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ノスタルジー

クリスマス・ギフト

作者: mizuki.r

平成、西暦にするとだいたい2000年頃を背景にしているため、街の様子やコンテンツ、通信事情など、現代とは違っている点がけっこうあります。

生暖かい目で、楽しんでいただけると助かります。

 ウィンドウディスプレイの中ではトナカイが橇を引き、ポスターの中ではサンタクロースが笑っている。歩くにつれて聞こえてくるクリスマスソングは、定番のものから新しいものまで、つぎつぎに入れ替わっていく。

 クリスマスを目前に控えた日曜日。石井栞は一人銀座の地下道を歩いていた。イブの夜に会う恋人の妹尾恭平にプレゼントを買うためだ。

 四丁目の交差点で地上に出て北へ向かうと、やがてブランドの直営店が並ぶ交差点が見えてくる。カルティエの店の前で立ち止まった。

 妹尾と二人で入ったことは何度かある店だったし、そのうち一度は、ちゃんと客としてペンダントをプレゼントしてもらっている。けれど、一人で中に入るのは初めてだった。妹尾と出会う前ならば、近づこうとも思わなかったような店だ。連れがいないとなると、緊張せずにはいられない。けれど、あの時計を彼に贈るには、どうしても中に入らなければならない。

 ドアの前でためらっていると、ガードマンがドアを開けてくれてしまった。覚悟を決めてフロアに足を踏み入れる。

 ゆったりとしたフロアには、それぞれの存分を十分に誇示できる広いスペースを取って、きらびやかなアクセサリーが並んでいる。店員達も、その辺のジュエリーショップとは違い、奇妙な愛想の良さですり寄ってくることもせず、品よく控えている。

 ひどく居心地が悪かった。誰とも目を合わせないようにして、遠くからケースだけを見ていく。

 おびえる必要は無い。萎縮する必要はない。ちゃんと客としてこの店に来ているのだから。そう言い聞かせていないと、逃げ帰ってしまいそうだ。

 だから逃げ出してしまう前にそれを見つけたときには心底ほっとした。

ショーケースの中に置いてあるのは、長方形の文字盤をもつシンプルな時計だ。おそるおそるその前まで近寄った。

 間違いない、彼が気に入っていた品物だ。

 ――値段の割に悪くないよね。――

 妹尾の言葉が耳の奥に蘇った。 

 しかし、彼がさほど高くないという値段は、栞ならば部屋代を除けば一年暮らせるほどの金額なのだ。

 ためらう自分をなんとか鼓舞し、栞は店員にアイコンタクトを求めた。客の栞よりも華やかな気配をまとい、店員はにこやかに近づいてきた。

「すみません。これを」

 栞はつばを飲み込む。 緊張で手が汗ばんでいる。

「これ。ください」

 性急な栞の様子に、あわてるふりもみせずに店員は頷く。

「贈り物でいらっしゃいますか」

「はい」

 答えたとたんに、なんともいえない誇らしさ身の内からあふれ出してきた。

 そう。これは恋人への贈り物なのだ。

 栞は財布の中から、デパートのメンバーズカードと一緒になっているクレジットを出そうとした。手がかじかんでいるかの、うまくつかめない。

 ネットショッピングで使うことはあるものの、店で買い物をするときに使うなんて、一人暮らしを始めたときに電化製品や家具を買ったとき以来なのだ。

 サインをするだけしてしまえばあとは待っているだけ、というあまりに簡単な手続きに、三年前と変わらず頼りない気分になる。本当にこんなに簡単な手続きで何十万という買い物が出来てしまって大丈夫なのだろうか。

 けれどやがて、そんなふうにとまどっている自分が滑稽に思えてきた。

 いったい何をこんなに緊張しているのだろう。たしかに高価ではあるが、時計は大事にすれば一生ものなのだ。普通のOLだって、今、栞が払った程度の金額なら、自分自身の楽しみのためにつぎ込んでいる。

 いや、普通の。といってしまってはあまりに人ごと過ぎるだろう。彼女の会社はさほど有名ではないメーカーだったが、それでも、同僚の中には、エステに旅行にと、十万、百万単位でつぎ込んでいる者もいる。ブランドの時計やバッグを持っているとなると、もう珍しくもない。今までの彼女の感覚が、あまりに慎ましすぎたのだ。

 妹尾と結婚するなら、使うべきところでは、もったいながらずにお金を使うことを覚えた方がいい。

 手渡された細長い包みをバッグにしまうと、それを抱きしめるようにして店を出た。

 歩道に出て深呼吸した。冷えた空気が顔や喉にあたってすがすがしい。

 あらためてこみ上げてきた幸福感を噛みしめながら、ふわふわとした足取りで、歩行者天国で人のあふれている車道を横切る。この後は、イブの日のデートに着るコートを探しに、松屋に向かう予定なのだ。

 六桁の買い物をした後で、さらに自分の買い物をすることにはためらいがある。しかし、せっかく予約を入れてくれたフレンチのレストランに、今着ているような安物の、それも何年も着ているコートで行っては彼に恥ずかしい思いをさせてしまうだろう。

 と、その時、何気なく眼を向けた松屋通りの辺りの人混みの中に、見慣れた横顔を見つけた。

 きゅっと胸が痛んだ。

 妹尾だ。

 いや、会いたい。会いたいと思っていたから、似た人が彼に見えるだけかもしれない。そう思い直し、目をこすって見直してみたが、それはやはり彼だった。

 ぱあっと体中が暖かくなった。

 今日は仕事が入ってしまった。と断りの電話がかかってきたのだが、場所が銀座だったのだろう。今から向かうところなのだろうか、終わったのだろうか。

 やはりわたしたちはつながっている。この東京の雑踏の中でこんな偶然に出会えるなんて。

 心臓が激しく脈打ちだし、ふわりと体が浮き上がる。栞はそのまま妹尾の元に駆けていこうとした。しかし。

 彼のその横にもう一人、さらによく知っている姿があることに気付いた。

「里沙……なんで?」

 二人の表情は、和やかというより、どこか張りつめたもののように見えた。

 栞と斉木里沙とは、学生時代からのつきあいになる。あまり人付き合いのよくない栞にとっては、ほとんどただ一人の友人といいきれる相手だ。だから妹尾と里沙が顔見知りであることは、なんの不思議もなかった。栞自身が二人を引き合わせたのだ。

