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memoir  作者: 翠川 零
1章.君が死んだ日
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◆君が死んだ日

『愛している』と決して僕に言ってくれなかった君は、もう僕の生きる世界にはいない。

どうしても聞きたかったその言葉は、二度と聞けなくなってしまった。

君が決して僕に『愛している』と言ってくれなかった理由は、分かりきっていたけれど。

それはとても単純で、僕にはどうあがいたって無理な理由たったけれど。

それでも僕は、その一言を聞くためだけにどれだけのことをしてきただろうか。



―――――●―――――○―――――●―――――




    妻が 死んだ




―――――●―――――○―――――●―――――





ピィ―――――――――





先程まで一定の間隔で鳴っていた音が途絶え、代わりに狭い病室に高らかとその音が鳴り響いた。


医師が脈をとり、腕につけられた時計を見る。




「―――17時53分、ご臨終です」




医師の重い口から静かに告げられた、愛しい者の命が終わったことを意味する言葉。


それを聞いた瞬間、子供達が泣き崩れた。





―――――●―――――○―――――●―――――




病院特有の消毒の匂いが充満する白い壁の部屋。


そこにたった一つある家具らしい家具―――簡素な鉄パイプのベッドの上で。


あの日から一度も目を開くことなく、妻は静かに息を引き取った。




「‥‥‥お母さん、起きてよ‥‥‥?あんなに寝続けたんだから、もう眠くないでしょ?ねぇ‥‥‥‥‥‥‥お母さん‥‥‥いやだよぅ、お母さ‥‥‥っ‥‥‥」




妻の右手にしがみつき、必死に動かない身体を泣きながら揺する娘。



妻が昏睡状態になって、約三年。


娘―――佐奈さなも、妻がいつ死んでもおかしくないことくらい知っていたはずだ。



いつきてもおかしくないこの時を、覚悟していたはずだ。



それなのに、佐奈は必死に妻の身体を揺する。



医師と看護師が妻の身体に繋げられた点滴のチューブや酸素マスクを外す横で、娘は自分の母を求めて呼び続けている。




「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」




そんな娘を見て、困ったように若い看護師が妻の死を報せる機械に手を伸ばしては引っこめを繰り返している。



佐奈が邪魔で機械の電源と音が切れないらしい。



しかし、佐奈を妻の身体から引き離すことが忍びなく、彼は手を引っこめて一歩下がってしまった。



彼も他に仕事があるだろうに。



僕は娘の肩に手を置いた。




「‥‥‥佐奈」




しかし、娘は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げただけで、動こうとしなかった。




「‥‥‥佐奈‥‥‥‥‥‥」




根を生やしたように動かない、僕にそっくりの娘。



僕は困り果てて息子の方を見た。



その視線に、今まで妻の左手を握って声を噛み殺して泣いていた息子が立ち上がって佐奈を母から引き離し、頭をゆっくりと撫でた。



看護師はホッとしたように妻の死を報せる音を切り、僕達を残して部屋から出ていった。




「佐奈‥‥‥、母さんと、お別れしよう?」


「‥‥‥やだよ、イツキお兄ちゃん。だって、まだ‥‥‥こんなにあったかいんだよ?」




兄―――いつきの手を握り、母の身体に触れさせようとする。



しかし、樹は頭を振って佐奈の手を下ろさせた。




「‥‥‥もう、心臓は止まってる。母さんは、死んだんだ」


「――――――うそっ!!」




樹の手を振り払い、佐奈は僕を妻の横まで引っ張って僕に手を握らせた。




「ねぇ、あったかいでしょお父さん?ほら、昨日と何にもかわらない‥‥‥そうでしょ?ねぇお父さん!」


「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」




確かに、変わらない。


三年前からずっと変わっていない、安らかな顔で眠り続けているように見える。



独りがいいからと、決して心までは触れさせてくれなかった、虚勢にまみれた意志の強い君。


そのくせお世辞もおべっかも苦手で、自分の寂しさ以外は本音しか言わなかった君。


僕の容姿や口調、表への感情に惑わされず、僕の醜い心を見抜いてしまった君。


それが原因で僕に気に入られ、面倒臭そうに好意を向ける僕を睨んでいた君。



‥‥‥僕が愛した、僕の思い通りにならない君。



そんな愛しい君は、ただ寝不足で、少し寝坊をしているだけで。


