あたたかさ(短編版)
いつからだっただろうか。
他者に意見を言わなくなったのは。
いつからだっただろうか。
視界がモノクロになったのは。
いつからだっただろうか。
食事の味がしなくなったのは。
いつからだっただろうか。
…声を出せなくなったのは。
ずっと、誰かの言いなりだった。そうじゃないと、怒られるから。
父の言いなり。母の言いなり。先生の言いなり。同級生の言いなり。上司の言いなり。同僚の言いなり。
それでよかった。その方が、怒られたりしないから。何もかもが上手くいくから。
だから、できる限り“自分”を封印した。
物を見る事に意味を見出そうとしなかった。
物の味に意味を見出そうとしなかった。
声を出す事に意味を見出せなくなった。
誰に何を言われても、動いた。
色の判別が付かなくて怒られても。
食事会を断って『付き合いが悪い』と言われても。
働いて、働いて、働いて。
倒れた。
☆ ★ ☆
目が覚めると、知らない場所だった。
服も、見たことない服。近代ヨーロッパの庶民服だろうか。
「あ、目が覚めた?おはよ〜」
知らない女の子の声。「誰?」と聞こうとしたが、酷く掠れた呼吸音が漏れて、喉が痛むだけだった。
「あっ、無理に喋らなくていいよ。上手く喋れない事とか諸々は神様から聞いてるから」
迷惑かけないように、と思っていたけれど、神様とやらに先回りされていた。
これからどうなるのだろう。
「神様から伝言預かってるから読み上げるね。『お前さんは自分を殺しすぎだ。いわゆる異世界の方でゆっくりできる場所を用意出来たから、そこでしっかり休みなさい』…だってさ」
………これから、本当にどうなるのだろう。
「はい、重湯。神様曰く『胃腸が弱っている可能性が高い』だって。無理に完食しなくてもいいからね!」
まるで病人のようだ。木の匙で重湯を掬いながら、そう思う。
別に、普通の食事を出してくれてもいいのに………とも思いながら、口に運ぶ。
やはり、味はしない。
でも、どうしてだろうか。
今まで、何も―――流動食でさえも―――喉を通らなかったのに。無理矢理通しても、吐き戻してしまうだけだったのに。
どういう訳か…無理せず完食出来てしまった。
「わっ!?すごい!完食!!」
この子は、どうして他人の事でこんなに喜べるのだろうか。
それにしても、何もかもお世話されっぱなしというのは良くない。
「………ぁ゛……の」
「わっ、喋れるようになったんだ!無理はしないでね」
本当に、どうしてこんな些細な事でこんなに喜べるのだろうか。
「て…つ、だぃ…す…る……」
まだ喋ろうとする度に喉が痛む。けど、頑張って喋った。
するとどういう訳か、少女は一層優しい目つきになり、困ったように笑った。
「今は回復に専念しな〜。お手伝い中に倒れたら大変だし」
そう言われ、何故かおでこをつつかれた。
自分より年下の少女にお世話されるなんて、恥ずかしい。早く治さないと。
夜。
どうやら少女とは一緒に寝るようだ。
「ねえ、お姉さん。お姉さんは、どうしてずっと誰かの言いなりになってたの?」
心配そうな声で、そう聞いてきた。昼間のうちに渡されていた鉛筆(庶民でも買えるらしいが元居た世界より少々高い)とメモ帳(こちらも同じく)で、答えを伝える。
『その方が、誰にも怒られないから』
「怒られるって、誰に?」
『両親とか、先生とか、上司とか』
「………元の世界、戻りたい?」
『戻らないといけない』
「どうして?」
『そうじゃないと、怒られるから』
「誰に?」
誰って、そりゃ………誰?
誰に怒られるの?そもそも私が帰らなければ、怒る人に会わない…
そんな事を考えていたら、急に抱きつかれた。
「…ごめん、意地悪な質問しちゃった。辛かったよね。怖かったよね。もう大丈夫、この世界には、あなたを怒る人なんて居ないから」
そう言って、少女は頭を撫でてきた。
どうして、この少女は私なんかにここまで優しくしてくれるのか。
このふわふわする気持ちは、何と言うのか。
両目から零れる妙に熱い液体は、何と言う名前だったか。
何もかもが分からないまま、大人として情けない姿のまま、その日は終わった。
加筆修正分割の上、連載化が決定しました。
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