地球最後の怒れる男
あるところに、めちゃめちゃ怒っている男がいた。彼の怒りの炎はすさまじく、憎い相手を殺したあとも激しく燃えさかっているほどだった。そこで男は、憎い相手とは無関係の人々に八つ当たりをしだした。
怒れる男は超人的なスタミナとパワーと俊敏さで通行人に襲いかかり、通行人以外にも襲いかかり、警察も軍隊も返り討ちにしてしまった。車や列車、船や飛行機を奪い、世界中のどこへでも行って都市という都市を破壊し尽くした。怒れる男の通ったあとにはぺんぺん草一本さえ残らず、ついに彼は八つ当たりの標的を見つけられなくなった。そのとき本当に、八つ当たりの標的にできそうな生き物すべてを、滅ぼしてしまっていたのだ。
この世界にはヤバい思想信条の持ち主がいくらでもいたが、そういう人が警察のお世話になるのは、ヤバい思想信条を公言したり、ヤバい態度で匂わせたり、ヤバい行動に移したりして、周囲の人々に迷惑をかけたときだった。ヤバい人がヤバい人自身の頭の中で考えているだけなら、どんなにヤバい思想信条であっても、まだ誰にも迷惑をかけていないという点では、ヤバい思想信条など持っていないのと同じである。
人類すべてを滅ぼし尽くした怒れる男は、地団駄を踏んだり、悶絶したり、駆けずり回ったり、ウンコを漏らしたりして、全身で怒りを表現したが、そのとばっちりを受けて困る相手がどこにも残っていないので、なにもしていないのと同じだった。どんなに怒り狂っても、彼はもはや“無”だった。
それでも怒りがおさまらない男はたったひとり、最後の相手に怒りの矛先を向けた。じっくりと味わうように自分自身を痛めつけたが、超人的と思えた生命力にも限界があった。死神が彼を連れ去ったとき、怒りの主体も客体も地球上から消えた。
喜劇も悲劇も殺し合いも起こりようがなかった。こうして誰もいない世界に静寂がもたらされた。
おわり