殺してやる(極大修正版)
何もない暗闇を昴は逃げる。誰かが殺そうとして追いかけてくる。昴はひたすら逃げる。そして、声が響く。
――コロシテヤル
弾かれたように目が覚め、飛び起きる。ベットの上で、ぬめるような冷や汗をかいていた。恐怖心に突き動かされ周りを見渡す。自分の部屋だった。朝日がこぼれる静けさの中で、小鳥のさえずりを聞きながら自分の手を見ていた。恐怖心が薄らいでいく。時計を見る、六時三十分、ベルが鳴る前に起きてしまった。
「怖い夢を見た……」独り言を呟く。
夢を思い出そうとしたが、恐怖から逃げていたことしか分からなかった。全身に張り付く汗が不安をかきたてる。しばらく布団にくるまって、夢のことを考えていた。何も理解できないまま目が冴えてきたので、起きて着替えをする。ねっとりと張り付く下着を脱いで、タオルで汗を拭く。腕に鳥肌が立っていた。九月なのに、寒い。学生服を着る頃には寒さも引いて、夢の事も気にならなくなっていた。そして、二階の自室から降りてキッチンにいく。
「おはよ、お母さん、今日は何?」
キッチンで忙しく朝食を作っていた母が振り返る。
「今日は早いのね。揺すっても起きないくせに」
「俺も成長したんだよ」
あきれ顔の母は続ける。
「毎日、そうならいいのにね」
「朝ご飯何?」
「目玉焼きにお味噌汁」
いつもの朝食だったので、のりも付けてもらった。
椅子に座り、朝のワイドショウを見ながら朝食を食べていた。TVの上にある時計を見ると、もう出かける時間になっていた。足元の鞄を拾い上げ、家を出てバス停へと急いぐ。
すっかり夢の事を忘れていた。
毎朝、幼馴染の美咲と同じバスに乗り通学するのが嬉しい昴だった。今日も、同じ時間にバス停に行く。そして、幼馴染の美咲が待っていた。
二人は、親同士の近所付き合いが元で。幼稚園からお互いの家で遊び、小学校では仲のいい幼馴染として楽しく遊んでいた。中学生になる頃、昴は美咲を異性として意識し始めた。そして、今までののような気楽な会話が出来なくなり、会話が少なくなっていった。また、昴に男友だちが増え、一緒に遊ぶことも少なくなっていった。自然と、二人の距離が徐々に離れてしまった。
ある事件が切っ掛けで元に戻ることになった。それは、中学二年のある日のこと。美咲が校舎裏の、薄暗い角で泣いているのを昴が見つけた。心配になって美咲に話しかける。一人で泣いていた美咲が、昴の優しい声に触れて話はじめる。クラスが別だったため何も気が付かなかった昴だった。
話を聞いて、いじめを受けている事を知る。いじめの原因は些細な事だったが、それが元でいじめのターゲットにされてしまったらしい。いろいろ話している内に、昴は(美咲を守るのは俺しか居ない)と決意していた。話が終わる頃、昴は美咲を連れていじめの主犯グループの所にいき。怒りながら文句を言う。そして、最後に「美咲をいじめるやつは許さん、美咲は俺が守る」と宣言してしまった。
今から思うと、衝動に駆られ、恥ずかしいことをしたと思っている。これで、いじめが無くなった訳ではないが、クラスで孤立した美咲のために、昔のように一緒に登下校を行い。休み時間も美咲が一人で居る時はいつもそばに居るようにした。暗かった美咲も徐々に明るくなり、いじめも無くなってきた。そして、学年が変わった時から友達も増え、元の美咲になっていた。この事件から、昴は(美咲は俺が守るんだ)と決めていた。
歩道沿いの、バス停に近づき挨拶をかわす。
「おはよう、美咲」
バス停の横に居た美咲は、笑顔で挨拶をする。
「おはよう」
昴はふと美咲の鞄に目をむける。子ネコの鈴が付いていた。それを見た昴は昔を思い出す。
中学三年の時、美咲と一緒に縁日に出かけた。二人で屋台をのぞいていると、美咲が子ネコの鈴をかわいいと言って、手に持って眺めていた。それを見ていた昴は「よし、美咲にプレゼント」と言って買って渡す。美咲は満面の笑みを浮べて喜んだ。その頃から、昴は美咲に対して恋心が芽生え育っていった。しかし、今の関係が壊れるのが怖くて、とても言い出せないでいた。
美咲もまた。むかし、いじめを救ってくれた時。昴の優しさに惹かれ恋心が育っていった。しかし、美咲も同じように、今の関係が壊れてしまうのが怖くて、言い出せないでいる。そして、子ネコの鈴を大切に大切に持っていた。