 しかし、二人きりで会うようなつきあいは無いはずだ。

 人の動きに連れて、ちょうど彼らの手前が空き、様子がはっきりと見えた。二人はしっかりと寄り添い、里沙の腕は妹尾の腕に絡みつけられている。

 掛けだそうとしていた足が、こわばって動き出せなくなった。

 どういうことなんだろう。

 混乱ととまどいが押し寄せてくる。栞は首を振った。

 追わなければ。追ってどういうことなのか聞かなければ。

 けれど、どうしても歩き出すことができない。

 見ているうちに、彼らの姿は銀座通りを横切り、有楽町方面へと松屋通りを入っていこうとしている。

 見失ってしまう。

 焦る思いが、ようやく栞の背を押した。

 あわてて走り出したとき、足が何かにぶつかり、体がよろけた。家族連れのベビーカーを蹴飛ばしてしまったのだ。

 ほんの少しぶつかっただけなのに、栞と同年代の母親は、大げさに声を上げてバギーの中の赤ん坊を覗き込む。

 いつもなら、苛立ちながらも平謝りに謝ったのだろうが、今の彼女は、いちいちまともに取り合っていられなかった。

「すみません」

 全く気持ちの入らないわびの言葉を吐き捨てて、再び走り出した。けれど、家族連れに気をとられていた間に、二人の姿は消えてしまっていた。

 松屋通りに入ったのか、地下に潜ったのか、あるいは近くにあるどこか他の店に入ったのか。

 駆け足で、さっきまで彼らのいた場所へ行き、辺りを見回したが、やはり見つからない。 進んでいた方向を見越して、松屋通りを有楽町方面へと向かった。しかし、見つけることが出来ないまま、西銀座通りまで辿り着いてしまう。しかし、そこで直ぐに諦められるはずもない。

 その先のあてなど無かったが、栞は、さらに銀座を歩き回った。西銀座通りを南に下り、みゆき通りを通って銀座通りに戻り、そちらに居るはずなどない。と思いながらも丸の内方面へ。……ずっと歩き続けるうちに、だんだん何のために歩いているかも分からなくなっていった。ただ、止まることがどうしても出来ない。

 息が苦しかった。

 足早に歩き続けているからではない。激しくなった動機が収まらないのだ。

 自分の見たものが信じられなかった。

 デートを急にキャンセルしなければいけなくなった別の用事というのは、仕事ではなくて里沙と逢うことだったというのだろうか。

 余りの情けなさに立ち止まると、急にめまいがしてきた。立っているのが辛い。けれど銀座の真ん中でしゃがみ込むこともできない。辺りを見回して、一番手近にあった喫茶店に飛び込んだ。

 いかにもグルメガイドに載っていそうなしゃれた店内は、女同士のグループやカップルで埋め尽くされ、和やかな会話が行き交っている。BGMはピアノソナタ。

 ミルクティーを頼み。彼女はテーブルをにらみつける。

 それからようやく思いついて、携帯電話を取り出し、指に馴染んだ番号を押す。

 しかし、妹尾の携帯は留守番電話になっていた。

 続いて里沙。こちらも出られませんとメッセージが流れる。

 冷や汗が滲んでくる。

 やはり。でも、どうして……。

 そのとき、栞の脳裏には数ヶ月前の出来事が蘇っていた。



 たしかその日は、夕方からデートだった。それで、昼の間、里沙にショッピングにつきあってもらったのだ。

 妹尾と会うようになってから、それまでは入ったこともないような高級な店に入る機会が増えた。いままでの安い服では、自分はともかく、彼に恥ずかしい思いをさせてしまう。何度か、君はもっと自分にお金をかけるべきだと言われてもいた。

 だから思い切って新しい服を買うことにしたのだが、では、どこでなにを買えばいいのか見当もつかない。それで、里沙に見繕ってくれるように頼んだのだ。

 したことのない贅沢な買い物に、あの日の栞はいつも以上に浮き立っていた。

 買い物を終えたあと、待ち合わせまでの空いた時間、里沙とお茶を飲んでいる間も、ついつい、いつも以上に妹尾ののろけ話をしていた。

 いつもの彼女は、自分の話ばかりするのはあまり好きではなかったし、照れもあって、初めてできた恋人のことを親友にすらあまり話していなかったのだ。だが、里沙が熱心に話を聞いてくれたこともあり、その日は堰を切ったように話し続けた。

 英会話教室での出会い。

 彼から声をかけてきてくれたこと。

 初めてのデート。

「すごいわ。よくそんな人とつきあい始めたわねぇ」

 社内恋愛をしていた同僚と別れて、ここ一年ほど独りだった里沙はしみじみと呟く。

 栞は妹尾と知り合うまで、恋人といえるほどのつきあいの男性はいなかったのだが、里沙は、どちらかといえば恋愛の相手は切らさないタイプだった。大学以来のつきあいの間、こんなふうに互いの立場が入れ替わることは初めてだったので、栞は少し調子に乗っていたのかもしれない。

「そんなこといって。この前、高校のクラス会で当時に気になってた人と盛り上がっちゃったって言ってたじゃない」

「うーん。あれねぇ。いいやつだし、一緒にいて楽しいのは間違いないんだけど、見た目がいまいちなのよ。仕事もちょっと不安定だし。それより、その彼の友達とかに、将来有望な人とかいないかしら。ね、今度、彼、紹介してよ」

「そのうちね」

 ほんとうは栞も早く妹尾を紹介したかった。けれど、彼には意外に人見知りのところがあり、あまり面識の無い相手とは会いたがらないのだ。仕事で気疲れすることが多いので、プライベートは安心できる相手とだけのんびりしたいのだという。

 だから、そのとき話はそこで終わり、二人は別れた。それなのに待ち合わせのカフェに妹尾があらわれた直後、別れたはずの里沙が店に入ってきたのだ。

「へへっ。来ちゃった」

 ぺろりと舌を出すと、二人が何も言わないうちに栞の隣に座り込む。妹尾はあきらかにとまどっていたようだが、恋人の親友と言われては無理矢理返すわけにもいかなかったのだろう。結局は食事まで三人で行くことになった。

