イレーヌはもうすぐ離婚されるらしい
「あんたは聞いたかい、イレーヌさん? フォグ谷の英雄、やっぱり王女様の婿に納まるらしいね」
教会に付属する病院の一角、入院患者の衣服を洗うための洗濯場にて。
患者の世話人として雇われた女が、また別の白衣の女に話しかける。イレーヌと呼ばれた白衣の女性は、その雑談にこたえた。
「フォグ谷の英雄っていうと、例のあれのこと? フォグ谷で大発生した、歩く死人を壊滅させたっていう」
「そうそう。王女様を狙って現れた魔族を倒して、みごと救出したんだよ。護衛隊士のひとりだって話だろう、きっと素晴らしくお強い隊士さんなんだろうね」
「さあねえ。どうかしら」
イレーヌと呼ばれた彼女が首を傾げている間に、高い声が割り込んだ。
「その話、あたし知ってる! 王女様も英雄様も、お二人とも今日にも王都に到着なさるんだって。いいよねえ、おとぎ話みたいだよね。王女様と、王女様を救いだした英雄が恋に落ちるなんて。前世から決められた、運命の恋人同士だったりして。きゃあ!」
イレーヌたちの雑談に、もう一人、年若い少女が割り込んでしゃべりだす。入院患者である少女は、やや興奮気味に瞳を輝かせている。
「王女様ってどんな結婚式するんだろ? きっとすっごく豪華なドレスを着るんだよね、宝石もいっぱいつけてさ」
「国王陛下の大事なひとり娘の姫君だからね。きっと国を挙げて、盛大なお式をするだろうさ。いいことだよ、王都中が盛り上がるね」
「うわあ。あたし、すごく見たい! ね、見に行けるかな、王女様の結婚式」
はしゃぐ少女の様子に目を細めて微笑んだイレーヌは、優しくこう言い聞かせた。
「ええ、ルナ。見に行けるかもしれないわ、あなたがもっと元気になっていたらね。だからもう部屋に戻りなさい、ここは冷えるから」
「えー、まだしゃべりたいのに」
「ルナ」
「……しょうがないなあ」
看護助手として教会付属病院で働くイレーヌは、うながすようにやんわり少女の背中を押した。
入院患者である少女を本人の部屋に入れると、イレーヌも仕事に戻らねばならない。だがその前に大きな溜息をつき、看護婦用の詰所の壁にもたれかかってつぶやく。
「……見られるといいわね」
現在、フォグ谷の英雄としてもてはやされるひとりの男。ここ最近の王都はその話題で持ちきりになっており、誰もがその名をささやく。
リチャード・ソレル。
王宮守備隊に所属する彼は、第一王女リリエット殿下の護衛を務めている。そして。
「となると、わたしは離婚されるってことかしら?」
この女イレーヌ・ソレルの夫でもある。
同じ名字なのに何故か誰も気づかない。それはたぶん、きっと夢にも思わないせいだろう。
王女と恋に落ちた英雄が、既婚者だとは。
***
三カ月前のことだ。
王都の北西に位置するフォグ谷が魔族の襲撃を受けたというニュースと、そして運悪く、現場近くに王女が滞在中であるというニュースが同時に王都を駆け巡った。リリエット王女は国王の二人のお子のうちの一人で、まだ十六歳だという。年若い姫君の危機に民はみな心を痛め、王女の無事な救出と帰還を待ち望んだ。
そんな中で王都へもたらされた次の報せは、吉報だった。
王家は高らかに宣言する。侵入した魔族の速やかな掃討と、王女の無事を。
それら二つの功を成した英雄は、護衛として王女につき従っていた、王宮守備隊の精鋭だそうだ。中でもソレル隊士の奮闘は目覚ましく、彼は見事、フォグ谷付近で魔族に囲まれ孤立した王女一行を、安全な地へと導いた。さらに仲間と力を合わせ、谷に侵入していた魔族をすべて滅ぼすことに成功する。
勇者の再来とも呼び声高い、“英雄”の誕生である。
だがその後が問題だった。救出されたはずの王女がなかなか王都に帰還しない。きっと事件のショックが大きく、心の傷から体調を崩されたに違いない、と王都の民はまことしやかにささやく。高貴な姫君がどれだけ恐ろしい思いをしたのだろうと、心配の声が上がった。
しかしだ。やがて別の話が伝わってくる。