今では、二人とも仲のいい幼馴染でいることに、一番の幸せを感じていた。
昴はバス停に着き、美咲と並んで話しはじめる。
「次の日曜、町内会の掃除出る?」
「もちろん出るよ、昴は?」
「朝が苦手だけど、出ないと親に怒られるし、仕方ないか」
「そうそう、やるべき事はちゃんとやる」
元気そうに話す美咲だったが、心なしか顔色が悪そうな気がして声を掛けた。
「あれ、元気がなさそう?」
「うんん、そんな事無いよ」
そか、と軽く返事をする昴だった。
しばらくするとバスがやってきた。二人はバスに乗り込むが、混んでいたので、二人ともつり革につかまった。窓越しに見える、いつもの通学風景をのんびりと見ていた。そこに声が。
――コロシテヤル
突然の声に一瞬硬直する昴。朝の悪夢がかすかに頭をよぎった。誰が言ったのか分からない。だが、確かめずにおけない翼は、自分の周囲を見始めた。見知らぬ人と目が合ってしまい、思わず目を伏せる。そして、隣りの美咲を見た。
美咲は一瞬、困ったような、何か訴えたいような表情でこちらを見たが、すぐに目を伏せてしまった。顔色がさっきより悪そうだった。美咲も今の声を聞いたのだろうか。と思い悩む昴であったが、バス内で聞くこともできずに昴も目を伏せた。重苦しい沈黙が車内に漂っていた。
バスは何事もないように、西が丘高校前に着き、二人は無言のままバスを降りる。
校門に向かって歩道を歩き始める。左側には校舎と校庭があり。学校は小高い丘の上に立っているため、右側には町の様子が遠くまで見えていた。いつもの騒々しい登校風景よりは、いくぶん静かな感じであった。美咲も静かに昴の隣りを歩いていた。そして。
――コロシテヤル
息を呑んで立ち止まる二人。間違いなく聞えた。昴は慌てて周りを見渡す。誰が言ったのか確かめようとした。見渡す限り、皆も立ち止まって周りを見ていた。
みんなも聞えたようだ。しかし、誰が言ったのか分からない。回りも不思議そうに見渡している。昴は状況が理解できないため、苛立だっていた。
「くそ、殺してやるって何だ!」
思わず、声に出してしまった昴。
隣りにいた美咲が、びくっとして昴を見ながら後づさる。
はっと、我に帰った昴は美咲を見た。脅えた表情でこちらを見ている。
思わず言ってしまった言葉が、美咲を不安にさせたことを後悔する。
「ちがう、俺じゃない」
その言葉を聞いた美咲が小さな声で聞く。
「誰が言ったの?」
わからない、と首を振りながら答えた。
昴は再度周りを見渡した。立ち止まって周りを見渡す人、友達と話をする人、静かに学校に歩き始める人、それぞれの行動を取っていた。昴は美咲に聞いた。
「美咲、もしかしてバスに乗っていた時、同じ言葉を聞いた?」
しばらく周りを見ていた美咲が答える。
「空耳だと思っていたけど………」
不安そうに見つめる美咲。昴は少し離れてしまった美咲に気を遣いながら話しをつづける。
「聞えるのは、二人だけじゃなく、全員聞えるみたい」
うん、と静かに答える美咲だが不安は消えなかった。
「誰が言っているんだろう?」
首を横に振るだけの美咲だった。
会話も止まってしまい。二人は静かに学校へと向かった。
昴は考えていた。
(殺してやるって、なんだよ、誰が言っているんだ、みんなに聞えたみたいだけど、何で全員聞えながらも、誰が言ったのか分からないんだ。美咲は離れて歩いてるし、いったい何なんだ)
美咲と離れてしまった原因の声に、憤りを感じながら昴は歩いていた。
二人は同じクラスの二年三組、校舎の二階だった。昴の席は窓ぎわ後方、美咲の席は廊下近くの後方だった。教室に入ると、声の話題で教室中騒がしかった。数名のかたまりが幾つもあり、会話をしていた。昴も集団に入って、少しでも新たな情報が欲しかった。しかし、誰もが聞き、誰もが不明だった。残念ながら、新しい話は無かった。確かなことは、全員が同じ声を、同じ時に聞いたことだけだった。
古めかしいスピーカーから授業開始のチャイムが流れる。波が引くように静まり、各人の席に座りはじめた。
一時限目の授業が始まる。
先生が話す。
「今日は、教科書の二十三ページ……」
その時。
――コロシテヤル! コロシテヤル!
