表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ルシアン公爵、娘の仇を討つ。〜婚約破棄した王太子を法廷で叩き潰します〜  作者: しげみち みり


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/6

第1話 娘の婚約破棄、父が動く

 「――婚約を、破棄……?」


 銀のグラスが、卓上で静かに鳴った。

 ルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵は、夜会の余韻も残る私室で、執事の報告を一度だけ復唱した。声に怒気はない。だが、部屋の温度だけがふっと下がる。


「はい……王太子殿下レオンハルト様より、本日付にて。理由は“品位に欠ける振る舞いが目立つため”と」


「品位に欠けるのは、どちらだ」


 公爵は立ち上がり、外套を取った。肩にかける手つきが静謐すぎて、むしろ嵐の前触れに見える。


「フィオナは?」


「お部屋に籠っておられます。涙で……」


「案内は不要だ」


 扉を開ける音さえ、刃のように鋭かった。


 ◇


 フィオナの部屋は、香の薔薇がわずかに香る。ベッド脇には、白い手袋と淡水真珠のチョーカー。王都中の女の子が羨む“王太子の花嫁支度”――そのはずだったもの。


 毛布からのぞく肩が震えている。

 公爵は近づき、立ったまましばらく黙した。娘の嗚咽を、言葉で遮るのは不作法だと知っているからだ。


「父上……申し訳……なくて」


「おまえが謝る筋合いはない」


 短い言葉に、毛布がぴたりと止まる。公爵は椅子を引き寄せ、低く穏やかに続けた。


「事情を、順に話せ」


「……舞踏会の最中、殿下はわたしの目の前で、伯爵令嬢エメリア様の手を取って踊られました。皆の視線が集まる中で、“真実の愛は見つかった。婚約はなかったことに”と……。わたしが、殿下のご機嫌を損ねたせいだ、と噂まで」


 フィオナの指が、チョーカーを無意識に握る。白がきしんだ。


「噂の出所は?」


「わかりません。殿下の側近たちが……わたしの“学識ぶり”を嫌っているのは知っていました。余計な口出しをする女だって」


 公爵の眼差しが、わずかに細くなる。

 “学識ぶり”――それは家が誇る教育の成果であり、王妃の要請で始まった宰相補佐教育でもある。娘の才を疎ましく思う者は、王宮に少なくない。


「……わたし、殿下に、エメリア様の寄付金の帳簿の不備をそっとお伝えしました。王立孤児院への寄付の数字が、毎月ちがうのです。殿下は“つまらない”と笑って……その夜に、婚約破棄が」


