子爵夫人を迎えましたが妻の元気が有り余っています。
その日、レクスター・ルクスは自らの商会で幾つかの簡単な仕事を片付け、午後になると早々に帰宅していた。
商売が軌道に乗り、商会の皆からもっときちんと休むべきだと言われて強制的に明日から三日間の休暇を取らされたからだ。
結婚式のやり直しから早数ヶ月。
いまだに社交の場では厳しい目を向けられることもあるが、それでも少しずつ立場は回復しており子爵としての交流も増えてきている。
確かにこの辺りでゆっくりと夫婦水入らずの時間を取るのも悪くない。
今回の三日間の休暇中に商会の方がうまく回るようなら、今後はもう少し長めの休暇も検討しよう。
そんなことを考えつつ、途中で妻のために花を買ってレクスターが帰宅したのは、ちょうど妻のリュシエンヌが市場に買い物に出た後だった。
本来なら、子爵夫人であるリュシエンヌが自ら市場に赴いて食材を調達する必要はない。
そのための使用人はちゃんと他にいるのだ。
けれどリュシエンヌは市場の活気というものが好きなようで、今でも度々自ら買い物に出掛けている。
(まぁ、息抜きになるのなら……)
買ってきた花を使用人に渡してから侍従が淹れたお茶を飲み、レクスターは久しぶりにゆっくりと新聞を読む。
早く帰ることは伝えてあるからリュシエンヌもそこまで遅くはならないはずだ。
そうしてレクスターが購入したまま積みっぱなしになっていた本を読み漁ったりなどして過ごすこと小一時間。
若いメイドがおずおずとレクスターを呼びにきた。
「あの、あのぅ、旦那様。奥様がキッチンでお待ちです」
「キッチンで?」
「えぇ、はい、キッチンで、です。至急とのことで……」
至急キッチンに来いとは一体どういうことだろうか。
何かキッチンの設備にトラブルでもあったのか。
それとも市場で喧嘩にでも巻き込まれたのか。いや、誰かに喧嘩をふっかけたという線も捨てきれない。だってメイドが頑なに目を合わせようとしない。今度は一体何をしたんだ。
レクスターが慌ててキッチンに顔を出すと、キッチンの真ん中で妻が仁王立ちしていた。
大きな魚の尾鰭の付け根を握って持ち、えっへんと胸を張っている。
その姿はどことなく広場にある敵将の首を取った英雄像に似ていた。
レクスターはその姿を見て、これは今までになかったタイプだなと思いながら問うた。
「えぇと、それは?」
「今日の戦果よ!」
戦果。
口の中で繰り返し、再びリュシエンヌの掲げた魚を見る。
大きくて、おそらくは白身の魚だ。
その魚と目が合ってしまった気がして、レクスターはそっと魚から視線を外した。
一方、リュシエンヌは魚を持ったまま鼻を鳴らして言った。
「市場で魚を買おうとしたら、魚屋の主人が『お嬢さんの細腕に持てる魚なんて置いちゃいないよ』なんて言うのよ。少しくらい持てるわって返したら、持てるもんならやってみろって。持てる魚があるならお代はいらないって言うから、とりあえず一番高くて美味しい魚を頂いてきたわ!」
「そうか……」
それは魚屋の主人が少しかわいそうだな。
レクスターは喉元まで出かかったその言葉を飲み込んで、紳士的に頷くのみに留めた。
「まったく、私のことをなんだと思っているのかしら」
「それは……多分見たままだと思うが……」
リュシエンヌは見た目だけなら教会の宗教画に描かれた聖女のような女性だ。
淡い金色の髪。宝石のような薄青の瞳。肌は透けるように白く、薔薇色の唇はふっくらとして愛らしい。
儚げな笑顔を浮かべたリュシエンヌは、華奢な身体つきもあって、それこそレースの扇子だとか一輪の薔薇以上に重いものなど持てないようにさえ見える。
実際はこうして大きな魚も持つし、市場から逃げ出した子山羊を捕まえて担ぎ上げるし、キッチンからベーコンを盗んだ猫を追いかけて庭の花壇を飛び越え全力疾走することもあるし、井戸から水桶を運んだりもする。パン種を親の仇のように渾身の力を込めて調理台に叩きつけながら捏ねていることもあった。
レクスターもリュシエンヌに倣って家事を手伝ったことがあるが、あれはけっして軽いものではない。しっかりと重めの肉体労働だ。
ただ、リュシエンヌが軽々とそれらをやってのけているだけなのである。
その細腕にどうしてあれだけの力が宿っているのだろうか。
レクスターはいまだに不思議でならない。
──リュシエンヌの母曰く、『あの娘を見た目通りに受け止めてはいけない』という。
これは結婚の際に義母から贈られた『リュシエンヌ取扱説明書』の序文に書いてある言葉だ。
見た目に惑わされてはいけません。痛い目に遭うのはあなたです。
説明書にはそのように書かれていた。痛い目に遭う、と確定して書かれているのがポイントである。