どうやらリリエット王女は、ご自身を救い出した英雄殿に、ご執心の様子らしいと。恋人のソレル隊士が事後処理で現場を離れられないために、王女も戻らないのだと。
本人たちが王都に姿を現さないため、噂は余計に大きくなった。
元々この国の王家には、彼らが勇者の末裔だという伝説がある。
勇者の末裔の姫君と、その再来とも言われる魔族殺しの英雄。その二人が恋に落ちた。
このおとぎ話のような恋の噂を、王都の人々は好意的に受け入れた。すでに人気者となった二人が王都に登場することをみなが待ち望んでいる。そして、今日にもやっとそれが叶えられるという。
「十六歳のお姫様をたぶらかすなんてね」
イレーヌはポツリとつぶやく。独りごとだ。仕事を終えたイレーヌは今、自宅への帰路についたばかり。夕刻、大きな通りの歩道をあゆむ。
イレーヌは二十六歳だ。リチャードも同い年。自分の夫が十歳も若い王女様に惚れられているという噂を耳にした彼女は、嘆かわしそうに頭を振る。どちらかというと、イレーヌの言葉にはリチャードを責める色が強い。
「……」
結婚したのはつい去年のこと。その頃のイレーヌは、年下の友人が縁づいて片付いていく様子を横目で見る一方で、自分は少しも焦ってはいなかった。
もちろん理由はある。本来彼女は、さっきまで働いていた教会付属病院の、その『付属病院』を除いた部分に奉職する予定だった。教会で育ったイレーヌは、育ててもらった恩を返すため、女性司祭になる修行をしていた。そうするのが当然だと思っていた。
その固い決意を覆させたのが、リチャードの求婚だ。だからこそイレーヌは思う。
「人に人生変えさせておいて、一年で捨てるってこと? 信じらんない」
イレーヌには許し難い。拳をぎゅっと固めた。胸に浮かんだリチャードの面影を、思いっきり殴った振りをしてみた。
イレーヌの妙な行動に、すれ違った人が怪訝な顔がする。彼女ははたと我に返った。
「あ、通りすぎちゃってるじゃないの。リチャードのバカ、あいつのせいよ」
乗合馬車に乗って帰宅する習慣なのだが、停留所を通り過ぎてしまっていた。何をやっているのだろうとイレーヌは肩を落とし、そして顔を上げる。
「……ついでだし。買い物して帰ろ」
そこはちょうど商店街の入り口だった。イレーヌは買い物をして帰ることにする。
安いからと勧められるまま、いろいろ買い込んだイレーヌ。両手に紙袋を抱え、よろよろと歩道を行く。
「ねえ、あっちに王家の馬車がいたんだって! とうとうお帰りになられたんだよ」
「どっちに行ったの!? ね、英雄様も一緒かな?」
「みんなで見に行こうよ! 王宮の近くで待ってれば、きっと来るんじゃない?」
「先回りすればいいんだ! 見に行こう、お二人を!」
王女の帰還、その一行が、たった今王都を進んでいるという。
イレーヌには本当かどうかわからないが、すれ違った子どもたちがそんなことを言いながら駆けて行った。
そういえば、さっきから人の姿が妙に少ない。それは王都の人々がみな、王女の帰還を出迎えるため、一行が通る沿道で待ち構えているせいかもしれない。
イレーヌ以外はみんなそうするのだろうか。運命の恋人同士とやらを見物しに行くのか。
「……まあ、おめでたい話ではあるのよね。あの人にしたら出世だわ」
イレーヌはリチャードのことを考えた。
リチャードの姓、『ソレル』は王都では大きな意味を持つ。この国には貴族のような特権階級はいないが、代わりに『名家』と呼ばれる財閥があり、この国の財界を牛耳っている。ソレル家はその、名家のうちのひとつだ。
そしてこの名家からは、王や女王の伴侶が出ることがたまにある。
リチャードは身分こそ平隊士だが、生まれはその名家に連なる。リリエット王女の婿に納まるのに、なんら問題はない。むしろ似合いの縁談とも言えた。
「わたしがいなきゃの話、だけど」
イレーヌとリチャードは正式に結婚している。重婚は法律と教会が禁止していた。ならば。
「王家の権力ってやつで、別れさせられたりして?」
イレーヌは離婚されてしまうのだろうか。少なくとも、リチャードの両親がどちらに賛成するかを彼女はよく知っている。息子を王女の婿にすることに、否やはないに違いない。