 妹尾のいきつけだというイタリアンレストランで、

「栞って、今時の女の子とは思えないくらいまじめなんですよ。だから、その彼女が夢中になってる人が、ほんとうにふさわしい人か、この目で確かめたかったの」

 そう言ってわるびれない里沙にはらはらしながら、栞は三人分のアンティパストを取り分ける。

「あ、わたしカルパッチョはいまいちなのよ。ごめん」

 そう言って栞の皿に料理を移動させながら、里沙は妹尾の方に身を乗り出す。

「IT関係の会社をやってらっしゃるんでしょう。でも、そうしたら、いくらでも華やかな女性と知り合う機会があるんじゃないですか。たしかに栞はいい子ですよ。同性からみたらほんとうにものすごくいい子。私がお嫁さんにほしいくらい。でも、けっしてぱっと見て人目をひくタイプじゃないでしょう。いったいどこが気に入ったんですか?」

 けっこうひどいことを言われているような気もするのだけれど、いつものことなので文句を言う気にもならない。

「だからこそ。かな。たしかに、派手な女性とはいくらでも知り合えます。でも、栞ちゃんみたいに、家庭的で優しい女性はいない。だから思い切って声をかけたんです。話していて、ものすごく新鮮だったし、ものすごくほっとできた。ずっと一緒にいたいと思った。それに……栞ちゃんは、派手じゃないけど、僕にとっては、最高にかわいい女性ですよ」

 そう言うと妹尾は里沙にではなく、栞に笑いかけてくれた。誇らしさで体がいっぱいになる。ぶしつけだと思っていた里沙の態度すら、この言葉を引き出してくれたのだと思えば許せた。

 しかし里沙は、栞の方が部外者であるかのように、身を乗り出し、はしゃいだ口調で妹尾に話しかけ続ける。

 だから食事が終わり、次の店にまでついてくることなく里沙が帰っていったときには、心底ほっとしていた。妹尾も、それまではおくびにも出さなかったのに、二人きりになると、うって変わってうんざりした様子を隠さなかった。

「おもしろい友達だね。でも、できればこういうことはもう勘弁してほしいな。せっかく栞ちゃんと二人でゆっくりできると思ってたのに、かえって疲れちゃったよ」

 そんなふうに言われても、あれでは仕方ないと思った。栞自身、彼女の態度に腹が立っていたのだ。

 それなのに、翌日、里沙は電話で。

「ねえ。ちょっと派手すぎない?」

 前日、彼と話していたときの、自分のはしゃいだ姿など、忘れ去ってしまったかのように囁いてきた。

「たしかに、そこそこいい男だけど、ちょっと気障すぎっていうか。よく、ああいう恥ずかしいことを口に出せるわよね。自分の見た目がいいのを分かってるって感じ。なんか嫌だな。それに、ちょっと経済観念もなさすぎない? そりゃあ今は、会社とかうまくいってるらしいから、いいかもしれないけど。何かあったときに、堅実な生活ができるのかなぁ……。それに、こんなこといったら怒るかもしれないけど、あれ、たぶん、女の人の切れないタイプよ。今は知り合ったばっかりで新鮮だから、栞に夢中なのかもしれないけど、また違うタイプが出てきたら、すぐにそっちに気持ちが行っちゃうんじゃない。悪い人じゃないのかもしれないけど……栞には合わないんじゃないかな」

 ひどくいやな気分だった。

 たしかに、彼は、彼女のような地味で野暮ったいタイプとは、釣り合わない人かもしれない。けれど、そんなことは栞自身が一番よく知っていることなのだ。

 それでも妹尾は彼女がいいといってくれた。その言葉を彼女は信じた。どうして、そのことを素直に祝福してくれないのだろう。

 もしかしたら、ほんとうにいま彼が自分とつきあってくれているのは、物珍しさからで、飽きてしまえば、もっと魅力的できれいな女性のほうに行ってしまうのかもしれない。しかし、それが現実になる前からそんなことを気に病んでいたってしようがないではないか。

「ねえ、聞いてる。わたし、栞にはもっと地に足のついたおっとりした男の人のほうが似合うと思うのよね」

「そんな人がどこにいるのよ」

 里沙が口ごもる。

「それは……まだ出会いがないだけで」

「じゃあ。いつ出会えるの。わたし、もう二十八よ。そういう人がどこにもいなかったから、今まで彼氏がいたことがなかったんじゃない。そんなわたしのことをいいって言ってくれた初めての人なの。妹尾さんは」

 何人もの恋人がいた里沙とは違う。栞にとって、妹尾は初めてまともにつきあった相手なのだ。

「ごめん……でも。ううん。いいや」



 そのあと、妹尾の話は出ることはなく、他の大学時代の友人の近況。出産や、転勤など。そんな話をして終わったけれど、何か苦いものが残り、以来二ヶ月以上里沙に電話をしていない。

 里沙の方からも、一、二度、他愛のない近況報告のメールが届いただけで、特に何も言ってくることはなかった。

 なのに、今日二人は栞に内緒で会っていた。それもひどく親しげに。いったい何のために一緒にいたんだろう。

ともすれば不愉快な方向へ流れがちな思いを、栞は必死に食い止めようとした。

 そうだ。栞が彼らを見かけたのがそうだったように、二人が会ったのも偶然だったのかもしれない。たまたま向かう方向が同じだったので、しばらく一緒に歩いていたのだ。

 けれど、そう偶然に偶然が重なるものだろうか。それに……しっかりと彼の腕にからみつけられた里沙の腕。

 いや、しかしあそこはあまりに遠かった。腕を絡ませていたのは、見間違いかもしれない。

 それよりも、そうだ。栞に内緒でなにかイベントを企んでいる可能性がある。ちょっと先だが、栞の誕生日は二月の末だ。サプライズパーティーや、不意打ちのプレゼント。里沙にはそういうことをして、人を驚かせては喜ぶような茶目っ気があった。