他にも、口許が笑っていて目が笑っていない時は、まず何か一口サイズの甘味を与えて様子を見ることや、暴れ出しそうになっている際には睡眠不足が疑われるので毛布などで包んで一定のリズムで身体(特にお腹や背中)を軽く叩いてみることだとか、説明書にはそのようなことが一通り書かれていたが、レクスターは一番最後のページに書かれている内容を最近特に強く噛み締めている。
そこには『リュシエンヌのあの見た目は、本人は武器のつもりでしょうが、母である私からしたら呪いです。あの子の本質は外見ではなく輝く太陽のような生命力にあります。どうか娘が普通の貴族夫人より活動的であったとしても多少は目を瞑ってやってください』というようなことが書かれており、レクスターも生き生きとしたリュシエンヌの様子を見るとそれだけで自分も活力を貰った気がするので、その言葉には概ね同意しているのだ。
大人しく夫の隣で微笑むだけの美しい子爵夫人。
社交界では確かにそういう需要もあるだろうし、もしもレクスターがそのように望めば彼女はその通りに振る舞っただろうが、レクスターはどちらかといえばリュシエンヌの儚げな笑顔よりも、やんちゃな仔猫のようなどこか悪戯っぽい笑顔が好きだ。
そう、例え時々少しだけ物騒な言動があったとしても、ただ笑顔を貼り付けただけの姿よりは余程良い。
「あの魚屋の主人たら人を馬鹿にして……。頭に来たから魚を受け取った時に転んだフリをして、こう腕を首にブチかまして──」
「リュシー、暴力はいけない」
「──やろうと思ったけど、お魚が傷むと困るからやってないわ。今回は想像しただけ」
「そうか。我慢が出来て偉いな」
チラとリュシエンヌを見遣ると彼女の手にある魚と今度こそ目が合って、レクスターは「これは今夜夢に出るな」と思った。
思ったが、とりあえずリュシエンヌが手の中の戦果に満足そうにニコッと笑ったのでつられてニコニコしていたのだった。
「今日は良いお魚が手に入ったし豪勢にいきましょうね。ねぇレックス、あなた魚料理が好きだったわよね?」
「あ、あぁ。肉料理よりも好きかもしれない」
「そんなに? なら腕によりをかけて色々作るわね!」
今夜の夕食は賄いだって豪勢にいくわよ!というリュシエンヌの宣言と共に魚が調理台にドンと置かれ、見事な手つきで捌かれていく。
使用人が増えてもリュシエンヌはこうして料理をしたがるし、なんなら使用人の賄いまで作りたがる。
今ではレクスターはリュシエンヌが料理をすることについては何も言わないが、今日は久しぶりにレクスターも家でゆっくり出来る日であるので、これだけはしっかり言わなければと小さく咳払いをして彼は口を開いた。
「あー……、私に何か手伝えることは?」
実はレクスターはリュシエンヌとの結婚(一回目)後に『友人から始める』という過程を経ており、その際に一緒にお菓子作りなども行っている。
製菓も料理もやってみると実に奥深いものであると知っているレクスターは、既にシャツの袖をまくり、ベストを侍従に預けていた。
いつもは仕事があってなかなか出来ないが、今日は時間があるから是非とも夕食作りに参加したい。
レクスターは料理をすることを厭わないタイプの子爵であった。
そんな夫の言葉にリュシエンヌは嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「じゃあ、あなたにしか頼めない重要なお仕事をお願いするわね」
「あぁ、なんでも言ってくれ」
「あのね『今日も可愛いよ、リュシー。愛してる』って言ってキスしてほしいの」
「はぁああ????」
突然料理とはなんの関係もないことを申し付けられたレクスターの声は裏返り、ボボボと一瞬で顔を真っ赤にして震えている。
「そ。そんな、そんなこと、きき、き、キッチンで言うようなことでは、な、ないだろう……!」
「そう?」
「そうだ!」
「うふふ。レックス、あなたって今日も本当に可愛いわね。大好きよ」
捌いている途中の魚を調理台に置き、手には魚を捌く包丁を持ったまま、リュシエンヌは真っ赤になった夫に近付くと少しだけ背伸びをして、ちゅ、と可愛らしいリップ音を立ててその頬にキスをした。
思わずレクスターの喉の奥からひゃあと小さな悲鳴が漏れたが、リュシエンヌはやっぱりニコニコ笑っている。
「リュシー、また私をからかって……」
「からかってなんかいないわ。心の底から可愛いと思っているし、愛しているもの」
「うぅ……」
「レックスは? 私のこと可愛いと思う?」
上目遣いでそう尋ねるリュシエンヌに、レクスターは真っ赤になってギュッと目を閉じ、目尻に涙まで溜めながらもこっくりと頷いた。
