2. 主と餅をいただく
ウメの主が以前に暮らしていた中央は、にぎやかな場所だった。
梅の木として主の庭に留まっていたウメは屋敷の外を見たことはないが、塀の向こうからは人間が行き来する音がよく聞こえた。
主の屋敷にも、たくさんの人間が住んでいたし、物売りや職人の出入りも多かった。
だがこの西の地は、なんとものどかな場所だ。
こうしてウメと主が歩いていても、ほとんど人間に出会わない。
おかげでウメは、主とふたりだけでのんびり散歩を楽しめる。
(あるじ様が左遷されて、本当によかったなあ……)
ふふっとウメが微笑んでいると、どこからか、ホーホケキョと柔らかい鳴き声が響いた。
「……鶯か。美しい鳴き声だな」
主は貴人だから、豊かな感性を持っている。中央にいるころ、ウメの木に咲く梅の花も、美しいなとしばしば褒めてくれていた。
「鶯といえば。最近、私の梅の木によく来る鶯がいますよ」
「ああ、私もたまに見かけるな」
「鶯は警戒心が強いので、普通は人間の前に出てこないはずですけれど。のんきな鶯なのでしょうね」
変わっていますよねと笑えば、主に小さくため息を吐かれた。
「ウメ、お前も十分に変わっている。私の後を追って、こんなところまで来るのだからな」
主の言葉に、ウメはぱちくりと目を瞬いた。
「あら、梅はとても忠実な性質なのです。主と決めた方について行くのは当然のことですよ」
「当然なのか」
「当然、です」
ふうんと興味深そうに頷く主ににこにこしていると、前方から、なにかが焼けるよい香りが漂ってきた。
そちらへ目をやれば、腰かけた老婆がのんびりとなにやら焼いているのが見える。露店のようだ。
「……焼き餅だな」
「わあ、美味しそうですね」
露店に近づいていくと、餅を焼いていた老婆が主に気づいて顔を上げた。
「おや、公ではありませんか。散策ですか」
「ああ。天気がいいのでな。最近は変わりないか?」
「はい、おかげさまで無事に過ごさせていただいております。……おおそうだ。公、よければこちらをお持ちください」
老婆は今まさに焼きたての餅をなにかの葉に包み、主に差し出した。
「そうか。ではありがたく」
この辺りでは主のような貴人はまったく見かけないので、住民たちの主に対する尊敬の念は強い。だからこんなふうに物を献上されることはよくある。
これほどに尊い存在として崇められていれば、主はいつか神にでもなってしまいそうだなとウメは思っている。もしそうなれば、それこそウメはずっとお仕えできるというものだ。
「ウメ、食べるか?」
「いえ、あるじ様ひとりでどうぞ。今日はほとんど食べていないでしょう。私は食べずとも問題ありませんから」
そう、屋敷にはもうほとんど食料がない。だからこの散歩もただ歩いているのではなく、木の実や野草など食べられるものの収穫を兼ねている。
主は人間だから、十分に食べないと死んでしまう。
「まあ、腹は空いているが。だがこれはきっと美味いだろうから、お前も一緒に味わうといい」
確かに、主の手にある焼き餅からは、いかにも美味しそうな香りが漂ってくる。
ウメは食べずとも生きていけるが、味を楽しむ感性はあるのだ。
(焼き餅はとても美味しそうだけど。でも、…………)
誘惑に迷ってじっと焼き餅を見つめるウメに、主がくくっと笑い。
「ほら、」
焼き餅を小さくちぎり、ウメの口の中へ押し込んだ。
「どうだ?」
「…………とても美味しいです」
もぐもぐと味わってからウメが感想を伝えると、主も焼き餅にかじりついた。
「ふむ、うまいな」
「はい」
再び主が焼き餅をちぎったので、ウメは素直に口を開けて待つ。すると期待どおり、香ばしい欠片が押し込まれた。
「そういえば、よくお屋敷に来ていた方で、とてもお餅が好きなお客人がいましたね」
「……ああ、あの節操なしか」
「節操なし…………?」
「あれは見目が良い上に非凡な歌の才を持つから、侍女に好まれる」
人間はそういうところに魅力を感じるらしい。
「他にも、お酒が好きな方が……あ、だいたいの方はお酒が好きでしたね」
「そうだな。あのころはよく客人が来て忙しなかった。みな、こちらの迷惑も考えずに押しかけて来る」
「ふふっ。でもあるじ様は楽しそうでしたよ」
「………………」
有能な主は中央で人気者だったから、しばしば客人があった。
仕事の客人も、私的な客人も、主は精力的に相手をして。そういったことを苦にしている様子はなかったと思ったが。
「まあ、あのころは仕事で認められることを至上だと考えていた」
「今は違うのですか?」
「……今の静かな暮らしも、私は気に入っている」
「わあ、本当ですか? 私もすごく気に入っています! こうしてあるじ様のお側に侍ることができますから」
にこにこと笑えば、主が目を細めてウメを見た。
「そうだな。……お前とふたりの暮らしは、悪くない」
陽ざしは柔らかくなってきたとはいえ、まだ吹き抜ける風は肌を刺すような冷たさのある季節。
だが主との散歩は、不思議と寒さを感じなかった。




