海
私は、海をみたことがない。
交差点の真ん中で、ふと思った。
抜けたような青空が、ビルの間を縫って顔を出している。この世界で色を得ているものは、空だけ。そのほかのものは輪郭すら曖昧だ。
人々は私に無関心だった。白黒のスローモーションで、多くの他人がすれ違っていく。その中で、私の目は鮮やかな青を捉えた。少女の青い目だった。
少女は振り返り、道を教えてくださいと、誰かに言った。
大勢いる中で、彼女に気づき振り向いたのは、少し前にすれ違った私と、何人かの疲れた顔をした中年のサラリーマンだけだった。
私は、彼女の元に歩み寄って、どこへ行くのですか、と言ってみた。少女はうつろな青目を細めて、私の目の奥を見据えながら笑った。そして、なぜかありがとうございます、と言った。彼女の胸元で、小さな珊瑚のネックレスが揺れた。
「空が青いと、みんなが言うんです。だけど、わたしにはそれがわからない。白と呼ばれる色と、灰色と呼ばれる色、黒と呼ばれる色。世界はそれらでできていて、黒や白のはっきりとした色の違いは、一応はわかりますけど、白黒のコントラストと、虹のコントラストは変わらない、というと、みんなわたしを笑うのです。色盲。それがわたしの障害だということに気づいたのは、最近のことでした。わたしの見ている世界は白と黒です。素敵な景色に感動しても、それは白と黒の世界でしかない。他の人が本当に美しいと思うものを、共感できなくなるということです。実際見ている景色は他の人が見ている景色ではないもの、つまり私の視界に入っているものは他の人にとっては偽りだということ。美しい、そんな言葉、結局私にはわからない」
彼女は、ゆっくりとそう言った。
そして、静かに、あなたは海をみたことはありますか、と言った。
投げやりで、不思議な出会いだった。
私たちは、駅からバスに乗り、海へと向かった。バスを待つ間、彼女は何も言わなかった。私は一応二人掛けの席に座ったが、彼女は隣には座らなかった。一つ前の席に座った。まるで彼女が私を知らない人だというように。
どこで降りればよいですか、と、彼女は私に問いかけた。私はわかりませんと言って笑った。実際、水族館の近くで降りればいいというのは知っているものの、バス停の名前までは、正確には記憶していなかったから。
そして彼女は口をつぐんだ。私も何もはなさなかった。はなすタイミングを失ってしまった。私は彼女の名前を知らなかったのだ。名前を知らなければ、話しかけようにもうまく話しかけられない。私はそういう性格だった。何かと理由を付けて人と話すのを避けてきた。そんな人間が、たった今出会ったような人と一緒に海へ行くのだから、不思議なこともあるものだな、と他人事のように考えた。
私がそっとふりむくと、彼女は窓の外の景色を眺めていた。その左手には、小さなドライバーのようなものが握られていた。A5くらいの大きさのノートに、小さな穴をあけていた。
「わたし、色盲って言いましたけど、近眼もあるんです。普段は重いめがねをかけなくてはならないほどの近眼です。いつかは完全に見えなくなってしまうから今のうちに勉強しているんです。」
ノートのページを前に一つめくって、先ほどまで書いていた点字を指でなぞった。彼女は目を線にしてほほえんだ。
「いまから、うみに、いきます。」
彼女は私にそのノートを見せてくれた。「か」が「な」になっていた。彼女の勉強はまだ長くなりそうだと思った。点字は、手話とともに役立つと思って猛勉強をしたことがある。「か」と「な」、それから「や」も似ているのだ。しかし紙をくぼませて書く点字は消しゴムでは消せない。
ここから、海が見える場所まで行くには、相当時間がかかる。バスで行くとなると、お金もかかってしまうだろう。彼女は、お金を持っているのだろうか。よけいなお世話かもしれないが、彼女はとてもお金をたくさん持っているようには見えなかった。私も人のことが言えないのだが、彼女の服装は安っぽいし、おまけに髪には寝癖がある。自分はどうかと、つむじのあたりを触ってみると、朝整えた割には寝癖が直っていなかった。私は彼女の分もバス賃を払うことに決めて、薄い財布を膝に乗せ、静かにぽんぽんとたたいた。
