように洋助から聞かされた言葉をそのまま口にしていたのだ。
だから、本来ならば哲矢は改めて洋助からその言葉を聞かなくても、すでに内容を理解していたはずなのだ。
だが、哲矢の識閾<しきいき>はその言葉を受け入れなかった。
信じたくなかったのだ。
それを受け入れることは、すなわち明日の計画の頓挫を意味してしまうからである。
「…………」
いつの間にか、哲矢の手にはブラックアウトしたスマートフォンが握られていた。
多分バッテリーが切れたのだろうが、潜在的意識が起こした小さな反抗という可能性もあった。
どちらにせよ、洋助に何か付け入る隙を与えたくないと哲矢が考えていたのは確かだ。
結果的にはこれでよかったのかもしれない、と哲矢は思う。
これ以上、洋助に何か言われたら、頭がパンクしてもおかしくはなかった。
(俺の正体……少年調査官の存在が、ネットに漏洩してるって……)
一体誰が、どうして、なんのために。
いくら哲矢が考えてみても、答えが出ることはなかった。
自然と今朝の清川の言葉が頭に浮かぶ。
〝このままだとね、誰かが外に漏らさないとも限らないでしょ?〟
彼はこの結果を予測していたのだ。
おそらく、その先に待ち受ける事態についても。
哲矢はもう何も考えられなかった。
徐々に頭がぼーっとして、意識が遠のいていくのが分かる。
すべてのものごとが夢か幻のように感じられるのだ。
遠い場所の自分とは関係のない出来ごと。
例えば、それはネットから流れる異国の地の戦争や災害。
そんなニュースを自宅のリビングで寛ぎながら眺めているような非現実感が、哲矢を雁字搦めに縛りつけるのだった。
「――っ! ――君!」
誰かの声が廊下に響き渡る。
それは哲矢の意識を現実に繋ぎ止める楔の役割を果たしていた。
パシンッ!
やがて、何かが破裂したような甲高い音がその場に鳴った。
「っ!?」
時間差で哲矢の頬に鈍い痛みが走る。
そこでようやく、哲矢は花に平手で叩かれたという現実を認識した。
「ご、ごめんっ……」
申し訳なさそうに上目遣いで覗き込む花と再び目が合う。
「……いや、すまん……。ありがとう、おかげで目が覚めたよ」
哲矢は笑顔を見せ、花に親指を立てる。
「ただ、次からはちょっと手加減してくれると嬉しいかな。なかなか重い一撃だったぞ」
「ごめんなさいっ……! 私一体なにを……」
「お、おいおい……。まさか無自覚のうちにやってたのかよ」
花はパタパタと両手を振って頭を何度も下げる。
それから彼女と自然に会話を交わすことができるまで暫しの時間が必要であった。
◇
外も徐々に陽が傾き始めていた。
廊下を行き交う生徒の数も減り、校舎はもの寂しさに包まれていく。
この場所に留まり続ける理由はない、と哲矢は思った。
ゴングの聞いた戦士たちに休息は許されないのだ。
「悪い。勝手に借りてたよ」
哲矢は握りっぱなしとなっていたスマートフォンを主へと返却した。
そして、肝心の話を彼女に確認する。
「あと、途中でバッテリーが切れちゃったみたいなんだ。それで……風祭さんの話、最後まで聞けなかったんだけど、なんて言ってた?」
「えっ……。哲矢君も聞けてないの?」
液晶画面が真っ黒となったスマートフォンを受け取りながら、花の表情がみるみる曇っていく。
次の瞬間、彼女は廊下の床を蹴り上げながら駆け出すのだった。
「哲矢君! 急いで宿舎に向かおうっ!」
「で、でも部活は……」
「それどころじゃないって! 今は風祭さんから詳しく状況を聞かないとっ! 哲矢君も早くー!」
次の幕は哲矢たちの都合などお構いなしに開けようとしていた。
小さくなっていく花の背中に目を向けながら、哲矢もすぐにその後を追いかける。
それから帰宅途中の生徒を抜き去り、花に追いつくこと数秒。
下駄箱まであと少しというところで哲矢は重要なことを思い出す。
「待ったあぁぁぁストップーー!!」
「えぇー!?」
器用にも踵でブレーキをかけた花がぴたりと立ち止まる。
「どしたのっ?」
「ひとつ確認しなきゃいけないことを思い出したんだ!」
「確認?」
「悪いがこのままついて来てくれっ!」
「ちょ……ちょっとっ、哲矢君っ!?」
哲矢はそのまま強引に花の手を取ると、来た道とは別の方角へ向けて走り出す。
◇
彼女の手を引いて哲矢がやって来た先は三年A組の教室であった。
すでに放課後となってからかなり時間が経過しているということもあって、教室に残っているクラスメイトはいない。
カーテンの隙間からは緩やかな春風が吹き込み、もうじき辺りを黄金色の光に包もうとしていた。
「ねぇ哲矢君っ! どうして教室なんか……」
その声は明らかに苛立っている。
〝早く宿舎へ行って話の続きを聞かなきゃいけないのに……〟という使命感にも似た感情がありありと伝わってきた。
だが、哲矢には一から事情を説明している余裕を持てていなかった。
彼女の手を放し、半ば無視するようにして哲矢は自分の机へと直行する。
「……ッ、マジかよっ……」
哲矢は愕然する。
恐れていた事態が現実に起こってしまったことで、頭の中は真っ白となった。
「ないっ……! なんでッ……」
いくら机の中を覗き込んでもそこにあるべきはずのものが忽然とその姿を消していた。
教科書やプリントを机の上へと引っ張り出し、改めて中を探してみるが、哲矢の壊れたスマートフォンはどこにも見当たらなかった。
今朝、確かにこの中へ入れたはずなのだ。
(あっ……)
しかし、その時、哲矢はあることを思い出す。
それは利奈と会う直前、帰り支度を済ませていた時のこと。
例の脅迫文を取り出して鞄の中へ放り込んだ際に、哲矢は一度机の中をしっかりと覗いていたのだ。
「くそっ!」
思わず汚い言葉が飛び出してしまう。
気づけなかった自身の甘さを哲矢は呪った。
あの時からすでにスマートフォンは机の中から姿を消していたのである。
考えられる可能性はただ一つしかない。
何者かによって持ち出されたということ。
一体誰が、どうして、なんのために……。
再び洪水のように溢れ出す疑問を哲矢は止めることができない。
花の声が近くで聞こえる。
だが、哲矢の意識まで届くのは、どこかでカタカタと鳴り響く歪な歯車の音だけであった。
そして、それは悠然と語りかけてくるのだ。
〝お前はすでに後には戻れないところまで来てしまっている″と。