 だが、あんなふうに妹尾のことを悪く言っていた里沙がそんなことをするだろうか。

 いや、だからこそだ。だからこそ、ほんとうに二人で会って彼という人を見極めようとしているのかもしれないではないか。とすれば、あえて栞をはずしたことの理由にもなる。

 ならば心配はいらない。ちゃんと会って彼と話せば、彼がどれほど真剣に栞のことを思ってくれているのか、大事にしてくれるか、里沙にだって分かるはずなのだ。

 そもそも、あの里沙があそこまで彼を悪く言ったのは、ひょっとして栞の知らない、昔の彼のやんちゃぶりを知っていたとか、そういう事情があるからなのではないだろうか。里沙の知り合いの別の女性が彼とつきあっていて、逆恨みで悪口を吹き込んでいたとか。そういう事情があったのなら、すべてに納得がいく。

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか、あれが本当に妹尾と里沙だったのか。それ自体が疑わしく思えてきた。

 距離もあったし、人混みの中だ。それに、二人とも見栄えは良い方とはいえ、それほど個性的な容貌の持ち主というわけではない。

 言葉を交わしもしなかったのだから、人違いをしていた可能性は十分にある。妹尾のことばかり考えていたから、良く似た他人を彼と見間違えたのかもしれない。

 栞は冷め切ってしまったミルクティをぐっと飲み干すとため息をついた。

 なんで、こんな曖昧なことでぐるぐる悩まなければいけないのだろう。不安なら、聞けばいいのだ。彼なら答えてくれる。

 どうせ、イブには会えるのだから。

 立ち上がると、里沙は気分を変えるために毛糸を見に行くことにした。



 色彩が絡み合い、ふわふわとあたりを暖かく染め上げている。

 栞は、渋いグレーに鮮やかなブルーの混じったツイードの毛糸をうっとりと眺めていた。妹尾にとても似合いそうだ。

 セーターが編みたいと思った。けれど、手編みのセーターなんて贈っても、彼のワードローブの中には場所がない。思いが籠もっている分だけ、困らせることは分かっていた。だったら、マフラーぐらいならどうだろうか。ちょっとカジュアルな服装をしたとき、こんな色合いなら手編みでも彼に似合いそうな気がする。

 だが、目をつぶって想像を巡らせていると、だんだん自信が無くなってきた。

 妹尾の身につけているイタリア製のコートには、カシミアやシルクは似合っても、手編みはどうやっても似合いそうにないのだ。

 けれど……、

 未練がましく考える。今はデートの時に会うだけだから、彼もいつもスーツだけれど、もっと親しくなったらどうだろう。

 たとえば、家族になったら……。

 ドライブに出かけたり、子供を連れて遊園地に遊びに行ったりするときなら、彼だってもっとラフな服装をするはずだ。彼だって、芝生でお弁当を食べるときにまで、スーツであるはずがない。だとしたら、いつかきっとこの毛糸のマフラーの出番もあるはず……。

 ようやく、あまりに先のことまで想像している自分に気がついた。とたんに顔に血が上り、勢いで五玉を籠の中に入れていた。マフラーならどんなデザインでも、それだけあればまず足りる。

 本来のプレゼントは時計を用意したのだ。これは、受け取ってもらえたらということにしておけばそれでいい。だめなら、……最初のプレゼントだったモチーフ編みのタバコ入れのときのように、彼が困った顔で笑うなら、自分が使えばいい。いや、いっそ渡さなくても、彼のことを思って編んでいる時間が持てる、それだけでいいではないか。

 それから少し迷って、栞はさらに五つ、少し甘いグレーに優しいピンクの混じった同じ種類の毛糸を買った。彼がマフラーを受け取ってくれたら、おそろいを編もう。

 毛糸のぬくもりに癒されるように、気持ちはようやくふんわりと和らいでいた。



 けれど、帰りの電車の中、マフラーのデザインのことを考えていた栞の携帯にメールが入った。妹尾からだ。他とは着信音が違うのですぐに分かる。

「イブの日は仕事が入った。会えない」

 いつにもましてそっけない文章だ。頭がかあっと熱くなった。いつもなら、電車を降りてからゆっくり返信を打つのだが、そんな余裕はなかった。

 できるだけ、押しつけがましくない文章を考えながら、必死にキーを押し続ける。

「お仕事大変なのね。でも、できたらプレゼントだけでも渡したいの。一日中だめなの? ちょっとだけでもいいから会えない? それも駄目ならクリスマスの日でもいいわ。ごめんなさい。わがまま言ってるわよね。でも、今週も会えなかったし、少しでいいから顔が見たいの」

 間もなく、再び着信音が響く。待ちかねて開いたメールは。

「ごめん。どうしても無理だ。これから商談にはいるから、しばらくメールは返せない」

 ただ、それだけだった。栞はしばらくじっとその画面を眺めていた。消えかけていた不安がゆっくりと頭をもたげていく。

 言いたいことが次から次へと浮かんできて喉をつまらせる。けれど、何度かその言葉を打ち込もうとして、でも、文字にしてしまうのは怖くて。さんざん迷った末。彼女が贈ったのはごく短いメールだった。

