曽根崎酩酊奇譚(三十と一夜の短篇第34回)
大阪梅田の地下深くに、ある部屋が存在する。地下倉庫のような空間で男が二人、机のPCをにらんでいる。照明はモニタのライト二つだけだ。
「最近、火球多いですね。京都に枚方、こんどはどこでしょうね」
まだ二十五の男、辻が話しかける。
「ほっとけ、ほっとけ。管轄外やから関係ないやろ。それより先に例の件や」
そう言いながら書類を繰る四十代の男は北野。辻から『警視』と呼ばれている。
千里中央の5LDK一戸建てへ引っ越してからは、ひどくいらだっている。残念なことにそれが十四年も続いているらしい。原因は間違いなく住宅ローン。私学へ行く子ども三人の教育費が重なり、ダブルパンチとなっている。あと一年で完済するので、辻はその日が早く来ることを願っている。
北野が書類を片手に携帯を握る。
「はい、北野です」
彼ら二人はUNT地下特殊Gに属している。梅田、難波、天王寺、おおむね環状線内を所轄とする、府警がこっそり抱えた非正規部署である。通称『G』。なおGは本来『グループ』のことだが、呼称は昆虫の方である。つまり隠語だ。
署内でも昆虫Gと言えば、普通、茶色い六本足のあれを指す。それを聞いてUNTとくるなら、ある意味そうとうな人間だと思ってよい。
彼らは秘密裏に特殊事件の捜査にあたっている。大阪の平穏を守るために。
北野が電話を終えて呼びかける。
「辻、現場や!」
「どこですか」
「曽根崎や」
北野は身一つ、辻はパンパンの登山用リュックを背負って、数十台ある高速エレベーターの一つに乗り込む。地下二階まで上がると、隠し扉を通り、梅田の地下街へ繰り出した。
北野がある男を指さす。
東梅田駅近くの白い壁におっさんがへたりこんでいる。顔は真っ赤、左手にビール(350ml)。近づけばひどいアルコール臭。きっと他にも大量にあおったのだろう。
「おい、おっちゃん。しっかりせい! どないしたんや?」
北野が男に声を掛ける。
「ここは……」
「梅田の曽根崎、東梅田の駅前や」
「心中? そんな恐ろしいもんした覚えないで……」
男はのどを押さえながら言う。リバース寸前である。
「曽根崎心中ちゃうわ。まだ生きとる。こっちきい!」
北野が男を地下街の陰に引き込む、UNTの隠し部屋に連れて行こうとしているようだ。
「警視、この人、病院へ連れて行った方がよくないですか」
「アホか! 俺らに出動命令が下ったんや。救急なんて呼べるか!」
「ですが……」
「辻、俺たちは警官だが、公には懲戒免職されたことになっとるんや。忘れたんか」
そうささやきながら、首元を人差し指で切る北野。
彼らは特殊事件に携わっている。人に知られてはならないのだ。だから昆虫のGと伏せられ、公にはいないことになっている。バレればクビだ。特に、子ども三人の教育費と、5LDK一戸建て15年ローン(完済目前)で死にそうな北野にとっては切実な問題である。
「いえ、そのつもりは……」
「なら俺に従え!」
辻はしぶしぶ北野とともに、男を隠し部屋に入れた。
六畳ほどの部屋には、アンカー打ちされた椅子と事務机が並び、それらを無機質なLED照明の光が照らしている。そこは瞬く間に酔っ払いの臭いで満たされた。
男はすっかり千鳥足、座ることすらできない。今日は机も椅子も邪魔でしかない。
彼を寝かせた北野はポケットから香水を取り出し、部屋に振りまいた。
そして男に問う。
「おっちゃん、住所は」
男は「ふぇ~。うぇぇ~」といまにも吐きそうな声を出している。
その間、辻はこの男の所持品を探る。召し物すべてを引き剥がしながら。
「奈良県……」
男はアルコールの息を吐き出しながら言う。
「奈良県神戸市右京区天神橋九と十二分の六丁目……」
「あんたどこの人や。近畿のほうぼうまたいだ上に、天神橋は八丁目までや。とぼけるな!」
「あ、ほんとは沖縄っぽい北海道の和歌山県大津、いや津……じゃない堺」
「異世界人。異世界人です。警視」
北野は嬉々とした声をあげる辻を無視し、男へさらに質問する。
「大阪か奈良、どっちや」
「東京」