君の寝顔があまりにもかわいくて起こせずにいる僕を、少しして起きた君が僕を叱ってくれるんだと。



そう錯覚させてきた寝顔と、何ら変わってないように見える。



でもその錯覚も三年前から結局錯覚でしかなくて。


今でもその錯覚の錯覚も、やっぱり君が嫌った偽りの一つで。



信じたくないのに、夢であってほしいと心の底から願っているのに。



毎日眠っている君を触れてきた手には、もう僅かしか温もりを感じられない。



どんなに君が目を覚ましてくれることを願い、独り言のように眠る君の横で話してきた僕の声。


聞こえていないだろうと思いながらも、それでも受け止めてくれていると信じて触れ続けた小さな耳も。


冷たくなる一方で。



命の暖かさがどんどん失われていっている。



君は、もう‥‥‥




「もう、槊弥さくやはここにいない‥‥‥」




もう、ここには‥‥‥


僕の隣には、いてはくれないんだね‥‥‥



自分に言い聞かせるように、僕は娘に言った。




「どんなに信じたくなくても、おまえ達の母さんは死んでしまったんだ」


「ちがう、ちが‥‥‥‥‥‥」




佐奈はいやいやをするように何度も何度も首を振って、自分の耳を塞いでしまう。



僕はいつまでも母が死んだことを受け入れられない娘を叱ることはできなかった。



容姿も性格も僕そっくりの佐奈。


彼女が僕の代わりに泣き、混乱し、苦しんでいるから、僕は今立っていられる。



父親として、子供達の母親の死を、妻の死を受け入れようとできる。



佐奈が、娘が母親の死を受け入れられないでいるから。


樹が、息子が母親の死を静かに受け入れようとしているから。



僕には彼らが残されていることを思い出させてくれるから、僕は君の後追いをしないでいられる。



君が僕に残してくれた、僕ら二人の半身。


君が唯一宝物だと言った、僕らの子供達。



君を失っても、僕は彼らを守らなければならない。



樹が、佐奈が生まれた時に約束したから。


彼らが一人前になるまでは、僕が何があっても守りぬくと。



あの時、君がさせた約束が僕を死なせてはくれない。



虚勢を張ってでも立派な父親でいろと、もう聞けないはずの君の声が退路を塞ぐ。



あの約束がなかったら、ああして君が死んだことを受け入れられないで惨めに泣いていたのは、きっと僕だっただろう。




「‥‥‥今は思い切り泣くといい。怒ったって、悔やんだっていい」


「‥‥‥‥‥‥?」




まっすぐ自分達を見て言う父親に、佐奈が訳が分からなそうな顔をする。



しかし僕は構うことなく言葉を続ける。




「おまえ達は母さんが大好きだっただろう。それはどうしてだか分かるか?」


「それは‥‥‥母親だから?」


「血の繋がった母親だからといって、好きでいられるか?叩いたり、虐待するような親を、佐奈は好きになれるか?」


「それは‥‥‥」


「ない、だろう?」


「‥‥‥うん。その行為が自分を拒絶しているかしてないか、分かるもん。拒絶されてるって分かってたら、もう好きにはなれないよ‥‥‥。でも、お父さんが言いたいことはよく分からない」


「同じことだよ」




僕は妻の安らかな顔を見て言った。




「悲しくて悲しくて仕方ないほど、母さんはおまえ達を大事に思ってくれていた。愛してくれていたんだよ」


「あ‥‥‥‥‥‥」




弾かれたように顔を上げ、僕と樹を見比べて自分の服の裾を強く握り締める佐奈。



小刻みに震え始める小さな肩に手を置き、樹が微笑んだ。




「俺達はずっと母さんに愛されてきた。だって、今俺達はこんなにも悲しいんだから」




一粒の涙が彼の頬を伝った。



すると、みるみるうちに佐奈の目に大粒の涙が溜まっていき、それが流れ出した途端、樹の身体にへばりついて大声で泣き始めた。



樹は涙と鼻水で服が汚れてしまうのも構わず、佐奈の頭を自分の方へと引き寄せて言った。




「母さん、お疲れさま。今までたくさんお世話になりました」




凛とした、君そっくりの顔を上げて樹は静かに告げた。




「俺達を生んでくれて、愛してくれて‥‥‥ありがとう」




泣き声が大きくなる。



僕は二人を抱き締めて、記憶の中の君を思い出していた。



卵を抱く鳥のように腕を回し、君との半生を思い返しながら、僕は一つだけ怖くて聞けなかったことを思い出した。





―――――●―――――○―――――●―――――











そういえば




結局君は、最後まで




僕を好きとも




愛しているとも




言ってはくれなかったね










学校の部誌で連載しているので、更新が遅いかもしれませんが、よろしくお願いします。

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