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「‥‥‥あとは、知っているわよね?」
「えっと、そのあとは‥‥‥お父さんがもうアタックしてきたんだよね」
「あはは。間違ってはいないわね」
いつそんな言葉を覚えたのでしょう。
私は思わず笑ってしまいました。
私の笑い声がうるさかったのか、子供用のベッドでまだ三歳になったばかりの娘が「むーぅ」と唸りました。
「あ!お母さん、しぃー!佐奈がおきちゃう」
「あら、ごめんなさい」
慌てて口に指を当てて小声で話す息子に合わせるよう、私も小声で謝ります。
しばらく黙ってベッドを覗きこんでいると、娘は父親そっくりの顔を枕に押しつけ、また静かに眠り始めたのを見計らって、息子を膝の上に乗せました。
「修平はね、あれから私を平等に扱おうとはしなくなった。君に興味があるんだって、いつも私のことを知ろうと寄ってきたわ」
「いやだったの?」
「ええ、嫌だったわ。皆から物珍しそうに見られたのも嫌だったけど、待ち伏せたように私の前に現れる彼が不気味でね‥‥‥」
いつもいつも逃げようとした私の前に先回りしているのが、まるで監視されているみたいで。
いや、実際監視されていたのでしょう。
そうでなければ、そのあとの彼の行動が理解できませんから。
「そんな生活が二週間続いたと思ったら、一日だけぱったりと彼の質問攻めが止んだ。私は諦めてくれたのかって、勘違いしたわ。やっと静かな生活に戻れると思って、家に帰った」
でも、彼は諦めたわけではなかった。
諦めるどころか、最悪の選択をしてきたのです。
「家に帰った私は愕然としたわ。家は家財も何もかもがなくなって、もぬけの殻。両親もいないし、何が起きているのか分からなかったわ」
「お父さんがおかねとこうかんに、お母さんといっしょにいることをおねがいしたんだよね」
「ええ、私は両親にお金のために売られたの。売る方も売る方だけど、買う方も買う方よね」
「‥‥‥?きらいになったってこと?」
「‥‥‥‥‥‥うん。私はあの時から、誰かを好きになるのも信じることもやめようって‥‥‥思ったの」
どうせうまくいかないなら、『普通』の幸せすら望めないなら。
いっそのこと、何も望まないようにすればいい。
何も期待しなければ、傷つくことも奪われることもないから‥‥‥。
「お母さんっ!」
「―――え?」
ふと呼ばれて我に返ると、息子が泣きそうな顔で私を見上げています。
どうやら私は怖い顔をしていたようです。
皺が寄るほど強く服を掴み、不安げに震える身体を抱き締めました。
「大丈夫よ。あなたを、あなた達を嫌いになんてならないわ。愛しい私の宝物だもの」
「どこにもいかない?ぼくをおいてかない?」
「どこにも行かないわよ。あなた達を置いてなんかいかない。ずっと、一緒にいるから」
「ぅん、うん‥‥‥」
私がどこかに行ってしまうと勘違いでもしたのでしょうか。
息子はしばらく離れようとしてくれませんでした。
「大丈夫。大丈夫だからね‥‥‥」
頭を撫でたり身体を揺らしたりしていると、そのうち息子は腕の中で眠ってしまいました。
「大丈夫。きっと、きっと‥‥‥」
私は眠ってしまった息子にだけではなく、自身にも言い聞かせていました。
小さな身体の温もりを感じながら‥‥‥。
―――――●―――――○―――――●―――――
「―――槊弥。ここにいたの?」
上から降ってきた声に、私は目を覚ましました。
見上げると、修平が苦笑を浮かべながらこちらを見ています。
どうやら子供達と一緒になって眠ってしまっていたようです。
「‥‥‥ああ、帰ってたの?」
「今日は早く帰るって言っただろう?それより、温かいからって何も被らずに寝てると風邪引くよ」
私の身体を支えにして眠っている息子を抱き上げ、もう片方の腕で器用に佐奈を肩に乗せうれしそうに笑いました。
「よいしょっと‥‥‥また重くなったなぁ」
「子供の成長は早いものよ。あっという間に大きくなって、一人で生きていくようになるわ」
「それは寂しいな」
また私の彼に対する意地悪だと思ったのか、苦笑を浮かべてこちらを見る彼。
「大きくなってもらわなきゃ困るわ。いつまでも面倒を見ていられるわけじゃないもの」
「‥‥‥それでも、僕は今、今日この時間が。この幸せが永遠に続けばいいって、そう思うよ。大好きな君がいて、愛しい子供達がいて‥‥‥。他には何もいらないから」
「傲慢。他には何もいらないなんてよく言うわ。欲しいものを手に入れるのに、躊躇なく権力を振りかざしたくせに」
「そうかもね」
でも、と私の前にかがみ、真剣な表情を浮かべてささやいた。
「確かに僕は君を愛しているよ。あの時みたいに、ただ興味があるからそばに置いておきたいわけじゃない」
「‥‥‥」
「本当に君を愛しているんだ。槊弥がいない人生なんて、考えられない」
「‥‥‥いくら言われたって、信じられないわ。言うだけなら誰にだってできる。それに、私がひとを信じられないのは、あなたのせいなのよ」
私は彼を睨み上げました。
こうすれば彼は悲しい顔をすると分かっていたけれど、私はいつものように追撃を許さない言葉をぶつけます。
「子供達を寝室に連れていくんでしょう?私はここを片付けてから行くから」
「‥‥‥ん。分かった」
追い払うようにして彼を部屋から出すと、私は扉の前に座りこみました。
「―――言えるわけないじゃない。あなたを愛しているなんて‥‥‥」
そうです。
言えるわけがないのです。
私は、この幸せが壊れてしまうことが怖いのですから。