北野は辻のバッグから、カード型の単語帳を取り出し、男に見せる。
カードには『枚方』と書いてある。(注:カードにはルビの記載なし)
「これ読んでみぃ」
「まいかた」
これでこの男は大阪近辺の人間ではないと確定した。おそらく奈良でもないだろう。
「あんた、そうとう酔うとるな。いや、やっとるやろ?」
北野が男の目をのぞき込む。
酔っ払いの眼差しはうつろだ。
「警視、荷物から白い粉が」
「出たか」
「いえ、片栗粉です。スーパーによくある未開封の」
辻が細長いパックを差し出す。握ればキュッキュッと鳴りそうな片栗粉。うん、間違いない。
「どうでもええもん出してくるな! 直せ」
怒声とともに酔っ払いは大失禁。ちょうどいい。
「辻、これ分析かけろ!」
「わかりました、早速」
辻が男の尿をすくい取る。登山用リュックから装置を取り出し、サンプルを注ぎ込む。
「出たか」
「陰性です」
二人が薬物検査をしている間に、男の尿は六畳間の床を満たした。その男の頭がガクリと折れる。まるですべてを吐き出したかのようだった。
「おい、おっちゃん。大丈夫か!」
「警視。彼、まさか死んでないですよね」
北野が即座に口元に手を触れる。その手はまたたく間に吹き飛んだ。下戸なら浴びるだけで皮膚が赤くなる、濃いアルコールの突風が北野の手を振り払ったのだ。
辻が思わず鼻をつまみ、換気扇のスイッチを押す。超強力ファンがうなりをあげる。ちなみに防爆仕様、ちょうどいい。給気口のハッチが開くとともに、速い気流が三人の髪を揺らす。
男がむっくり起き上がり、北野の顔をじろりと見ながら口を開く。
「三途の川から戻りました。私は天使です。アッラーアクバル。私はニーチェ。般若心経、アーメン、合掌」
「合掌しているわりにポーズがヒトラーやないか! 宗教を侮辱しとる」
北野に向かって男は言う。
「ヒトラーですがなにか」
「ニーチェやなかったんかい。おっちゃん」
男はまごついている。
「いえ……ついさっき、数秒前までは」
「じゃあ、いまは誰や」
「小野妹子です。いや小町になりました。あ、妹子に戻りました。吉原です」
「やっと本名に戻ったようやな。吉原さん」
北野が男の瞳をぎろりとのぞき込む。
そこに辻が一枚のカードを見せつけた。
男の運転免許証だ。
「警視。吉原じゃなくて、芦原です。芦原人良。ほら、修正テープでビーッと」
「修正テープの上の字やないか。落書きや。さっさと剥がせ」
「はい」
辻が修正テープを剥がす。
「出ました。芦原人良です。住所は奈良県奈良市右京……」
調べるとこの住所は実在する。
「ならば、ただの酔っ払いか……」
北野が頭を抱えだす。
UNTが現場に出れば公に知られるリスクがある。秘密を守らねばクビという彼らにとって、捜査は少なからず恐怖を抱いている。収穫がないなら、ただ自分の首を締め付けるだけだ。今日の捜査だって、誰に見られているかわからない。
最大の問題は三途の川を渡りかけた泥酔患者を長時間拘束したことだ。後遺症が残ればクビどころではない。大問題だ。もしこの男が死刑相当の凶悪犯だったとしても、普通の人間なら許されない。自白剤の香水を利用したことも医者が診れば怪しむだろう。
辻にも罪がおよぶが、上司は北野。すべての責任は北野にある。
「警視。警視!」
辻がぼうぜんとしている北野に声をかける。
「どうした」
「この免許証、怪しいです。ICチップのサイズが規格の半分しかありません。ほら、光にかざすとわかります。あと、名前のとこ、もう一層ありそうです。テープ感が……削りますか」
「しょーもないこと聞くな、こっちは真剣なんや! さっさと削れ!」
辻がリュックからグラインダーを取り出し、男の免許証を慎重に削りだした。モーターの回転音とともに火花が床に飛び散る。ただの樹脂コーティングではなさそうだ。
火花が男の口元に落ちるたび、アルコールを多量に含む息が炎に変わる。
「出ました!」
辻が免許証を掲げる。そこにはこう記されている。
『アシハ~ラ@ニューとん×Nietzsche&Hitler Ver.IMOKO?』