 公爵は、そこで初めて息を短く吐いた。

 娘は正しい。ならば、誰かが間違っている。

 間違いは、正す。


「よく話した。泣くのは後でいい」


 彼は立ち上がると、召し鈴を鳴らした。


「執事。〈影紋〉を呼べ」


「畏まりました」


 ◇


 〈影紋〉。ヴァレンヌ家が代々、表の騎士団と別に抱える調査網の名だ。王都の裏通りから王城の梁まで、光が届かぬ場所に足跡を残す者たち。


 現れたのは黒衣の青年だった。名をクロードという。


「ご当主、御用は」


「王太子殿下と伯爵令嬢エメリアの交友、そして孤児院寄付の帳簿。関連する者の名、金の流れ、全てだ。期限は――」


 公爵は一瞬、娘の部屋の方向に視線をやった。

 柔らかな泣き声は、もう聞こえない。


「――夜明けまで」


「……承知」


 影は、床の影に溶けた。


 ◇


 真夜中。王都を流れる風は、今夜に限って冷たい。

 公爵は書斎で、魔力結晶の明かりを低く灯し、古い法典を開いた。表紙には金の箔押しで『王都裁判規定集』とある。彼は迷わない。怒りは剣を鈍らせるが、手続きは刃を研ぐ。


 ――王太子といえど、王都裁判においては証人として立つ義務がある(第十二章・王族規定)。

 ――婚約破棄は、当事者の一方の一方的意思に拠る場合、名誉毀損および契約不履行が成立する(婚姻章・第二十七条)。

 ――公益目的に反する私的寄付の偽装は、王家の庇護を失う(財務章・第六条)。


 公爵は、栞を挟んで閉じた。

 そのとき。窓を叩く、軽い音。

 カーテンを払うと、黒影がひらりと降りた。クロードだ。


「早いな」


「王都は眠らない」


 クロードは、封蝋の付いた封筒を差し出した。王都孤児院の印章。開くと、中には複写の帳簿。列の合間に、白い空欄。そこに微かな削り跡。数値は、毎月“丸められて”いる。


「削り粉を集めて魔力鑑定にかけた。エメリア伯爵家の紋章魔力と一致……そして、こちらが今夜の舞踏会の裏口で交わされた受領書の写し」


 クロードはさらに、一枚の紙を出す。

 “舞踏会運営費用補助 十二万クラウン 受領者:宰相補佐代理 エルマー・グレイソン。仲介:伯爵令嬢エメリア”。

 署名の魔力痕が、薄く青く浮かんでいる。


「殿下の側近、グレイソンが動いていたか」


「はい。殿下の遊興費に流れた可能性が高い。孤児院への寄付の穴埋めに、舞踏会費を回していた形跡も」


 公爵の指が、封筒の縁で止まった。

 怒りは、まだ語尾を乱さない。ただ、刃がさらに研がれていく。


「十分だ。――法廷を開く。王太子殿下にも、証人席の座り心地を味わっていただこう」


 ◇


 夜が明けるころ、ルシアン公爵は王城の門前にいた。

 執務開始前。門番の騎士たちは慌てて整列し、膝を折る。門は、重い音を立てて開いた。


「ヴァレンヌ公爵閣下、突然のご来城、いかなる御用で」


「司法長官に通達せよ。王都裁判の開廷申請だ。案件名――“王太子レオンハルト殿下による婚約破棄および財務不正疑惑について”」


 騎士の喉が、硬く鳴った。

 王太子の名と“疑惑”を、公然と並べること自体が、王都では雷鳴に等しい。


「お、お待ちを……殿下のお耳に入れずに、そのような――」


「規定集第十二章。王族であっても、訴えが起きた時点で司法長官の所管だ。私は手続きを踏んでいる。邪魔をするなら、規定集の朗読から始めようか?」


 静かな圧。騎士は直立のまま震え、やがて道をあけた。


 石畳の上を歩く靴音が、規則正しく響く。

 王城に入る公爵の背は、いつもどおり真っ直ぐだ。だが、いつもと違うのは、彼の影が長く鋭く伸びていることだった。


 ◇


 司法局の扉が開く。

 分厚い書類の匂い、乾いた羊皮紙のざらつき。

 司法長官マクシミリアンは、老眼鏡を上げ、来訪者の名を確認すると、眉を高くした。


「……おやおや。朝一番の来客が、王家の重鎮とは。さては、ただ事ではないな」


「ただ事ではないから来た。開廷申請書は既に整えてある。証拠目録と証人名簿も添付した」


 公爵は、手早く書類を置く。

 長官は一枚一枚をめくり、やがて小さく口笛を吹いた。


「孤児院の帳簿、鑑定済みの魔力痕、舞踏会運営費の受領書の写し……ふむ。王太子の側近が噛んでいる気配は濃厚だ。――だが、公爵。これは王家を敵に回す手続きだ。覚悟は」


「娘が泣いた。私の覚悟など、とっくに済んでいる」


 長官は、老いた瞳で公爵を見つめ、やがて頷いた。


「よろしい。午后三の鐘――本日、臨時開廷としよう。王太子殿下には、証人としての出廷命令を出す。……城の上は、しばらく騒がしくなるぞ」


「下も同じだろう」


 公爵は立ち上がり、礼をして踵を返した。

 扉に手をかけたところで、長官の低い声が飛ぶ。


「公爵。――私情で剣を振るうのは簡単だ。だが、ここは法の場だ。あなたはいつもどおり、“最も冷たい手”で来ると信じている」


 ルシアンは短く笑った。


「最も冷たい手で、“最も熱いもの”を守る。それが、父という職務だ」


 ◇


 王都に、噂が走る。

 「公爵が、王太子を法廷に呼ぶらしい」

 「伯爵令嬢エメリアの名も出ている」

 「孤児院の帳簿に、何か――」


 昼前。公爵家の玄関に、ひとりの来客が現れた。

 派手な赤の外套、金の刺繍。王太子の側近、エルマー・グレイソンだ。取り巻きの騎士たちが空気を張りつめさせる。


「ヴァレンヌ公爵。少々、行き違いがあったようで。殿下はお怒りだ。今すぐ申請を取り下げ、謝罪を――」


「客を通せ」


 公爵が姿を現すと、エルマーはわざとらしく笑みを広げ、歩み寄る。


「公爵。若い者の恋路には、行き違いもある。あなたほどの方が、たかが婚約破棄で法廷とは。王家への忠誠をお忘れかな?」


「忠誠とは、王家の面子に盲従することを指さない。王家が守ると誓ったもの――民と法の秩序にこそ捧げる。私の家は代々、そう教わってきた」


 エルマーの笑みが、わずかに引きつる。

 公爵は一歩近づき、囁くように言った。


「ところで、宰相補佐代理殿。舞踏会運営費の受領書に、“あなたの名”がある。魔力痕も、確かにあなたのものだった」


 取り巻きがざわめく。エルマーの目が一瞬泳いだ。


「馬鹿を言うな。偽造に決まっている。そんな紙切れで私を――」


「“紙切れ”の重さは、法廷で量ればいい。三の鐘に、王都大広間で会おう。あなたも証言台に立つ。逃げたくば、今のうちだ」


 エルマーは口を開いたが、言葉は出ない。

 やがて、踵を返して去った。赤い外套が、昼の光ににじむ。


 公爵は玄関の柱に手を置き、短く息を整えた。

 視線の先、二階の窓辺に、淡い影が揺れる。

 フィオナが、カーテン越しに父を見ていた。


 彼は片手を胸に当て、軽く会釈してみせる。

 ――任せておけ。

 言葉にはしない誓いが、昼の光に溶けていった。


 ◇


 午後。三の鐘が近づくほどに、人々は王都大広間へ吸い寄せられる。

 王国の紋章旗が垂れ、壇上には証人席、弁論台、裁定席。石床は磨かれ、音を吸わない。


 扉が開くたび、人の波が揺れた。

 そして、鐘が三度鳴り終わった瞬間――


「王太子レオンハルト殿下、入廷」


 ざわめきが爆ぜる。

 青い礼服の若者が、軽い笑みを浮かべて入ってくる。視線は公爵を一瞬だけ刺し、すぐに逸らした。その後ろに、エルマー・グレイソン。さらに、伯爵令嬢エメリアが白い扇で口元を隠しながら続く。


 裁定席に司法長官が座り、木槌が静かに落ちた。


「これより、臨時開廷を宣言する。案件名――“王太子レオンハルト殿下による婚約破棄および財務不正疑惑について”。原告代理、ルシアン・ド・ヴァレンヌ公爵。被告側、王太子殿下および関係者一同。双方、用意は」


 公爵は進み出て、深く一礼した。

 視線は一度も、足元を見ない。


「――用意は、とうに」


 その声は、よく研がれた剣のように、まっすぐだった。

 大広間の空気が、きり、という音を立てた気がした。


 父の断罪劇が、ここから始まる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