「分かったわ。じゃあ都合のいい日が分かったらまた連絡をちょうだい。待ってる」

 送信されるのを確認すると、そのまま里沙の携帯を呼び出す。数回呼び出し音が鳴って、今度は聞き慣れた声が聞こえた。

「あ、栞! 久しぶり。さっきも電話くれたよね。ごめん、映画見てて電源切っちゃってたから出られなかったんだ。で、どうしたの」

 ひどく弾んだ声だ。どこか人混みの中にいるのだろう。ざわめきと一緒に、クリスマスソングが聞こえる。

 栞は、実のところ里沙が応答するとは思っていなかったので、話題などまるで考えていなかった。真っ白になった頭から、とっさに出てきたのは、彼女を試すような言葉だった。

「クリスマスイブの日なんだけど。彼、用事がはいっちゃたみたいなの。ふられちゃった。一人じゃ寂しいから会えない」

 しばらくの間があった。そして彼女は妙に優しく答える。 

「いいよ。じゃあ家においでよ。女二人で鍋でもしよう」

 ふっと力が抜けた。少なくとも、二人が会う予定ではないのだ。親友を疑った自分を一瞬責めて。でも、なぜか里沙はこんなにも嬉しそうなのだろうと、不安が蘇る。

「ほんとうにいいの? デートの予定は無いの」

「無い無い。あっても栞優先よ」

 あたっ。電話の向こうで里沙が低く声を上げるのが聞こえる。

「何っ、どうかしたの」

「ううん。別に、蹴躓いただけ」

 ゆっくりと暗いものがふくれていく。

「ねえ、今どこにいるの」

「あ、わたし。銀座、銀座」

 その答えに手が震え始める。

「へえ、そうなんだ。わたしもさっきまで銀座にいたの」

 電話の向こうで息をのむ気配がした。

「銀座。どこ」

 声が固いような気がするのは、気のせいだろうか。

「カルティエよ。妹尾さんのクリスマスプレゼントを選びに。里沙は」

「……さっき言ったでしょ。友達と映画見てて。今は終わってソニープラザ」

 答える前にあった間は、気のせいだと言い張られてしまえば、頷くしかないほどに僅かなものだった。

「そう……。残念だわ。暇だったら今日会いたかったのに」

 声がかすかに震えている。

 今度はたしかに電話の向こうで間が開いた。急に携帯から聞こえてくるクリスマスソングが遠のく、携帯のマイクの所を服か何かに押しつけているのだろう、何も聞こえてこなくなる。しばらくして歌が戻ってくると、奇妙な朗らかさで里沙が言った。

「いいよ。会おう。今一緒にいる子はもう帰るって言ってるから」

 その言葉になぜか栞はあわてた。

「うそよ。いいの。約束があるならそっちを優先して。今日はわたしも疲れたし、もう戻りたくない」

 気がつくと、必死になって里沙と会うことを回避しようとしていた。

「ほんとに……いいの?」

「あたりまえじゃない。なんでそんなこと聞くのよ」

「ううん。なんとなく。久しぶりに電話もらえて嬉しかったから、わたしも会いたかったし、話したいことも……」

「イブの日に会えるじゃない。もう十日も無いわ」

 遮るようにそういった。

 里沙が何を言おうとしているにしろ。それが栞の心の奥に潜んでいる疑惑と関わることでないにしても。今は聞きたくなかった。

 イブの日までには一週間以上あるのだ。それまでには、きっとこんな不安なんて消えているはず。妹尾が消してくれるはず。そうしたら、里沙の話がなんであれ、きちんと聞ける。

 鍋パーティーの段取りを約束して、携帯を切った後、しばらく彼女はぼんやりと窓を見ていた。地下鉄の窓の外には景色はない。ひどく暗い顔をしたあか抜けない女が、窓ガラスから彼女を睨み付けているだけだ。

 耐えきれず彼女はもう一度携帯を取り出して妹尾の番号を押した。

 しかし、案の定こちらは留守番電話のままだ。先ほどのメールに、商談に入る。とあったのだから、当然だった。そうでなくても、妹尾の携帯はたいてい留守電になっている。込み入った話の最中に私用の電話が入ってはまずいので、そうしていることが多いのだ。連絡をもっぱらメールに頼っているのは、そのせいだ。

 だが、今は、分かっていても不安だった。



 不安は、家に帰っても収まらなかった。

 煩わしく思われるのが怖くて、普段はめったに電話をかけることはなかったけれど、その日ばかりは、何度も妹尾の番号を呼び出した。だが、深夜になっても、携帯に彼は出なかった。

 いつもなら、すぐには連絡が付かなくても、しばらくしてから電話かメールがくるのだが、それすらもなかった。

 会社があるから寝なくては。と無理矢理ベッドに入ったものの、眠気は全く訪れてくれず、気がつくとカーテンの向こうが明るくなっていた。

 しかし、体はだるく頭はぼんやりしていても、会社には行かなければならない。

 一つだけ幸いなことに、月曜日は英会話教室のある日だということだ。最近は休みがちな妹尾だが、もしかするとレッスンに来るかもしれない。

 長いのか、短いのか、ひどくぼんやりとした一日だった。どこか神経が奇妙に張っていて、目の前の景色がいつもとはどこか違ってみえる。栞の部署は経理だ。細かい計算が必要な仕事だけに、これではなにか失敗をしかねない。気を張って、仕事に意識を集中するようにはしていたが、なにかの拍子に妹尾の事を思い出すと、とたんに不安になり、心臓がどきどきして苦しくなってくる。

 五時になると、体調が悪いことを理由に、残業を断って職場を飛び出した。

 ぐったりとした体を抱えて、祈るような思いで教室に向かう。

 しかし、彼はやはり来ていなかった。

 授業の始まる時間まで待ったが、やはり彼の姿は見えなかった。授業を受ける気にはなれなくて、講師が入ってくるのを見て、席を立った。隣の中年女性が訝しげに彼女を見上げたが、よほど悲惨な顔をしていたのだろう。具合が悪いのかと心配そうに声をかけてきた。世話をやこうとする彼女を振り切って教室を飛び出したものの、諦めきれずにビルの入り口の脇でもう少しだけ待つことにした。

 妹尾は仕事が忙しいので遅れて来ることがたまにあるのだ。その場合、ここにいればつかまえることができる。

 栞は、朝、出がけにバッグに入れてきた包みを出して胸に抱く

 プレゼントに買った時計だ。他の理由ではない。送りそびれそうなクリスマスプレゼントを彼に渡すために待っているのだ。そう自分に言い聞かせて立ちつづける。

 風が吹き抜ける。

 短めのスカートの下、薄手のタイツしか履いていない足から熱が奪われていく。今日の栞は、妹尾に会うことを想定して、暖かさよりもおしゃれを優先して来ていた。

 足から染みこんだ冷えは、体の芯まで伝わり、やがて歯が小さな音をたてて鳴りだした。つま先や指先の感覚もだんだん無くなっていく。

 ふと見ると、入り口脇のロビーで、湯気を立てた紙コップを手にしたOLらしき二人連れがなにか談笑している。

 そういえば、朝からまともに食べても飲んでもいない。

 そうだ。食べなければもたない。いったんビルに入った栞は、ココアを買ってまた飛び出した。ベンダーからは出入り口が見えないので、妹尾を見失ってはたまらないと思ったのだ。

