[短編]振り返ってはいけない神社-最終
朝の光が古い畳を照らしたとき、ゆうとと秀頼はいつの間にか寄り添うようにして眠りに落ちていた。
「……朝だ」
秀頼が掠れた声で呟いた。祖母に言われた「一言も喋ってはいけない」という禁を破るのが怖く、二人はしばらくの間、黙ったまま互いの顔を見合わせた。 手首に巻かれた麻の紐は、昨夜の真っ黒な変色が嘘だったかのように、カサカサに乾いて千切れ、畳の上に落ちていた。
居間に行くと、祖母はすでに台所で朝食の準備をしていた。昨夜の険しい表情は消え、いつもの静かな、どこか達観したような老婆の顔に戻っている。
「……帰る準備をしな。今日は秀頼の両親に、ふもとまで迎えに来てもらうよう頼んでおいたから」
祖母は二人に温かい味噌汁を差し出しながら、一度だけ、じろりと二人の足元を確認しました。影は、ただの影として床に落ちていた。
「ゆうと。お前はもう、この夏休みはここへ戻ってきちゃいけないよ。秀頼もだ。山が、お前たちの匂いを覚えた。……しばらくは、都会の騒がしい場所に混じって、その匂いを消すんだ」
秀頼の両親の車が到着し、二人は逃げるように荷物をまとめた。
車が走り出し、バックミラー越しに小さくなっていく祖母の家と、その後ろにそびえ立つ深い緑の山。
「なあ、ゆうと」
後部座席で秀頼が低く切り出した。
「あの神社さ……俺、やっぱり気になるんだ。あんなルート、今まで一度も通ったことなかったのに」
「やめろよ、もう思い出すのも。おばあちゃんも言っただろ、匂いを消せって」
ゆうとはスマホを取り出し、都会の友人たちのSNSや賑やかな動画を片っ端から眺めた。人工的な光と音に浸ることで、あの「ジャリ……」という砂利の音を記憶の底に沈めようとした。
車が山道を抜け、コンビニや信号機が見える「ちょっとした都会」の風景に戻ってきたとき、二人はようやく心から息を吐き出すことができました。
「じゃあな、ゆうと。また来年……あ、来年はダメか。……とにかく、連絡するわ」
秀頼と別れ、ゆうとは自分の家へと向かう電車に揺られた。
ふと、窓ガラスに映る自分の姿を見たとき、ゆうとは違和感を覚えた。
自分の肩のあたりに、小さな、泥のついた子供の手形のような汚れがついていた。
「……え?」
慌てて手で払おうとしたが、その汚れは服についているのではなく、窓ガラスの「外側」についているようにも見えた。しかし、電車は高架を猛スピードで走っている。外側に誰かが触れられるはずがない。
ゆうとは震える手でスマホを操作し、秀頼にメッセージを送ろうとした。
しかし、入力画面を開いた瞬間、予測変換の先頭に、覚えのない言葉が並んでいた。
『フリ・カエ・ッテ・クレ・テ・ア・リ・ガ・ト・ウ』
ゆうとは悲鳴を上げそうになるのをこらえ、スマホを鞄の奥深くへと押し込んだ。
都会へ戻れば安全だと思っていた。けれど、山で連れてきてしまったものは、そう簡単に「匂い」を忘れてはくれなかった。
ゆうとは二度と振り返らないよう、前だけを見つめて、固く目を閉じた。