「最後、聞くなや。知らんわ。それにしても下手くそな芸やなぁ。嘘やろ、テキトーにもほどがある。あんたネーミングセンスないわ」
「いえ、芸ではありません。ほら」
辻が北野の右目に免許証を突き当てる。
北野はすっかりあきれ顔だ。
「こんなちっさい枠にどうやって入れたんや! おかしいやろ! はよ照会せぇ! こっそり、うまくやれよ」
「了解」
辻がリュックから専用端末を取り出し、照会を行う。その回答は早かった。
「偽造です。免許証番号もすべて架空のものです」
北野が手錠を取り出す。彼らはUNT地下特殊Gに属する警官、特殊事件絡みであれば、わずかな疑義で現行犯逮捕が許される。
それほどこの男は危険だ。
「『子ども運転免許』にしておけばよかったのにな。おっちゃん、これはあまりに似すぎや。奈良県公安委員会の印章まである。一月三十日十七時三十五分、公文書偽造の疑い、現行犯逮捕や」
その瞬間、アシハ~ラは北野の脇っ腹をすり抜け、飛び出した。
六畳間の施錠した扉を突き破り、股が濡れたズボンをさらしながら、東梅田の地下街を飛翔する。さすがはニューとん、重力に逆らえるらしい。ニュートンに対する侮辱だ。
しかし、アシハ~ラは酔っていた。
彼は一秒もせず天井に突き刺さり、重力に従い墜落した。
こうして二人は、特殊事件『フライングヒューマノイド連続出没事件』を解決した。なお、アシハ~ラなる男は異世界より帰還した超人で飛翔能力を持っていた。『リアルフライングヒューマノイド』として週刊誌やタブロイド夕刊紙を賑わわせた彼は、もう地球にはいられない。大量の飲酒により重度の肝炎を患っていたこともあり、速やかに処分された。
『梅田地下街、男飛ぶ』という、スキャンダル記事を残して。
北野と辻は本部へ呼び出された。他の職員に見られないよう、こっそり、秘密裏に。
北野の顔はほんのり赤い。前日にそうとうヤケ酒をあおったらしい。よりによって呼び出し前日に。
本部の地下深く、重厚な扉の向こうには一人の男が立っている。ちなみに彼は本部長ではない。UNT地下特殊G長である。ここでのGは『グループ』なので注意したい。決して昆虫の方を言ってはならない。間違えれば人事評価が下がってしまう。
G長はタブロイド紙を広げ、写真に写る北野と辻の姿を指した。
「君たち、これはどういうことですか」
恐ろしく静謐な声に二人は黙ったままだ。
紙面には『酒と尿に穢れた魔窟』の文字も見える。UNTの一室を公にさらしてしまったのだ。
部屋が鈍色の空気に包まれる。
「この夕刊紙では、アシハ~ラは地下空間から生まれたミュータントだそうです。君たちが使った取調室はアシハ~ラのアジトとされています」
北野と辻はのどをゴクリと鳴らす。
「今後、あの一帯は民間の調査が入ります。我々の施設が見つかることはないでしょうが、出入りはできなくなるはずです。府と市は我々を把握していても民間はそうではありません。私企業、個人にUNTの存在をさらすことはあってはなりません。我々はゴキブリなのですから」
北野に顔を寄せ、にらみつけるG長。
北野は窒息寸前になっている。
「まぁ、今回はアシハ~ラでしたから大目に見ましょう。我々より彼の方が目立っていましたから。身体一つで飛翔するなんてあってはいけません」
北野と辻は土下座する。
「ありがとうございます。ゴループ長」
「ありがとうございます。グループ長」
前者は北野の、後者は辻の言葉だった。
「では、今回の費用は北野警部補の懐から補填させていただきましょう。減給六ヶ月、夏期賞与なし、今年度はE評価ということで。どうでしょう」
G長が北野の肩を叩き、ニタリと微笑んだ。
凍り付く北野。しかしもう遅い。彼の頭はおそらく住宅ローンでいっぱいだろう。
「辻君も気をつけなさい。こんど世間の目に触れれば、これですから」
G長は柔らかな表情で、首筋を人差し指で切った。
その後、二人は梅田から撤収し、難波の一室に移ることとなった。引っ越し作業より先に、北野が辻に借金を申し入れたのは言うまでもない。