一瞬にして、教室が暗闇に飲み込まれたように静かになる。
(今度は、はっきり聞えた、それも殺意まで伝わってきた)
昴は理解できない感情と、恐怖に襲われた。
一瞬の静寂の後、蜂の巣のような騒ぎになる。
窓際の生徒が立ち上がって喚く。
「誰だよ、殺してやるって!」
それを聞いた女生徒が、いや―― と悲鳴をあげる。ある者は立ちかけ、ある者は机に伏せる。「誰なんだ!」と喚く生徒。ひたすら周りを見る生徒。固まった様に動かない生徒。立って騒ぎ出す者。震えて机にしがみつく者。そして、誰かが先生に聞く。
「先生!、この声は何?」
先生は、黒板にしがみ付き大きく見開いた目が空中を彷徨っていた。そして。
――コロシテヤル! コロシテヤル! コロシテヤル!
強烈な殺意と言葉が頭の中に響いてきた。殺意も声も止まらない。
強烈に頭の中に響く言葉と殺意によって、昴は立つ事も喋る事もできなかった。机にしがみつき、湧き上がる恐怖に己を見失いかける。しがみつくことでしか自分を維持できなかった。自分を押さえつけながらも、耳には悲鳴や机や椅子の倒れる音、人が倒れる音を聞いていた。そして、恐怖の感情が少しだけ抑えられるようになり、顔を上げて周りを見る。
クラスメイトの多くが机にしがみついて震えていた。床で丸くなって震えてる人。泣いている人。喚く人。先生は教壇の下でうずくまっていた。
そして、美咲を見た。美咲もまた机にしがみついて震えていた。昴の心の中に。
(美咲を助けなきゃ)と言葉が跳ねる。その思いが強まり恐怖心が弱まる。その時。
最前列で雷のような音とともに机が壁に当たる。座っていた誰かがカッターを持ち振り回し始めた。
「殺せるもんか、殺せるもんか、殺せるもんか」
と、喚きながら右へ左へカッターと振り回す。
ギャーと悲鳴が上がる、誰かの肩が切られ鮮血が飛び散る。そして周りの机が倒れ、椅子が飛び散乱する。一瞬にして教室全体がパニックになる。昴も無意識のうちに椅子から離れ窓際に逃げた。半狂乱で暴れる生徒を見ながら、昴は美咲の事を考えた。
(ここは危ない、美咲と出よう)
気が狂いそうな殺意の声とパニックの中、美咲の事を考えると、恐怖が少しだけ薄れていく。美咲は廊下側の教室の隅で震えていた。美咲の所に行こうとしたが、恐怖で手足が素直に動いてくれない。美咲を助けたいと強く思い、震える手足に力を込める。そして、美咲の所に這いずっていく。
「美咲! 美咲! ここを出るぞ」
美咲はゆっくりとこちらを見た。恐怖で顔面蒼白だった。昴を見て顔が少しほころんだ。
「ここは危ない、出るぞ!」
美咲は震えながらも小さくうなずく。そして、美咲の手を取った。美咲もその手を力強く握り返してきた。恐怖に打ち勝とうと、二人の手は強く結ばれた。
二人で寄り添いながら廊下に這い出す。右を見ても左を見ても教室から生徒が這い出して来る。ガラスの割れる音、悲鳴、怒鳴り声、叫び声、机の倒れる音、どの方向からも聞える。どの教室もパニックになっているに違いない。殺意の声は止むことも無く強烈に頭に響いている。
二人で手を握り支えあうことにより安心感が生まれた。手足の震えも収まってくる。廊下の壁を支えに立ち、右側の階段に向かってゆっくりと歩き始める。昴は励ますように美咲に言う。
「家に帰ろう」
美咲はうなづく。
二人で支えながら階段を下り、校舎の外に出た。そして校門まで移動する。校門から見える景色は、高台の上から町が遠くまで見渡せる。いたる所で煙が上がっていた。事故だ。昴は絶望的な状況を理解した。
(狂っているのは、学校だけじゃない)
救急車のサイレンも、消防のサイレンも、警察のサイレンも聞えない。町が何も機能していない事を理解してしまった。バス停まで歩いてきたが、この状況ではバスが来そうに無い。昴は話す。
