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第1話 剣と湯煙

 刃が軋み、火花が散った。


「っ――!」


 カレンは剣を構え直す。弾き返された衝撃が手のひらに残り、鼓動は耳をつんざくほどに高鳴っていた。


 森の奥――本来なら静寂に包まれているはずの場所は、今や戦場と化していた。


 大気を震わせる咆哮、地面を抉る巨大な爪。音と衝撃、そして本能を揺さぶる恐怖が全身を駆け巡る。


「リーダー、引け!」


「……私が殿(しんがり)を務める! 行け!」


 仲間たちの声が遠ざかる。叫びに背を向け、カレンは剣を握ったまま一歩を踏み出した。張り詰めた緊張の中、一瞬の隙を突き、全身の力を込めて地を蹴る。


 剣を握る手が震える。痛みよりも、体力の限界が近い。


 戦いは想像以上に長引いていた。最初に現れた魔獣は、手強かったが想定の範囲内だった。だが――


 あれは、想定外だった。


 別の個体が突如現れ、襲いかかってきたのだ。あのとき撤退を選ばなければ、全滅していただろう。その判断が誤りだったとは、カレンは思っていない。


 ――とはいえ、状況は最悪だ。背中を押して送り出した以上、頼れる仲間はもういない。


 「……カッコつけたはいいものの、さて、どうしたものか」


* * *


「……くそっ」


 木の根に足を取られ、カレンの身体がよろめいた。足は重く、全身が泥と血で汚れている。左腕には切り傷、脇腹には打撲。だが、致命傷ではない。


 ここがどこなのか、分からなかった。地図のない森の奥深く。暗い世界の中、彼女はただ前へと歩を進めていた。


 背後に気配はない。魔獣の追撃がなかったのは、不幸中の幸いだった。身体は汗と血に濡れ、衣服が肌に張り付き、体温をじわじわと奪っていく。


「限界だな……」


 カレンは小さく息を吐く。


 ……あのとき、奴らの様子が急変した。


 瀕死の魔獣が暴れ出し、仲間同士で争い始めた――まるで正気を失ったかのように。


 あの混乱がなければ、きっと逃げられなかった。


 だが、助かったという実感はなかった。ただ、ひたすらに足を動かし、森の中を逃げ続けた。

 息は荒く、視界は揺れている。それでも立ち止まることはできなかった。


 ――そんなときだった。


 薄暗い木々の向こう、視界の先に、かすかに何かが見えた。


 ――道?


 よく見れば、それは確かに道だった。獣道などではない。平らに整えられた長方形の石が、何枚も地面に敷き詰められている。


 こんな未開の森の奥に? 思考が追いつかない。


 けれど、疑問よりも先に、直感が告げていた。


 ――この道をたどれば、助かるかもしれない。


 カレンはためらわずに歩き出した。


 足音が石畳に反響し、ぬかるんだ地面では味わえなかった確かな感触が足裏に伝わってくる。それだけで、ほんの少し心が軽くなった。


 道はゆるやかな坂になり、やがて周囲の木々は細くなっていった。


 その景色は、見慣れぬ植物――節のある長い茎に、薄い葉を揺らす、この地にあるはずのない植物――【竹】へと変わっていく。


 風が吹くたび、葉と葉がこすれ合い、涼やかな音が森に満ちた。


 風の香りも変わっていた。木の匂いに混じって、どこか温かく、不思議な香りが鼻をくすぐる。……湯の香りだ。


「まさか……温泉?」


 信じがたい思いと、かすかな希望が胸に灯る。


 さらに進むと、視界がふいに開けた。


 道は小さな丘へと続き、その頂に――竹林に抱かれるようにして――一軒の風格ある屋敷が、静かに佇んでいた。


 漆黒の瓦屋根に、木目の美しい外壁。入口には巨大な門があり、その上に掲げられた看板が目に入る。


 ――〈森の湯宿・翡翠亭〉


「翡翠亭……」


 まさか、こんな森の奥に宿があるとは思わなかった。


 けれど、それは確かに存在していた。夢でも幻でもない。明かりが灯り、門の奥には美しい回廊や中庭のようなものが見える。


 あまりの光景に、カレンはしばらくその場に立ち尽くしていた。


「……本物、なんだよな?」


 カレンはそっと手を伸ばし、門柱に触れた。

 伝わってきたのは、ほんのりと温かな木の感触。血と汗にまみれた自分には、それがあまりにも清らかで、穏やかに感じられた。


 心のどこかで、まだ疑いは拭いきれない。


 けれど、これ以上森をさまようわけにはいかなかった。


「……泊めてもらえるよな?」


 風格漂う巨大な門をくぐり、カレンは意を決して、扉に手をかけた。

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