考えたイレーヌは、ちょっと立ち止まる。荷物を抱え直し、息を吐き、止めた歩みを再開する。歩くごとに、その歩みは強く確かになっていった。
***
夜、自宅での大仕事を終えたイレーヌは、ふと鏡台をのぞいた。鏡の中にいる女の姿をまじまじと観察する。
白い髪、白い膚。瞳だけが闇のような漆黒。
イレーヌの容貌は異相だ。全身が漂白したように真っ白で、瞳だけが黒い。そして特殊な容貌は、彼女を特別な存在にしていた。それは決していい意味ではない。
昔むかし、“白氏”と呼ばれる人々が海の向こうの別の国から連れて来られた。白髪黒瞳の彼らは奴隷として重労働を強制され、また、激しい差別にさらされた。長い間。
現在では、白氏は解放されている。だが人々の目や意識には、白氏に対する冷たい差別がいまだ残る。
イレーヌが生まれた時から抱えている、ひとつの運命。白氏に生まれたことが、ある意味で彼女の人生を決定していた。恐らく、イレーヌが教会前に捨てられた理由でもあるのだろう。
イレーヌは冷たい視線の中で育った。教会の中だけが幸福に過ごせる場所だった。
その運命を飛び越えて来たのがリチャードだったのだが――。
鏡に向けていた目を離し、棚を見る。
「……指がなまってるといけないわね」
つぶやいたイレーヌが手にしたのは、丸い胴と長い棒部分に、弦を張った弦楽器だ。イレーヌはこれを趣味にしている。まだ経験は浅いが、教えてくれたリチャードの腕をあっという間に追い越すほどに上手くなった。
イレーヌの白い指が弦をかき鳴らす。
人々は噂している。
王女は、それは愛らしい姫君だと。
人柄は優しく、穏やかで大人しい娘だと。実際に王女の周囲で仕える者たちも、みな口をそろえて褒めたたえる。蝶よ花よと育てられながらも、決して奢ることがない。会う人ごとに親しく言葉を交わし、また、一度会っただけの相手を忘れない。音楽を好み、自分で楽器を奏でることもある。その演奏がまた素晴らしいと、音楽教師が時を忘れて聞き入ったという伝説もある。
「音楽好き、か。だったら……リチャードとは気が合うかもね」
王女と白氏の女と。
まだ若いリチャードが、冷静に自分のための選択をしたならば。どちらを選ぶかは明白だ。王女を妻としたならば、将来にも展望が拓ける。末は将軍か元帥か、いずれにしろ栄誉ある地位を得るには充分な縁談だ。誰もその選択を責めないだろう。それが当然の選択だ。
イレーヌはもうすぐ離婚されてしまうのかもしれない。
彼女は考えてみた。離婚された後の自分のことを。
「教会に戻ったら……これも弾けないかしら。厄介なものを教えてくれたものだわ、あのひともね」
イレーヌには演奏技術はあるが、プロと比べるとやはりまだ程遠い。出かける前のリチャードが、最後にそう言っていていたのを彼女は覚えている。
その指がいま奏でるのは、ごく穏やかな、しかし繊細な技術を必要とする曲だ。
「――さすがに近所迷惑なんじゃないか?」
「……あら」
自宅の窓辺に座り、楽器を抱いていたイレーヌ。いきなり近いところで声がして、彼女は軽く驚いた声を上げる。演奏を止め、相手の全身を見まわし、それから言った。
「おかえり」
「……ただいま」
戸口に立っていた男。漆黒に赤で縁どりをした制服は王宮守備隊の物で、背中には丈の短いマントがつく。その制服をまとうのは、背が高く、血のような真紅の髪の青年だ。眉目秀麗で、なるほどこれなら若い娘が夢中になるのも無理はないと思わせる男。
彼――リチャードが言う通り、イレーヌは近所迷惑だった。なにしろ時刻は深夜だ。楽器など弾いていては、確実にうるさい。
抱えていた楽器を下ろし、イレーヌが言う。
「帰ってくるとは思わなかったわ」
「おい? きみ今、おかえりって言ったじゃないか」
「空耳よ。仕事はいいの? 今日戻るとは噂で聞いていたけれど、あなた、忙しいみたいだったから。何しろわたしには連絡ひとつないくらいだし? だから今夜は帰らないだろうって思ったの。あ、もしかしたら二度と」
「……」