「美咲、事故を避けながら、人や車を避けながら歩いて帰ろう。いいか?」
美咲も事態を理解しているように、軽くうなずき歩き始める。
家までの道のりは遠い。二人は周りを気にしながら静かに歩く。殺意の声はさらに強く二人に襲い掛かっている。そして恐怖心が、周り総てを恐怖の対象に変えてしまう。物音一つに硬直し、立ち止まって周りをうかがう。人の叫び声に恐怖し体が逃げる。車の急ブレーキの音に全身が凍りつき。事故の音に驚き震え、膝が折れそうになる。二人の繋がった手のぬくもりや、体の暖かさだけが、心に安心を与える希望だった。
その頃、美咲の家では母が半狂乱の状態になっていた。
美咲が学校に出かけてから聞えた、最初の声は空耳だと思い、母は廊下を掃除していた。二回目の声で手が止まり、周りを見てから、各部屋を見はじめた。三度目の声で恐怖に立ちすくみ、警察に連絡しようと居間にある電話に走る。
そして、直ぐに強烈な殺意の声が始まり、止まらなくなる。あまりの恐怖に、母はその場で伏せてぶるぶると震えていた。しばらくして体が動きはじめると、キッチンに駆け込み、包丁を手に取り壁を背にして立ちすくむ。そして、キッチンの奥に移動して隠れるように座り、包丁を構えて震えていた。
殺意の声をたった一人で耐えることは不可能だった。恐怖のあまりに、わずかな物音に体が硬直し包丁を振り回す。外からくる叫び声にすくみ上がり膝を抱えて震える。強烈な殺意の声と恐怖に精神が耐えられなくなり、幻覚を見、幻聴を聞き始めた。何を見ても自分を殺害する怪物に見え、殺意と恐怖に母の心は壊れ始める。
しばらくして、母は乾いた笑い声と共に、ふらふらと居間に歩き出した。そして、自分の喉を包丁で突き、崩れ落ちるように倒れた。美咲たちが来る十分前のことだった。
昴たちは、家までの長い距離を、奇声を上げる人を避け、車を避け、事故を避け。あるときは家の陰に隠れて、二人で震え上がり。ある時は、パニックになった人たちから逃げるように走り。ある時は、崩れ落ちそうになる心を励ましあいながら、家路を急いだ。二人にとって、お互い無くてはならない存在であった。美咲にとって昴は、かけがいの無い頼れる存在であり。昴にとって美咲は、守らなければならないただ一人の存在であった。
町から少し離れ、まばらに家が立つ地域に昴たちの家がある。美咲の家が見えてきた。外見的に異常な状態は見えない。そして美咲の家の前に着く。美咲を家に入るようにうながすが、震える美咲は離れようとしない。二人で支えあっているからこそ、殺意と恐怖の中、狂う事も無く歩けるのだと昴も理解した。
「一緒に入るか?」
昴の手にしがみつきながら、うなづく美咲。
二人で玄関を開け、靴を脱いで廊下に上がる。
「おかあさん、おかあさんどこ?」と、問い掛けていた。母の返事は無かった。
美咲は精一杯の声を出していたが、か細く小さな声だった。
廊下を進み居間に入る。そこに美咲の母がうつ伏せに倒れていた。
「おかあさん!」
美咲が駆け寄る。母は動かなかった。床と服に血のりがべったりと付いていた。 美咲は母を揺すって叫びつづける。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん」
蒸せるように泣き始めても、呼びかけることを止めない。
「おがあさん、おがあさん、おがあざん、おがあざん、ああ――」
一人になった昴の頭に、殺意の声がますます強烈に響いてくる。耐えがたい殺意と、そこから生まれる恐怖に、心が耐えられないと悲鳴を上げる。今見ていることが現実なのか妄想なのか分からなくなってきた。
(俺は狂っているのか? 目の前にあるのは何だ? 美咲と死体? どうして? 何故?)
