第106話 記憶喪失
哲矢は強力なメイの言葉に飲み込まれかけていた。
(記憶喪失? これまでの記憶をすべて失っている? なにをバカな……)
直観的にそう思うも、メイの言葉を完全に否定することができない。
むしろ、逆の発想をしてしまう。
(……いや待てよ。そう考えた方が自然なんじゃないのか?)
将人が記憶を失っているのだとすれば、大体の物ごとは説明がつく。
彼が容疑を認めている謎も簡単に解決する。
記憶が無ければ、社家にそそのかされたとしても否定することができないからだ。
しかし、仮にこれが事実であるとして、どうしてそう考えるに至ったのか。
これをメイに確認しておく必要があった。
哲矢は彼女の目を真っ直ぐに捉えるとこう投げかける。
「どうしてそう思うんだ?」
「え?」
「だって、そこまで断言するからにはちゃんと理由があるんだろ? どこでそれに気づいたんだ?」
まさか突っ込まれるとは思っていなかったのかもしれない。
メイは哲矢の問いに少しだけ驚きの表情を覗かせる。
その一瞬の間は、哲矢にとっても緊張の瞬間であった。
やがて、すぐに考えがまとまったのか。
彼女は頭上高く広がる青空を一度仰ぎ見ながらこう口にした。
「家族についての質問に答えた時よ」
「家族?」
その時、哲矢の脳裏に3日前の将人との面会での出来ごとがフラッシュバックする。
将人が『家族はいない』と答えたことにメイは激高し、今にも掴みかかりそうな勢いで彼に詰め寄ったのだ。
あの時のメイは明らかに常軌を逸した雰囲気があったということを哲矢は思い出す。
だが、何か思うところがあっての行動だったのかもしれなかった。
そして、哲矢は続く彼女の言葉によりその理由を知ることとなる。
「……テツヤには話してもいい頃かもね」
普段見せない柔らかい微笑みを浮かべた後、メイは静かに口を開いた。
「私には、母親がいないのよ。私を産んですぐに死んでしまったの」
春風に運ばれた彼女の言葉が中庭に響く。
それは、哲矢が初めて耳にするメイの過去についての話であった。
思わず拳をぎゅっと強く握ってしまう。
自分は今、彼女にとって特別な存在なのだ、と。
そのことを哲矢は強く実感する。
メイは大きく息を吐き出すとさらに言葉を続けた。
「だから、あの時。家族はいないって答えたあいつが許せなかったの。だって、マサトの母親は多分生きてるから。その気になれば会えることだってできるのよ」
華奢な肩にかかるブロンドの煌びやかな髪が風に揺れる。
メイの体は少しだけ震えているように哲矢には見えた。
(将人に食ってかかったのはそういう理由があったからなんだ)
メイが悔しく思う気持ちも分かる。
もし仮に自分に母親がいないとして、あの場で彼の発言を耳にしたら、きっと思うものがあったに違いない、と哲矢は思う。
けれど、それは主観的な見方である。
将人は生まれて間もない頃に離婚で母親と別れており、そのような境遇にある彼が『家族はいない』と答えたところで、誰にもそれを責める権利はないのだ。
やはり、どうしてもメイの行動は行き過ぎであったように哲矢には思えてしまう。
たとえ、気になる発言を耳にしたとしても、ぐっと堪えなければならない場面であったはずだ。
そんな風に考える哲矢の姿を見て、メイは高く美しい眉を寄せて目を細める。
何か言いたそうな表情だ。
「……待って。勘違いしてない? 私はなにもそれだけが理由であんな態度を取ったわけじゃないわ」
「違うのか?」
「心外ね。そこまで気は短くない」
いや沸点はかなり低い方だと思うが……と、心の中でつっこむ哲矢であったが、ぐっと言葉を飲み込む。
これから彼女がとても重要なことを言おうとしているのが分かったからだ。
「まだ肝心の答えを言ってなかったわね。私がマサトを記憶喪失だって思った理由……」
勿体つけるような間を置いた後、メイはようやくその答えを口にする。
「家族はいないって、言った時のあいつの言葉……とても平坦で感情が欠落していたわ。それで私はハッとしたの。受け答えの中で引っかかっていたものが一気に晴れたように感じた。この男は〝自分が誰か分かっていない〟って」
「まるで仮面を被った偽物がマサトのふりをしてその場に座ってるように私には思えたの。もちろん〝本物〟のマサトが家族についてどう思っているかは分からないし、私に理解できたことはただ一つ」
「偽物が彼の家族について我がもの顔で語っているということ。こう答えるのが正しいんでしょって、目の前で答え合わせをされているような気がしてしまったのよ。だから、私は……」
「…………」
あの日の彼女の行動には二重の意味が込められていたのだ。
〝本物〟の将人のために取った行動でもあったわけである。
それだけで記憶喪失と断言できるかはまだ疑問であったが、メイが口にした『あいつの本心を覗いてみたい』という言葉の意味が今なら哲矢には理解できた。
「……分かった。体調がもう平気なら俺は止めない」
「ま、一応報告ってことでね。本人に会ったら直接そのことを訊ねてみるわ。あとできちんと連絡もするから」
「おう。頼んだ」
これで表と裏から事件の真相に迫ることとなる、と哲矢は思った。
結果的にメイの行動は、事件を多角的にということを哲矢に教えてくれるのであった。