最後の『二度と』が効いたのか、リチャードは押し黙った。がっくり肩を落とし、顔も伏せる。そんな夫にイレーヌは畳みかける。
「リチャード、よかったわね。聞いたわよ、王女様の婿に納まるんですって? 大出世じゃないの、お義父様もお義母様も、さぞかし喜んでるでしょう」
「そうそう。心配しなくても、人気者の英雄様に捨てられた妻が、それを世間に広めるような真似はしないわよ。だからリチャード、安心して出世すればいいわ」
イレーヌは一方的だ。それを聞かされる彼は、一言も言い返すことなく黙っている。
「荷物はどうする? あ、それともわたしが出て行くほうがいいのかしら。行くあてなんかないけれど、追い出されたら仕方ないわよね」
淡々と責める妻。黙って責められる夫。だが、少し様子が違ってきた。彼のほうの。
「なに笑ってるのよ」
伏せたリチャードの顔の下から、くつくつと笑い声が上がっている。
イレーヌはとても怒っていた。王都に帰ってきたくせに、連絡ひとつ寄越さなかったリチャードに対して。だから憮然とした表情で尋ねた。
「だって。たまんないよそのツンデレ。ああ、帰ってきたって実感したな。うん」
「なんのことよ」
「この匂い……牛肉の煮込みだろう? 僕の大好物」
顔を上げたリチャードは満面の笑みだった。嬉しくてたまらない、そんな笑顔。
「こんな時間なのに玄関の灯りはついたままだったし、僕用の室内靴も置いてあった。玄関横の机には僕宛ての手紙が分類されて並べられてたな、親しさ順にね。家に着いたらすぐに水を飲む癖のある僕のため、台所のいつもの水差しはいっぱいだったし、コップもあった」
「……」
「テーブルには食器が二人分並べてあるし、この分だと鍋はオーブンの上で保温中か? それから極め付きは、僕の一番好きな曲を弾いて待っていることかな。僕が贈ったドレス着て。
準備万端じゃないか、イレーヌ」
白い顔をこれ以上ないくらい赤く染めた妻に、帰還したばかりの英雄はだらしなく頬を緩める。やに下がる。
「……男のくせに、そんなこと細かいところなんか見ないの。もっとどっしり構えてなさいよ、男なら」
「いやあ。こういう性格でよかったよ、愛されてるって実感できるから。帰って来れてよかった、本当に」
「こんな時間に帰ってくるなんて」
「しょうがないだろ。ワガママ王女様に付き合って、死ぬほど過重労働してきた僕を労わってくれ」
「あら、可愛い女の子のワガママに振り回されてたって言いたいわけ? それに、料理もその他いろいろも、誰があなたのためだって言った? もしかしたら別の」
「イレーヌ。もうしゃべるな」
帰宅後、自分も仕事終わりでくたくただというのに、それでもイレーヌは馬車馬のごとく動き回った。
家中を掃除し、料理をし、迎える支度を整え。すっかり準備が整ってもまだ帰ってこないので、リチャードが贈った水色のワンピースを着て、彼の好きな曲を弾いていた。帰宅が今日なのか明日になるか、彼女には予想もつかなかったのに。
そんなイレーヌの目の前へと迫ったリチャードは、両腕を広げた。力加減を忘れた腕に囚われたイレーヌは、大きく息をつく。強い力が籠った腕、そこから夫の無事を実感し、深く安堵した。
「やっと帰ってこれたんだ。僕の純白の天使のところに」
「……」
「とりあえず補給させてくれ。出かけて二日でイレーヌ分が切れたよ、それから毎日、僕がどれだけ辛い時間を耐え抜いたか……」
人を水分か何かみたいに言わないで、というイレーヌの言葉は声にならなかった。出せなかった。口が塞がれていたため。
***
リチャードの帰宅がいつ頃になるかわからなかったので、イレーヌは数日間、仕事は休みをとっていた。そして二人が落ち着いて話をしたのは、彼が帰宅した翌朝のことだ。
昨日彼女が買い物をした時から、すでに無意識にリチャードの好物ばかりを選んでいた。だから翌朝の食卓も、どうしてもそればかりになる。
「やっぱり愛されているじゃないか、僕は」
「……」
イレーヌお手製のピクルスを摘まんだリチャードは、それがいつもの味――作った当人ではなく彼の好みに漬けられてあることを確認し、満足げに笑う。