自問自答を繰り返す昴は、その場で崩れ落ち、膝をついて頭を抱えた。
美咲はいつまでも叫び、狂ったように泣いていた。
昴は美咲の状況を、まるで幻覚のように感じはじめていた。涙を流しながら、なす術も無く虚ろな目で眺めていた。
(俺はおかしくなっているのか?、何をしたらいいんだ、分からない…… 美咲に何をしてやれるのかも、分からない……)
今の昴にとって、目の前の美咲のことだけがたった一つの拠り所であった。
強烈な殺意の中、現実離れした感覚が昴を襲う。世界が揺れ動き、並行感覚が無くなり、めまいに揺れ、幻覚が見え、幻聴が聞え始める。耐えがたい恐怖の中、うつろな目で美咲を見つめる時間が過ぎ去っていく。ふと気がつくと、美咲は泣くことをやめて母の上に覆い被さっていた。
美咲を守らなければ、美咲を守るんだ。と、繰り返し心が言っていた。それがたった一つ残った昴の理性であった。
そして、昴は呼ぶ。
「美咲」
返事が無い。また呼ぶ。
「美咲」
ピクリとも動かない美咲を見て、昴の理性がわずかに戻ってくる。
美咲に近づき、美咲を揺すって呼びかける。しかし、何の反応も無い。
美咲を抱きかかえ、顔を見て呼びかける。目には光が無い。顔には、涙と鼻水とよだれが流れるままになっていた。美咲の意識が何処かに消えてしまってる。なんの反応もしなかった。昴は絶望の中に落ちかける。
(もう駄目なのか? これでおしまいなか? 死ぬのか?)
ふと右手を見ると、血がべったりと付いていた。前に倒れている母の首から、大量の血が流れて床に大きな血だまりができていた。昴に残るわずかな理性が、ここに居てはいけないと告げる。居間の向かいに美咲の部屋がある。そこに美咲を連れていこうと、妄想のような思いが昴を突き動かす。美咲を引きずり、美咲の部屋に入る。美咲はまるで壊れた人形のように成すがままに引きずられていく。
美咲の部屋に入り、壁を背に美咲を座らせた。右手で扉を閉め、昴も隣りに倒れこむように座る。そして、美咲の胸に耳を当てた、鼓動が聞える。虚ろな顔の昴に、ほんの少しだけ笑顔が現われる。美咲に呼びかける、返事が無い。しばらくして、昴の目からも光が失われはじめる。
(静かだ、何も聞えない)
そう思ったのもつかの間、殺意の声がよみがえる。昴は過酷な状況に放心状態のような、夢遊病患者のように行動していた。わずかに理性を取り戻した昴に、前よりも強烈に殺意の声が響く。抑えがたい殺意の声に理性が吹き飛びそうな昴だった。美咲の手を、思いっきり握り締めて耐える。しかし、心が押しつぶされていく、暗闇に飲み込まれそうな昴が呟く。
「俺、もう駄目かもしれない」
昴は最後の力で、美咲を揺らしながら呼ぶ。
「美咲、美咲、美咲! 美咲! 俺もう、美咲を守れそうに無い、ごめんな」
そして、昴の目から光が消える。心が殺意の声に飲み込まれたのだ。もう、動く事も話すことも考える事もできなくなった昴は、人形のように倒れた。
心を食われた二人は、その場で折り重なるように動かなくなった。
数日後。
美咲の家のキッチンで、もぞもぞと動物のように動く影があった。
だらしなく水を飲み、冷蔵庫の野菜をかじり、ソーセージをむさぼり食べる姿があった。
目に光は無く、髪は乱れ、衣服は食料で汚れ、まるで原始人のような姿だった。その、心に。―――私たちは死なない。と、何処からとも無く声が響いていた。個人としての人格を見失っていたが、何千万人もの心を感じていた。心の奥底にある人間としての共通意識に触れた者のみが、殺意の声に対抗できた。しかし、個人としての理性はどこにも見られない。
食事が終わった後、不器用な手つきでコップに水を入れ、美咲の部屋に走る。
そこには、壁の前で横向きに倒れている昴が居た。
不器用な手つきで昴の口に水を流す。しかし、水は口から溢れてこぼれるだけだった。コップを持つ手の上に、大粒の涙がぽたぽたと落ちはじめる。光がまだ戻っていない目には涙が溢れていた。その顔は美咲だった。流れる涙が美咲の手にぼたぼたと落ちる。美咲の心の奥底に、昴が最後まで守ってくれていたこと。守るために話していた言葉が残っていた。どれほど昴が大切であったか、心が覚えていた。その思いが深い悲しみとなって溢れるような涙を流している。
昴は動かなかった、それでも美咲は、昴の口に水を流す事を止めなかった。
(了)
前回の極大修正版です。元文は僅かしか残っていません。
落ち、落ち……、どうなんでしょう?
別の方に落ちて欲しいんだけど……どうだろう?