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1. 主との日常

朝。米びつをのぞいたウメは目を瞬いた。


「あるじ様、大変ですよ。食料がありません」

「ああ……?」


まだ眠そうな顔をこちらへ向ける主に、ウメの言葉は届いているのか。

きっとまた、遅くまで読書に耽っていたに違いない。外の国から新しい書籍を手に入れたと嬉しそうに言っていたのだ。


「あるじ様、起きています? 見てください、これ。朝はともかく、昼は作れませんよ」

「おお、それはまずいな…………」


底が見える米びつを示して繰り返し告げたところで、ようやく理解してくれたらしい。

ウメは食べなくとも問題ないが、主は人間だから食物による栄養摂取が必要だ。このままでは主の生命維持が困難になる。


「どうしましょうか。梅の実でよければいくらでもお出しできますけど」

「まあ、それも悪くないが。それだけではな」

「そうですね」

「…………釣りにでも行くか」


本日の予定は、食材確保ということになった。



ウメの主は、中央で活躍していた役人だった。だがその才能を妬まれ、中央から遠く離れたこの西の地へ左遷されてしまった。

そしてウメは、屋敷の梅の木に宿っていた梅の精だ。主が西へ居を移すことになって別れを告げられたが、ウメは大好きな主と離れることが嫌だった。幸いなことに、この西の地は梅の生育に適した土地だったから、勝手について来てしまった。庭に突然現れたウメに主は呆れていたが、それでも追い出されたりはしていないので、ここに居ても良いのだろう。

中央にいるころ、博識で仕事のできる主は人気者で、いつも誰かが周りにいた。

だが、今は使用人さえもいない小さな屋敷。だからウメは、人間の姿に化けてこうして主の世話ができるようになったのだった。



食材を使い切った朝食を終えて、近くの川へ釣りにやって来た。


「あるじ様は、釣りが得意なのですか?」

「んー、まあ、ほどほどだな」


主が釣りをするところをウメは見たことがない。だが主はなんでも出来るすごい人なので、きっとたくさんの魚を釣るのだろう。

近くの住民に米と交換してもらえば、しばらくはしのげるはずだ。


川を渡る風に顔を上げれば、冬の晴れた空は澄み渡っている。まだ早い時間だが、暖かい陽ざしのおかげでそれほど寒くもない。


「よい日和ですね、あるじ様」

「ああ」


ちょうどよい場所を探して敷布を広げ、川辺にふたりで並び、主はのんびりと釣り糸を垂らした。


「………………」

「………………」


だが、それからしばらく待ったものの、一向に釣れる気配がない。

ぴくりとも動かない釣り糸を見つめながら、ウメは呟いた。


「釣れませんねえ、あるじ様」

「そうだな…………」


主は気にした風もなく、頷くだけだった。

思い返してみれば、このように長い時間を共に過ごせることは以前ではなかったことだ。主は忙しい身だったから、朝から晩まで外で働いていて、ウメは主の帰宅を庭で待つのみだった。

当時、それを寂しいと思ったことはなかったのだが。


「あるじ様、よかったらどうぞ」

「いただこう」


取り出した杯を主に差し出す。杯の中身は、梅の実と砂糖を漬け込んだ甘い汁に冷水を加えたものだ。

主は釣り竿を置き、笑みを浮かべて受け取ってくれた。


「よい香りがするな」


これはウメの力で作り出したもので、ウメが望んだ相手にしか与えることはできない。つまり主にしか味わえないものだから、主に喜んでもらえればウメは嬉しい。

その嬉しさと、今はこうして側に侍ることができる喜びが重なって、ウメは子供のように主の腰に抱きついた。


「ふふふ」

「ん、どうした?」


杯を片手に、主はウメの頭を撫でてくれた。

中央の屋敷でも、たまに梅の幹を撫でてくれることがあったが。人間の姿の自分に触れられるのは、また違う心地よさがある。

その心地よさがもっと欲しくなり、主の方へすり寄ってみる。衣擦れの音をたてる主の上衣から、ふわりと墨の香りがのぼった。


「あるじ様は、墨の香りがしますね」

「そうか。ウメ、お前は梅の香りがする。……かぐわしいな」


すいっと髪の毛を一房取られて、主の顔が近づいた。

なぜだか、頬が熱くなる。


「…………ウメ、」


主がなにか言おうと口を開いたところで、くいくいっと、それまで微動だにしなかった釣り竿に反応があった。


「おっ、」


主は慌てて釣り竿を掴んで姿勢を変えると、慎重に水面の様子をうかがう。

ウメもその腰から手を離し、主の邪魔をしないように息をひそめてじっとしていた。


「……くっ、…………、」


釣り竿の先には確かに何かがいるようで、釣り糸が忙しなく浮き沈みする。主がその動きに合わせて器用に釣り竿を操るのを、ウメは固唾を飲んで見守った。


「………………ああっ、」


だがしばらく後、するりと紐がほどけるように釣り竿のしなりが戻った。


「逃げられたか」

「あー、惜しかったですね、あるじ様。もう少しで今日の夕飯が釣れたのに」

「まあ仕方ない。今日のところは、近所の者になにか分けてもらうとするか」


ウメは苦笑しながら主の横へ戻り、今の奮闘で乱れた衣服を整える。

甲斐甲斐しく世話を焼くウメを見ていた主が、ぽつりと呟いた。


「……お前も、物好きだな。わざわざ私の世話をせずとも、梅の木なのだから庭で大人しくしていればいいものを」

「ふふ。私はあるじ様が大好きですからね。いつでも側にいたいし、お役に立ちたいのですよ」

「………………そうか」


ウメにとっては当たり前のことを言えば、主はまるで眩しいものを見るように目を細めてウメを見つめた。


「帰るか」

「はい」


主の差し出す手に、ウメは微笑んで自分の手を乗せた。

すると主も頬を緩めて、きゅっと握ってくれた。



ウメの主は中央から左遷され、少しどころではなく貧乏になった。だが、こうして釣りをしたり、好きなだけ読書をしたりと毎日が楽しそうだ。

食料に事欠くのは困りものだが、いざとなったら主には人間をやめてもらって、梅の精になってもらえばいい。そうすれば、主もウメと同じように水と光があれば生きていけるようになるし、ずっと側にいられる。


主が左遷されて本当によかったなと、ウメは思っている。


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