私は、眠気と戦いながら料金の表示と整理券を交互に見比べる。そして景色を眺めては、心の中で感動していた。バスの中のアナウンスは、とっくに知らない町の名前を読み上げるようになっていた。それが子守歌となって、私はいつの間にか眠ってしまっていた。海のある場所は、もっともっと遠くだ。
海は美しい、そして青い。それだけを知っていた私は絵を描くたびに、空と海を同じ青で塗りつぶし、地面にぽっかり穴があいてしまったようになった。それは小学生のときだった。先生はその絵を褒めた。空と海が溶けてしまったようだと。美しいと言った。私は元からあった絵の具の青に水色を混ぜ、紫色を混ぜた。紫色は、光の色だと思っていた。紫の絵の具は、光を当てると虹色の縁が浮かび上がってくる。ような気がする。青に光をぐるぐる混ぜ、私は空と海を画用紙の上で輝かせた。海はどんなものなのだろう、いつか見てみてみたい、と思いながら。
突然、他の乗客が歓声を上げた。私ははっと目を覚まし、窓の外を見た。そこには群青の広い、土の地面とは違うスペースがそこには広がっていた。海を避けて、建物が一つも建っていない。岩やコンクリートではない物質でできている地面だった。私は初めて見た海に釘付けになった。
「ほら、あれが海です」
私は振り向いて、前を向いたままの彼女の肩を軽くたたき、空より何倍も青い海を指さした。
「どんな色ですか」
「空よりも……」
言いかけて、私は少し考えた。彼女には、色がわからないのだ。彼女は不安そうに私の顔をのぞき込み、言葉を待った。
「大切な人の涙をかき集めたような、そんな色です」
言って、私は赤面したが、彼女は不思議な表情を浮かべた。その表情は、「大切な人」を想っているようにも、「涙」という言葉が心に響いたようにも見えた。彼女は計り知れない不安や傷を持っているのだろうか。私には分からない。
「行きましょう、海へ」
私たちはバスを降り、海を眺めた。彼女は海から目を離さずに私の手を取り、波打ち際まで来た。遠くの方でサーファーが何人か波に乗っているだけの、静かな海だった。
「私は海で生まれたのです。一番昔の記憶で残っているのが、海の底から見た太陽でした。だからここがわたしの生まれた場所。真っ暗だった。そして、真っ黒だった。だからこそ光がまぶしかった。白黒と虹は、確かに違いますね。透き通っていて、あたたかい色なんですね、海の色って」
彼女は静かに興奮しているようだった。海の色が暖かいなんて、言っていることは、あり得ないことではある。しかし、私は不思議と、本当のことだと思えた。彼女を信じることができた。
「私は、ここで生まれたんだ……」
彼女の目には、海と同じ色の涙が浮かんでいた。
彼女は、胸の中の波を押さえつけるように胸に手を当て、目の前にある波と同じタイミングで呼吸をしていた。
この海のどこかでクジラが泳ぎ、クラゲが浮かび、マンボウがそれを食べる。水面でイルカが跳ね、深海ではまだ発見されていない奇妙な魚が泳いでいる。図鑑で見た数々の魚たちがこの海の中に、宝石箱のように詰まっている。海は、未知で、だからこそ神秘的であり、美しい。
「美しいですね」
浜辺に、死んだ珊瑚が打ち上げられている。珊瑚礁の砂は珊瑚を食べた魚のふんだと聞いたことがある。そんなことを思い出した。長い年月を経て、真っ白な砂浜が形成されてきたのだ。
私は、隣に目を向けた。
彼女は、もうそこにはいなかった。
私がこの目で海を見たのはそれが最初で最後だった。
都会の町のまんなかで、私は空を見上げる。
空を何倍も青くしたような色。大切な人の涙をかき集めたような色。海では今も、たくさんの魚の母となり、私たち生き物を生んだ母として宝石を、深海に蓄積させている。手のひらにはのらない、大きな宝石箱。道で出会ったあの少女は、海で生まれ、海に溶けていったのだ。それ以外には、彼女が消えた理由は何も考えつかなかった。
私は、一度だけ海を見たことがある。スローモーションで動く白黒の私の記憶の一部だけが、少女とともにあの日見た、深い青に染まっていた。
読んで下さりありがとうございましたm(_ _)m
挿絵は大きすぎたので後で書き直します(∗•ω•∗)