第3話 王妃の影
夜の王都は、昼よりも静かだ。
だが、静けさの奥では、いつも何かが蠢いている。
ルシアン公爵の書斎に灯る明かりは、真夜中を過ぎても消えなかった。
机の上には寄付帳簿の複写、王都裁判の記録、そして王妃クラウディアの署名が入った一枚の文書。
その署名の筆跡は、まぎれもなく本物だった。
扉がノックされる。
現れたのは黒衣の密偵、クロード。
「裏が取れました。王妃陛下は孤児院の名義で“王室特別基金”を設立し、そこから一部を個人の宝飾商に流していました。殿下は知らぬふりをして、遊興費として受け取っていたようです」
「……つまり、金の源流は王妃だ」
「はい。さらに、伯爵令嬢エメリアの父上は、その基金の管理役に任命されています」
公爵は眉間に皺を寄せた。
王妃の行動は、ただの金銭欲に見えた。だが、表向きは「孤児院支援」。誰も逆らえない善意の仮面だ。
娘を婚約者から引き離した理由も、王妃の計算かもしれない。
「王家の金に手を出し、娘を犠牲にしてまで帳簿を隠すとは……」
「どうされますか、公爵閣下」
ルシアンは立ち上がった。
その横顔に、迷いはない。
「再び、法廷に立つ」
翌朝。王城の謁見の間。
王妃クラウディアは、白金の衣装をまとい、微笑を浮かべていた。
その笑みは氷のように完璧で、冷たかった。
「まあ、公爵閣下。夜明け早々にお越しとは。何かしら、また法の話かしら?」
「ええ。陛下の“寄付事業”について、少々お伺いを」
王妃の扇が止まった。
背後に控える侍女たちが、息をのむ。
「寄付事業? あなた、まさか王族の務めに異を唱えるつもり?」
「異を唱える気はありません。ただ、陛下の署名の入った帳簿が、財務局に保管されていない理由を確認したい」
王妃の瞳が細くなった。
数秒の沈黙。扇の骨が音を立てる。
「……その帳簿、どこで手に入れたのかしら?」
「正規の調査です。法廷にて提出済み」
王妃は微笑みを戻し、ゆっくり立ち上がった。
その仕草ひとつで、部屋の空気が支配される。
「公爵。あなたの娘が王太子の婚約者でいられなかったのは、彼女が王家に“ふさわしくなかった”から。血筋でも、品位でもない。“従順さ”の問題よ」
「王家に従うことが品位だと?」
「そうよ。秩序を守るとはそういうこと」
「秩序を守るのは、法です。人ではない」
王妃の微笑が消えた。
次の瞬間、玉座の扉が開き、王太子レオンハルトが入ってきた。
「母上、何を話している」
「殿下」
公爵が向き直る。「あなたも耳に入れておきたい。孤児院寄付金を経由した不正の件、王妃陛下の名が署名にあります」
「馬鹿な!」
レオンハルトは拳を握る。「母上がそんなことをするわけがない!」
王妃は殿下の肩に手を置いた。
その声は甘やかでありながら、刃のように鋭い。
「落ち着きなさい、レオン。彼はいつも理屈ばかり。父王の側近であった頃から、面倒な正義を振りかざすのよ」
ルシアンは静かに頭を下げた。
「ならば、その“面倒な正義”が、陛下をお守りする最後の壁となるでしょう」
王妃の瞳が光った。
「……脅すつもり?」
「脅しではなく、忠告です」
そこへ、王の侍従が駆け込んできた。
「陛下! 急報です。財務局から、王室基金の支出不明金について、調査命令が下されました!」
王妃の顔がわずかにこわばる。
ルシアンは深く一礼し、踵を返した。
「これにて失礼いたします。次は、王の御前にてお話しいたしましょう」
王妃は静かに笑った。
その笑いには、かすかなひびが入っていた。
「愚かな男ね、ルシアン……。あの娘を守るために、王家すら敵に回すとは」
夜。ヴァレンヌ邸。
公爵は娘の部屋の前に立ち、しばらく扉を見つめた。
中では、フィオナが机に向かって何かを書いている。
「父上」
気づいた娘が顔を上げた。「王妃陛下と……お話を?」
「ああ。いずれ、法廷の場に立つことになるだろう」
「怖いですか?」
「怖くはない。ただ、長い戦いになる」
フィオナは微笑んだ。
「なら、わたしも戦います」
「おまえは、もう十分に強い」
公爵はそっと頭を撫でた。
その手は、剣を握るよりも優しかった。
――翌朝。
王都全域に一枚の布告が貼り出された。
《王妃クラウディア陛下、財務局監査対象とする。臨時審理、近日開廷》
街はざわめき、貴族たちは顔を見合わせた。
そして、人々の口にひとつの名が広がる。
――断罪公爵、再び動く。
次回 第4話「王太子の罪」