 栞は先ほどまでと同じ場所に戻ると、ようやく落ち着いて、ココアをすすった。飲み物の暖かさと甘さが浸みてくる。

 ぬくもりがふと、彼女を我に返らせる。

 何をしているんだろう。彼が来るとは限らないのに、このところの様子からすれば、来ない可能性のほうが高いのに。

 冷静に考える自分がいないわけではない。けれど、それでも待つことをやめることは、できないのだ。

 しかし、その日のすべての授業が終わるまで待っても、妹尾は現れず、携帯もつながらなかった。


 

 次の日も次の日も、携帯はつながらず、何度か入れたメールにも返事は来なかった。

さすがに、体が持たず、幾度かベッドの上で眠りに落ちたが、ゆっくりと休むところまではいかず、ほんのちょっとした物音や明かりなど、ささいな刺激で目が覚めてしまう。

 当然、昼間はひどくぼんやりしていた。栞を娘のようだと気にかけてくれている上司が寄ってきて、体調が悪いのか? と、尋ねてきたほどだ。風邪気味なのだとごまかしたら、上司は時節柄その言い訳をまともに受け取ったようで、早めに帰れるようにと手配してくれた。

 些細なミスはあったが、大きなミスをせずに過ごせたのは、幸運だけでなく、彼の気遣いのおかげもあっただろう。

 そして、五日が過ぎ金曜日がくる。栞は、仕事を終えると、すでに習慣になってしまったとおり携帯を取り出し、妹尾の番号を押す。

 どうせ、また留守電に違いない。なかばあきらめかけていた栞の耳に、いつもとは違うメッセージが聞こえてきた。

 感情の入らない機械的な女性の声は、その番号は使用されていないと告げていた。

 番号をかけ間違えたのだろうか。栞は自分の携帯のディスプレイをじっとみつめた。もちろん、普通ならリダイアルなのに他の番号に行くはずもない。しかし、機械だって調子が悪くなることだって無くはないのだ。

 今度は、指が覚えている番号を押し直した。

 同じメッセージが流れた。

 体中をきゅうっと締め付けられるような感覚が襲ってきた。その感覚を押さえつけながらもう一度。今度はメモを取り出して、何度も確認しながら番号を押した。

 同じメッセージが流れた。

 もう一度。もう一度。

 もしかしたら、何かが間違っているのかもしれない。

 リダイアルで。記憶に従って。書き残されたメモを頼りに。と、何度も何度もかけ直した。

 それでも、かからない。 

 とうとう栞は、その場にしゃがみ込んだ。

 ずっと不安だった。でも、連絡の取れないことは、それまでもときどきあったから、今度もきっとそうだと。あの日見た里沙と妹尾の姿はただの勘違いだと。初めての恋にのぼせ上がった自分が一人でよけいな心配をしているだけなのだと。そう信じていた。いや、信じようとしていた。

 走り出そうとして、彼女は自分がどこに走っていけばいいのか分からないことに気づいた。

 知らないのだ。彼の住所も、彼の家の電話番号も、会社の正確な所在地も。

 妹尾恭平と栞をつないでいたのは、あの英会話教室と携帯だけだった。もちろん栞の方では住所も知らせてあるし、家の電話番号も教えてある。けれど、それは彼女の方から連絡をとろうとするときには、何の助けにもならない。

 そういえば、一度、車の助手席から、あのビルにオフィスがあるんだよ。と教えられたことがあった。しかし、六本木の辺りに詳しくない栞には、住所にすれば、そこがどこなのか。あのビルというのが、林立するビルのうちのどれなのか、すぐに別な話題に流れてしまって、きちんと確認できなかったのだ。

 しばらく呆然としていた栞は、しかし、何もせずには居られなくて、もう一つのかけ慣れた番号をおす。

「はぁい。ああ、栞。どうしたの?」

 彼女はすでに部屋に戻っているらしく、辺りは静かでテレビのものらしき音が聞こえてくる。と、それに混じって一瞬、男の声が聞こえた。

 背中に冷たいものが走る。

 里沙はなにか話していたが、内容などまるで頭に入らない。無視して切ると、反射的に走り出していた。里沙の部屋になら何度も行ったことがある。

 周りの目など気にならなかった。全力で走り、ホームに辿り着く。息がすっかり上がってしまっていて、しゃがんで肩で息をしながら電車を待った。数分おきに来る丸ノ内線を待つ、ほんの少しの時間さえがいらだたしいほどだ。

 途中、何度か里沙からの着信があったが、マナーモードに切り替え無視した。

 こんなに時間がたってしまえば、たとえあの声が妹尾だったとしても、すでに居ない可能性はある。もし、栞が声に気付いたことを悟られていれば、間違いなく、どこかへ行ってしまっているだろう。分かっているのに、止まれないのだ。

