第3話 一夜の交渉
「……マジか」
カレンは額に手を当て、かすかにうめいた。
所持金は一万ゴールドと少し。魔獣との戦闘で仲間とはぐれ、ろくに休息も取れないまま森をさまよっていた。そして、ようやく見つけた人の営み――この〈翡翠亭〉が、一泊五万ゴールドなどと言い出すとは。
体力も、財布も、限界だった。
「……ひとつ、頼みがある」
そう言ってカレンは、懐から革袋を取り出し、カウンターの上にそっと置いた。
「今持っているのは、一万ゴールドだけなんだ。部屋が無理でも……せめて、夜が明けるまでここに居させてくれないか。頼む」
不器用な言葉だった。だが、頭を下げたその姿には、真剣さと疲労がにじんでいた。
受付の奥に立つ男――ユカワは、しばし無言でカレンを見つめ、それから目を伏せて、考え込むような素振りを見せた。
やがて、静かに口を開く。
「……かしこまりました。では、ひとつご提案をさせていただいてもよろしいでしょうか」
カレンが顔を上げる。
「ん? なんだ?」
「実を申しますと、当館は本日が開業初日でございまして……そして、貴女様が最初のお客様でいらっしゃいます」
「……え? マジで?」
「はい。正直なところ、まだ町にも情報が出回っておらず、ほとんどの方に認知されておりません。ですので――」
ユカワは一度言葉を切り、真っすぐにカレンの目を見据えた。
「この宿のことを、後日で構いませんので、町などでお話しいただけるのであれば――特別に、一万ゴールドでのご宿泊をお受けしたいと存じます」
カレンは目を瞬かせた。
「……あたしが、宣伝するってこと?」
「左様でございます。無理のない範囲で結構です。人づてに伝わるだけでも、大きな助けとなりますので」
その提案を聞いた時、カレンは心の中で「思わぬ幸運だ」とほくそ笑んだ。
だが同時に、こうも思った。
「……ほんとに、それだけでいいのか?」
疑いというより、素直な驚きから出た問いだった。
だが、ユカワの返事は即答だった。
「私どもとしましては、大変ありがたいことでございます」
あまりにあっさりとした返答に、カレンは思わず肩をすくめた。
「……わかったよ。それなら、ありがたく甘えさせてもらうよ」
ユカワは深々と頭を下げる。
「快くお引き受けくださり、誠にありがとうございます」
「そんなに感謝されても……あたしの方が、よほど助かってるんだから」
カレンは照れくさそうに笑い、革袋を差し出した。
「これで、今夜一泊ってことで、いいんだよね?」
ユカワは袋の中身を静かに確かめると、満足げに頷いた。
「はい。確かに頂戴いたしました。――改めまして、ようこそ〈翡翠亭〉へ」