第2話 王都裁判、開廷
重厚な扉が閉じられる音が、静寂を切り裂いた。
王都大広間。普段は祝宴や謁見に使われるその場所が、今日は裁判の場として姿を変えている。壇上には王国の紋章旗。中央に立つのは、冷徹な瞳をもつ司法長官マクシミリアン。そして、左右には原告席と被告席。
ざわめきが、波のように押し寄せては引いていく。
「――開廷を宣言する」
木槌が、乾いた音を立てた。
その音を合図に、すべての視線が一点へ向かう。
ルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵。
漆黒の礼服に身を包み、背筋は矢のように真っ直ぐ。
隣の席には、まだ青ざめた顔の娘フィオナが座っていた。
対する被告席には、王太子レオンハルト。金糸の髪を揺らし、どこか余裕を漂わせた笑みを浮かべている。その横にはエルマー・グレイソン、さらに白扇を携えたエメリア伯爵令嬢。
まるで芝居の舞台だ。だが、誰も笑わない。
ここで敗れた者は、名も家も地に落ちるのだから。
◇
「原告、発言を許す」
長官の声に、ルシアンは一歩前へ出た。
書類の束を片手に、低く響く声で口を開く。
「本件は、王太子殿下による一方的な婚約破棄、及び寄付金の不正流用疑惑に関するものである。
殿下の婚約者であった我が娘フィオナ・ド・ヴァレンヌに対し、理由なき破棄を宣言したうえ、孤児院寄付金を個人遊興に流用した証拠が存在する」
「異議あり!」
エルマーが即座に立ち上がる。
「寄付金の件は我らに関係ない!」と声を張り上げたが、公爵は一瞥もくれなかった。
「殿下に関係がない? ならば、この書類を説明していただこう」
公爵が差し出したのは、先日入手した受領書の写し。魔力痕が淡く光る。
長官がその書類を浮遊魔法で掲げると、会場にどよめきが走る。
「王立孤児院運営費十二万クラウン――受領者、宰相補佐代理エルマー・グレイソン。仲介、伯爵令嬢エメリア。殿下の署名印影付き。……なるほど、確かに殿下の魔力波形と一致しているな」
「そ、それは! 殿下が知らぬ間に!」
エルマーの額に汗が浮かぶ。
殿下が顔をしかめた。
「エルマー、これはどういうことだ?」
「お、お戯れでございます、殿下! 書類の形式だけ――!」
「その“戯れ”のために、孤児たちは寒空の下で飢えている。あなた方の杯に注がれた金でな」
公爵の声は静かだった。だが、静かだからこそ重い。
長官の眉がわずかに動く。
「魔力鑑定の結果は、すでに王都司法局で確認済み。虚偽があれば、あなたの魔力が焼き印として浮かび上がる。さて、試してみるか?」
エルマーの膝が音を立てた。
その瞬間、観衆の一部が息をのむ。
“公爵閣下が本気で王太子に喧嘩を売った”――その確信が広がっていく。
◇
「原告側証人、クロード・リヴェール。入廷を許可する」
黒衣の青年が進み出た。
調査報告書を提出し、淡々と証言を重ねていく。
「寄付金帳簿の改ざんは、エメリア伯爵令嬢の屋敷内で行われました。
魔力痕は伯爵家の紋章魔力と一致。複数の使用人が“殿下のご命令”として口外を禁じられています」
「虚言だわ!」
エメリアが立ち上がり、扇で顔を隠した。「私がそんなことを!」
「では問おう、令嬢」
ルシアンが静かに問いかける。
「孤児院の寄付控帳に残る“あなたの署名”は偽造か?」
沈黙。
会場が一瞬、凍りついた。
「……それは、王太子殿下の……ご命令で……!」
叫んだ瞬間、殿下の顔色が変わる。
会場が騒然となり、護衛たちが前に出る。
「エメリア、黙れ! 貴様、自分が何を――」
「殿下!」
長官の声が割って入る。「法廷における発言の制止は認められぬ。証言を続けよ、伯爵令嬢」
涙混じりの声が震えながら続いた。
――寄付金の改ざんは、殿下の側近エルマーが主導した。
――殿下はそれを知りつつ、黙認した。
――破棄の理由は“娘が真実を暴こうとしたから”。
フィオナは唇を噛んでうつむいた。
公爵は彼女の肩にそっと手を置き、前へ進む。
「殿下。今、明らかになったのは“あなたが娘を傷つける理由”だ。
彼女が正しかったからこそ、邪魔だった」
「……くだらん。私は王太子だぞ。誰が私を罰する!」
「法だ」
ルシアンの声が低く響く。
「王族であろうと、罪は罪。あなたが守るべき国の掟は、あなた自身をも縛る」
木槌が再び鳴る。
長官が立ち上がり、判決の前段を告げる。
「本件、証拠および証言により、寄付金不正の事実を確認。王太子殿下レオンハルト、及び宰相補佐代理エルマー・グレイソンは、臨時停職のうえ財務局監査を受けるものとする」
どよめきが広がった。
殿下の顔から笑みが完全に消える。
ルシアンはゆっくりと振り返り、娘に目を向けた。
彼女は泣いていない。ただ、小さく頷いた。
◇
裁判が終わった後、長い廊下の先で、王太子が公爵を呼び止めた。
護衛たちは遠巻きに控えている。
「……覚えていろ、公爵。父上が戻られれば、おまえの首など――」
「私の首より、娘の名誉の方が重い。覚えておくのは、そちらだ」
ルシアンは背を向け、歩き出した。
王太子の声は追ってこなかった。
廊下に響く靴音だけが、静かに続いていく。
◇
その夜。
ヴァレンヌ邸の庭園で、ルシアンは娘と並んでいた。
満月が静かに降り注ぐ。
「……怖くは、なかったか」
「少し。でも、お父さまが隣にいてくださったから」
フィオナは微笑んだ。
公爵の胸に、ようやく重いものがほどけていく。
「おまえは正しい。正しい者が泣かされる国に、未来はない。
私は――父として、それを正しただけだ」
風が、白い薔薇を揺らす。
その花びらが一枚、夜空へ舞い上がった。
そして、ルシアンの瞳が再び鋭く光る。
「だが……まだ終わりではない。
殿下の背後に、“黒幕”がいる。エルマーごときでは動かせぬ金の流れだ」
彼は夜空を見上げた。
月が雲に隠れた瞬間、ひとすじの影が屋根を走った。
クロードだ。
「報告です、公爵閣下。――王妃陛下が、寄付金帳簿に署名を」
風が止まった。
「……そうか。やはり、そう来たか」
ルシアンはゆっくりと立ち上がる。
その背は、王国の闇に向かって再びまっすぐだった。
──第3話「王妃の影」へ続く。