 四十分ほどの後、栞は、里沙の部屋の扉の前に立っていた。

 開けてもらえないかもしれない。思いながらも、インターフォンを押す。

 意外なことに、訪れたのが栞だと分かると、里沙はすぐに扉を開けた。その足下に、男物のスニーカーがあるのが眼に飛び込んでくる。

「どうしたの。いきなり。今日はイブじゃないわよ」

 おどけたような口調の里沙の脇をすり抜けて、キッチンと居室を分ける扉を引き開ける。

 だらしない姿勢でこちらを伺っていた男が、あわてたように座り直した。

 妹尾とは似ても似つかない。やせぎすで地味な顔の男だった。

 緊張が切れてへたり込む。

 戻ってきた里沙は、二人を見比べて少し笑う。

「ええとね。こちら木村君。高校んときのクラスメート。彼女が栞。大学のサークルの友達」

 木村は少し不満げに里沙をみたが、すぐに栞に向き直るとぴょこんと頭を下げた。

「ども。木村です」

 電話の向こうで聞こえたのは、この男の声だったのだろうか。たしかに、誰と特定できるほどはっきりした声ではなかった。

 しかし。栞は顔をあげてあらためて里沙を睨み付けた。

 ここにいるのが誰であれ、日曜日に見かけたのは、やはり里沙と妹尾だったはずだ。そして里沙はたしかに妹尾の腕に自分の腕を絡めていたのだ。……たぶん。

「聞きたいことがあるの」

 正面から見据えられ、里沙はかすかに緊張した表情を見せた。

「この前の日曜日に銀座で妹尾さんと一緒にいたわね。どうして」

 里沙の口がぽかんと開き、あわてて閉じられる。

「え、なに。見間違いじゃない」

 その白々しい反応が、栞の怒りに火を付けた。この一週間押さえ続けてきた不安や疑惑が後から後からあふれ出てくる。

「嘘よ。ちゃんとこの目で見たもの。あの日からよ。彼に連絡がつかなくなったの。それに、私に何も言わずに急に携帯まで解約して。どうして。知ってるんでしょ。里沙」

 里沙の胸ぐらを掴んで、激しく揺さぶる。彼女は顔を背け、困ったように言った。 

「ごめん。分からないわ。きっとなにか理由があるんでしょうけど」

「理由って何よ。彼が里沙のほうを選んだっていうの。里沙なんて、今まで何人も恋人がいたじゃない。今だって、こんな人を部屋にあげて。わたしは彼だけだわ。どうしてよ。どうして、わたしから妹尾さんをとるの」

 あっけにとられたような表情で里沙は栞を見返した。

「なにを言ってるの」

「分からないふりなんてしないで。最初から彼のこと妙に気にしてたじゃない。乗り気じゃない彼を無理矢理紹介させたり、やたらにしつこく話しかけたり。でも、友達だから、里沙だから信じてたのに」

 ずっと堪えてきたものがあふれ出し、言葉が止まらない。

 里沙は困り切ったように揺さぶられている。

「本当のことを言った方がいいんじゃない」

 割って入ってきたのは、存在を忘れられていた木村だった。

「だめよ」

 里沙が悲鳴を上げる。

「だめじゃないよ。斉木さぁ、友達が心配なのは分かるけど、石井さんだって、こんな訳わかんない状態で、放っとかれたら、かえって気の毒だよ」

 里沙はかたくなに首を振る。 

「今の話からすると、あいつ、結局、なんのフォローもなしに逃げ出したってことだろう。このままで納得しろっていうほうが無理だって。こうなっちゃったら、ちゃんと理由を説明したほうがいい」

「でも……」

「おまえ、友達をそんなに信用できないわけ。石井さんには受け止められないって、思ってる? でも、石井さんだってちゃんとした大人なんだよ。おまえの妹や子供じゃないんだよ」

 里沙は怒ったように木村を見上げたが、彼の困ったような表情にぶつかって口をとがらせてうつむいた。不満げではあったが、それ以上言いつのることはしなかった。

 木村に促され、栞は部屋にあった小さなテーブルの前に座った。べつに、彼らを信用したわけではない。それは話を聞いてから決めればいいことだ。

「俺から話したほうがいいよな」

里沙が少しためらってから頷いた。

 部屋の真ん中にあるローテーブルを挟んで部屋の奥に木村、入り口に近い方に栞、その少し後ろに里沙が座る。

「最初は、斉木の感だったんだ。石井さんのつきあい始めた男が、なんだか信用できない気がするって。友達に会うのを嫌がったり。住所や勤め先をちゃんと教えていないなんて不自然なんじゃないかって。結婚をほのめかしてるらしいが、それは口先だけで、遊びでつきあってるようにしか思えない。同性からはどう見えるだろうって。そう相談されてさ。話を聞いた範囲では、たしかに俺も同じように感じた。だから、ちょっと暇をみて調べてみようってことになって」

 そういうと彼はポケットから名詞を出して、栞に押しつけてきた。

「伊藤……探偵事務所」

「うん。そこの調査員やってるんだ」

 栞は、木村と名刺を見比べる。

 彼は慌てたように付け加えた。

「あ、探偵っても。浮気調査とか、素行調査とかだからね。ちょうど専門分野だし。……でも、調べてみたらそれどころじゃなかったんだ」

 そこで言葉を濁し、木村は里沙と目を見交わす。

ひどくぼんやりと、栞はその様子を見ていた。なにかとんでもないことになっている気がする。この先は聞かない方がいいような気がする。けれど、やめてくれと口にすることもできないでいるうちに、木村のほうが先に口を開いた。

「結論から言うと。妹尾恭平っていう男は存在してなかった。あの男の本名はたぶん妹尾恭平じゃないし、石井さんが聞かされてたプロフィールも嘘だ」

 ふわりと、夢の中に入ったような気がした。耳に、木村の言葉が淡々と届いてくる。

 妹尾は、予想通り栞の他にも複数の女性とつきあい、それぞれに別の名前を名乗っていた。そして、彼女たちの何人からは金を借りていた。数万単位ではない。実態の無い投資話や事業の資金繰りなどを理由に、何百万、何千万単位の金を引き出していたのだという。

「嘘」

 反射のように、そう口からこぼれていた。気持ちから出てきた言葉ではなくて、ただそういう言葉を発するシステムが自分の中にあるように。

 じっと栞をみていた木村が傍らの紙袋を取り上げる。それをいきなり里沙がひったくった。二人の様子につられたように栞はそれに手を伸ばす。まさか横から取られると思っていなかったらしい里沙は、不意をつかれてあわてた。

「待って、それは」

 止めようとする里沙を木村が遮る。

 袋の中にはA4の書類が何枚かと、封筒が入っていた。細かい文字を読む気力がないので、書類はそのままにしておいて、封筒の中を探る。

 出てきたのは何枚かの写真だ。妹尾が、栞の知らない何人かの女性と親しげに寄り添っている。そのうちの一枚は、ホテルの前、おそらくは中から出てきたところを映したように見えるものだ。

 彼の笑顔は、どの写真でも栞に向けていたものと寸分違わずに同じだった。栞はつばを飲み込み、写真を伏せて封筒の奥深くに追いやる。

「斉木は、全部を石井さんに知らせる必要はないんじゃないかって言った。うまく別れられさえすれば、いやなことなんか知らない方がいいんじゃないかって。たしかにそうだと、その時は俺も思ったから。だから、会いに行ったんだ。俺たちで話をつけようって」