「……リュシーはせかいいちかわいい……」
ぽしょぽしょと告げられた言葉にリュシエンヌの頬がポッと薔薇色に染まる。
そしてリュシエンヌは御使から尊い託宣を受けたかのような厳かな声音で言った。
「皆、聞いた? 聞いたわね? 私の夫が世界一可愛いわ。これはもうお祝いとして一番上物のワインを出すしかないわ……」
その言葉に使用人たちが揃って頷いた。
「僕、ワインセラーに行ってきますね」
まず侍従がワインセラーに向かい。
「保管庫からチーズを出してまいります」
メイド長が踵を返し。
「えっと、ハムも切ります?」
一番若いメイドが吊るしてあるハムを視線で示して問うた。
「もう全部よ。全部やりましょう。私のとっておきの蜂蜜漬けのナッツも出して。あぁ、今私が魚の内臓を捌いたばかりでなければレックスのこと抱き締めて撫でくり回すのに!」
「は、はしたないぞ、リュシー!」
「そんなことないわ。いいこと、レックス。あなた、今夜は私の夜更かしにとことん付き合ってもらいますからね。ワインだってたくさん飲んじゃうんだから。……だから、」
「だから……?」
たくさん飲んだところでリュシエンヌはレクスターより酒に強い。
介抱が必要になるようなことはあるまい。
ようやく落ち着いてきたレクスターが冷静にそんなことを考えていると、リュシエンヌはポポポと目元を赤く染めて目を伏せた。
「……だから、明日は私とお寝坊して、ずっと一緒にいてくれなくちゃいやよ」
そう言うなり、リュシエンヌはパッと身を翻して調理台に向き合い、途中になっていた魚を捌く作業へと戻ってしまった。
置きざりにされたレクスターがリュシエンヌの背中を見詰めて考えることしばし。
「あっ」
今ではリュシエンヌの生態に随分と詳しくなっていたレクスターは、今までのリュシエンヌの行動全てがレクスターと一緒に過ごせる休暇にはしゃいでいたのだと悟って思わず口許を手で覆った。
張り切って市場で食材を仕入れてきたのも、レクスターの初めての休暇を特別に思っていたからだろう。
あまりに元気が良くてやることが突拍子なく見えるが、リュシエンヌはただ破天荒なだけの女性ではない。
いつだってそこには明確な理由がある。
リュシエンヌ・ルクスは美しくて教養があり、芯が強くて喧嘩も強く、そしてこんなに可愛らしい女性だ。
何より、多少有り余り気味ではあるが元気があるのは大変よろしい。
「リュシエンヌ」
「なぁに」
「やっぱり君は間違いなく世界一可愛いと思うよ」
「なっ!?」
思いきりよくこちらを振り向いたリュシエンヌの顔は、先程のレクスターに負けず劣らず赤く染まっていた。
自分から言う癖に不意打ちに弱いところも可愛らしい。
照れるリュシエンヌを見て、レクスターは笑いながら野菜の皮剥きを始めるのだった。
そして、その様子を空気に徹して見ていた使用人たちは、少しだけ二人きりにしてあげようと顔を見合わせて頷き合い、不自然にならないように一人ずつこっそりとキッチンを出て廊下から中を覗き込む。
二人はまだまだ新婚である。
仲睦まじいのは大変よろしい。
それに屋敷の使用人たちはリュシエンヌが今日という日を指折り数えて楽しみにしていたことを知っている。
この日のために、我らが奥様リュシエンヌは夫であるレクスターの好きなワインを奮発して用意していたし、メイドと一緒になってお気に入りの皿も磨いていたし、古株の使用人にレクスターの好きな料理とその味付けについて念入りに事前調査を重ねていた。
「旦那様の休暇は明日から三日間だったわよね」
「そうなんです。絶対短いですよ、もう!」
「二人とも静かになさい。時間が足りないと思ったら、旦那様だって奥様のためにも次はもっと長く休暇をお取りになるでしょう」
使用人たちがヒソヒソとそんなことを話していることなど露知らず、それどころかいつの間にか二人きりにされていることにも気付かず、レクスターとリュシエンヌは照れ笑いを浮かべながら仲良く夕食作りに勤しんでいる。
明日からの三日間は楽しく素敵な日になるに違いない。
屋敷にいる誰もがそう確信していた。
かつてレクスターが社交界でひどく冷遇されていた頃のどこか重く冷たい空気は今や遠く、ルクス子爵邸には明るく穏やかな空気が満ちていた。
──余談であるが、リュシエンヌにつられて同じペースでワインを飲んだレクスターは、先に潰れてぐっすり眠り込んでしまい、幸いにしてその夜魚の夢見ることはなかったという。
しかし、その代わりに朝になって目を覚ました時、既に起きていたリュシエンヌに「可愛い寝顔だったわ」と微笑まれて顔を真っ赤にしながら朝食の席につくことになったのである。