ふいっと、目を逸らしたイレーヌがぽつりと言う。
「本当のところどうなの? 王女様のことは」
「え? まさか。僕も驚いたよ、王都でそんな話になってたなんて。おかしな話だ、きみがいるのに」
あっさり否定したリチャードは、それからがっくり肩を落とす。
「だいたいさ、十六の子に手を出すような男だと思われたのがショックだ」
「あら」
「それに帰るのが遅くなったのだって、僕じゃなくて王女が原因なんだから」
原因、とイレーヌが繰り返す。
「そう。ゾンビの集団と鉢合わせして、命からがら逃げ延びたってところまでは合ってる。でもその後、戻ってゾンビ退治しろって無理難題出したのはリリエット様だし、収束した後も、まだ王都には帰らないってあの人が言い出したんだ」
「なんでまた」
「被害に遭った谷の住人に、食べ物とか薬とか持って回るって。自分で持って回ったわけじゃなくて、指揮してただけだけど。王家の姫君ともなるとご立派だね、さすがは勇者の末裔だ。お陰でこうして、護衛の僕らまで帰れなかったわけだ。ひどいだろ?」
うんざりしながらそう語るリチャードに、イレーヌはこう返した。
「ワガママじゃないじゃないの、それ」
「……」
「呆れた。何がワガママ王女よ、リリエット様って噂どおりのお姫様なのね。本当にご立派だわ、十六でそこまで気遣えるなんて」
夫に対する疑問も疑惑も晴れたため――何より、リチャードがどちらを選ぶかをはっきり知っているため――イレーヌはむしろ王女を褒めたい気分になった。
「……だって」
「なに?」
「妻の前で他の女を褒めるなって、フェンネルが」
「ああ。あなたの同僚の」
「あいつ、自分のほうが先に結婚したからって偉そうなんだ。あんな鬼みたいな顔のくせに」
「たしか、愛妻家で評判なんですってね」
「……違う」
水の入ったコップを手にしていたリチャードは、それをテーブルに下ろす。
「違うって何が」
「僕のほうが愛妻家だ」
純白の天使。その呼び名は、リチャードがイレーヌと初めて会った時に呼びかけた言葉だ。
ある夜、泥酔して道端で意識を失ったリチャードが教会に保護された。彼が目を覚ました時、そこで酔っぱらいを介抱していたのがイレーヌだ。それが出逢いで、リチャードがイレーヌに一目惚れした瞬間でもある。そこから数年かけて、誓願を決意していた彼女を(本人はもちろん周囲も引くぐらいのしつこさで)口説き落としたことも、今ではよい思い出である。少なくともリチャードにとっては。
「そういえば薬箱もいっぱいだったね。薬局でも開けそうなくらい」
「……」
「包帯に傷薬、湿布はもちろん、最高級ポーションまで。心配させたな」
リチャードが無事かどうかわからず、ただただ心配して待っていたイレーヌの三カ月。帰ったら必要かもしれないと思い、気がついたら薬箱をいっぱいにするどころか溢れてさせてしまっていたのだが、イレーヌは素直にそれを認めない。
また本心では、『戻ってゾンビ退治しろ』と無理難題を出したらしいリリエット王女に腹を立てている。イレーヌの願いは夫がゾンビ退治の英雄になることではなく、無事に帰ってくることなのだから。
素直になれない妻をよく知るリチャードは立ち上がり、テーブルの反対側にいるイレーヌの肩に手をかける。背中から抱きよせた。
イレーヌの髪は色こそ白いが、手触りと艶は絹糸のごとしだ。
リチャードは、彼お気に入りのその真白い髪に顔をうずめ、イレーヌ分を補給した。
「きみがどれだけ愛されているか、今度は僕が証明する番」
「ちょっと、何を朝から。やめなさい」
「大丈夫、しばらく休暇をもらったから」
何が大丈夫なのよ、とイレーヌは抵抗するが、すでに体ごと抱えられた後だった。
こんな夫婦だ。
言動は冷たいが、行動ではどこまでも尽くしている。そんなツンデレ妻。
そして出会った日から、親や周囲の反対に耳を貸さないどころか、イレーヌ本人の冷たい言動にも負けず、異常なほどに彼女に執着し続けるヤンデレ夫。
イレーヌはもうすぐ離婚され――ない。決して。