 栞は顔を上げる。

「じゃあもしかして、先週の日曜、四丁目の交差点で腕を組んでたのは……」

 里沙が、少し眉根を寄せて苦笑する。

「逃げられないようにね。木村君も一緒だったんだけど、男同士で腕くんでたら人から見たら異様だし」

 栞はきつく目を閉じる。

 たしかに今の説明のような状況だったのだとすれば、あの時の二人が醸し出していた張りつめたような空気にも納得がいく。しかし、あの時の栞には、友人を裏切ってつきあい始めたゆえのものに見えてしまったのだ。寄り添い、きつくからみついた腕に気をとられて……。

「最初はしらをきられたよ。でも、こっちが想像以上に情報をつかんでることが分かると向こうから取引を持ち出してきたんだ。石井さんとはうまく別れる。だから、警察には行かないでくれって。……で、悩んだけど、結局俺たちはそれに応じた。ごめん。つめが甘かった」

 喉の奥で音がした。

 警察。という言葉で、いきなり生々しい現実が押し寄せてきたのだ。

 めまいがした。

「栞。大丈夫?」

 崩れ落ちそうになる体をなんとか支えながら、首を振る。それが、肯定なのか否定なのかよく分からなかったし、どうでもよかった。おそらくは里沙も答えを求めていたわけではないのだろう。

「ごめん。でも、怖かったの。栞。純粋すぎるところがあるから、これで、二度と男の人が信じられなくなっちゃうんじゃないかって。でも、こんなふうになるなら最初からはっきりいったほうがよかったよね。木村君にはそう言われてたんだけど、なんだか怖くて」

 体の内側からなにかふくれあがってくるものがある。叫びたいのに、思い切り吐き出したいのに、なぜかできない。

 無理なのだ。ここでは。この二人が居る前では。

「帰るわ」

 栞はゆらりと立ち上がる。

「そんな状態で無理よ」

「一人になりたいの」

 二人の女の視線が絡み合う。やがて、里沙の方がため息をついて立ち上がった。

「送るわ」

「タクシー拾うから」

「なら、拾える道まで送る。ちょっと留守番しててくれる」

 再び取り残され、とまどったようにしている木村にそう言い置くと、里沙は自分のコートを取り上げた。

 生暖かな室内から出ると、息が白い。

 歩きながらふと見れば、傍らに里沙の横顔があった。普段、栞を自分の部屋に招くときにはすっぴんの里沙なのに、今日はごくナチュラルに、だが、その実とても丁寧にメークをしている。

 きれいだった。いつもよりもずっと。

 そのとき、頭のどこかでずっと引っかかっていた思いがはっきりした形になった。

「ねえ。里沙。木村さんがいなかったら。こんなにこの件にムキになってた?」

 ベージュの口紅を引いた唇が引きつった。

「当然でしょ」

 言いきって里沙はペースをあげて歩き続ける。一本先の国道まで辿り着いて、タクシーに向かって手をあげる。

 それから、目をそらして小さく付け加えた。 

「そりゃあ……全く同じやり方はしなかったとは思うけど」

 里沙に対して、なにか張りつめていたもの萎えていくのがわかる。

 オレンジ色のタクシーが二人の前に止まった。



 運転手がお愛想に話しかけてくるのが煩わしくて、寝たふりをしていたつもりが、どうやら本当に少しうとうとしていたらしい。

 タクシーを降りてからも、まだどこか夢の中のようだった。全部夢なのかもしれない。そんな思いが捨てきれない。

 バッグから鍵を出そうとした栞の目が、小さな包みをとらえた。とたんに凝固していたものがはじけそうになる。

 まだだ。今は、まだだめだ。

 崩れ落ちてしまいそうな自分をなんとか鼓舞し、鍵を取り出して部屋の中に飛び込む。

 チェーンまでかけると、もう耐えられなかった。

 ずっとバッグに入れて持ち歩いていた、渡すことのないプレゼントを握りしめてしゃがみ込む。

 里沙が正しいことなんて分かっている。いつかきっと栞は彼らに感謝することになるのだろう。それは分かっている。

 でも……

 せめて、なぜこれを渡すまで待ってくれなかったのだろう。彼の喜ぶ顔が見たかった、そしてその腕の中でイブの夜を過ごしたかった。

 お金をだせば夢をみていられるなら、ある限りのお金なんて使ってしまったってよかった。

 しゃくり上げる音がする。栞は子供のように泣きじゃくっていた。

 涙はあふれて嗚咽が止まらない。

 少し小止みになり、もう納まるかと思ったところで、また激しい嗚咽が始まる。

 そして……。いったいどれほど泣き続けたのか。足がしびれて冷たい。小刻みに体が震えて止まらない。このままでは風邪をひいてしまいそうだ。

 まだ、ときおりしゃくりあげながらそれでも彼女は立ち上がる。キッチンはすっかり暗くなっていた。窓から滲んでくる街頭の明かりをたよりに、電気と暖房のスイッチを入れる。こんな時に、寒くて我に返る自分が、惨めだった。こんな時にすら、ドラマのヒロインにはなれない。

 我に返れば、床の冷たさは身にしみて、なんとかソファーベッドまでたどりつくと、コートのまま転がる。

 そして、栞はぼんやりと思った。そういえば、自分はなぜこれほど素直に彼の裏切りを受け入れているのだろう。栞自身は貢がされてなどいないのだ。ならば自分に対してだけは本気だったのだと思いこめたはずではないか。なぜ、彼の口から聞くまでは、と信じ続けようとしないのだろう。

 床に、カルティエの包みが落ちているのが見えた。

 栞の顔がくしゃりとゆがんだ。ブランドの定番品の時計。たぶん、そこから始まるはずだったのだ。

 そんな彼女の視線の先、部屋の隅に、まだ編み始めることのできなかった。二色の毛糸が並んで籠に入っていた。高価な時計よりも、本当に栞が恋人に贈りたかったクリスマスプレゼント。

 けれど、あの糸で編み上げられたマフラーはまるで妹尾には似合わない。なぜ似合うかもしれないなどと思ったのだろう。

 喉の奥から嗚咽とも笑いとも付かない声が出た。

 それはきっと、似合うと思いたかっただけなのだ。似合う人を愛しているふりをしていただけ。

 もう、泣くことも笑うことも出来なくて、栞は奥歯を噛みしめてただじっと毛糸を見つめていた。


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