人外の法律
とある五分企画の習作です。
気軽に読めるサイズなので覗いて見てください。
何かを轢いた、気がした。
残業に次ぐ残業で、時刻はすでに二時をまわっていて欠伸をかみ殺しながらの運転。
等間隔に並ぶ電柱を無意識に目の端で追っているのに気づいて、慌ててハンドルを持ち直し、アクセルを踏みなおしたところだった。
一瞬、車が止まったような感覚。
それに続いて何かに乗り上げるような感触を尻の下で感じる。
カクン、と首が一回縦に振られ、今までの眠気が霧散した。
ほぼ反射的にブレーキを踏み、その行動に思考がようやく追いついた。
(轢いた………………)
あのやわらかい感触は生き物のそれだった気がする。
だが、実際これまでに実際生き物を轢いた事がないのだからそれを判別するほどの経験は俺にはない。
でも、あの気持ちの悪い感触がまだ尻からぬけずにいて……
そうしているうちに一番簡単な解決法から目をそむけている自分に気づいた。
(車を降りて、確認すればいいんだ。どうせ動物か何かだ)
午前二時の空気は殺人的に冷たく、吐く息が白く染まる。
車の中の暖かい空気を逃がさないように急いで扉を閉めた。
白い街頭の明かりが、黒いアスファルトに照りかえる。
それだけ、だった。
血の赤も、人の影も無く、ただただ一本道には黒いアスファルトしか存在していなかった。
(ガードレールの向こうに跳んで行ったとしても、血痕くらいは残るはず)
そう確信して過信して、俺は再び車に乗った。
その黒い道にわざわざ踏み出して行く勇気は、俺には無かった。
「どうかしたんですか係長?」
昨日、結局一睡も出来なかった。
(もし仮に人間を轢いていたら俺はひき逃げになるのだろうか)
(だが自首するよりもひき逃げにしてしまった方が罪が軽くなるという話を聞いた事がある)
(しかし懲役刑は免れないだろうし、社会的にも俺は終わりだ)
(いや轢いていたとしても誰も目撃者がいなかったらあるいは…………)
そんな事で延々思考ループを繰り返し、気づけば朝になっていたのだが、
そして、出勤際に車のタイヤに何も付いていないことを確認してから、俺はようやく仕事が出来るまでの精神状態に回復していたのだった。
「ああ、大丈夫だよ。少し昨日飲みすぎてね」
手を杯を作りクイッとやって見せると彼女も納得したようだ。
昨夜の事ごときで生活に影響がでてしまっては社会人失格である。
「そうだ、係長。お電話です」
その言葉に思わずビクッとしてしまった自分を叱責しながら営業用の笑顔を貼り付けて電話に出る。
多分海星商業の稲生さんだろう。それかBBCコーポレーションの…………
「あなた、昨日他の人に車を貸したりはしてませんよね?この意味がわかったなら今日の夕食、ご一緒にどうですか」
名前も、素性も説明せずにそれだけを淡々と話して、それからここからほんの五分程度の場所にあるレストランの場所と名前を説明して、そいつは電話を切った。
脂汗で背中がぬれるのを感じた。
空調の音がやけに耳に響いた。
胃の中に違和感を感じた。
脳は理解を拒否していたが、店の名前と場所は脳内に張り付いていた。
扉の鐘が虚ろな音を立てて俺が来た事を店内に告げる。
指定されたレストランは木製のテーブルが並ぶ落ち着いた雰囲気の所だった。
こんなところがうちの会社の近くにあったのかと驚きながら店内を見渡すと、一つだけテーブルが埋まっていた。
サングラスに帽子で顔を隠したそいつは俺の姿を一瞥すると、ステーキを切り分けていた手を止める。
「さて、あなたがここに来たと言うことは、私の言っている意味を理解したという事ですか」
「知るか、俺は人なんか轢いちゃいないんだよ」
ウェイターがメニューを運んできたが、俺はぞんざいに手で追い返す。
「ここで重要な事は一つです。あなたは、私の妹を、轢いた」
「俺は殺してない!現に、車には血痕さえ残ってなかったんだ!」
机に拳を叩きつけ、俺は勢いよく立ち上がる。
証拠は無い。それだけが俺のよりどころだった。
しかし、
「血痕はありました。ただ、あなたに見えないだけで」
(こいつ、今なんと言った?)
俺の理解を待たず、そいつは話し続ける。
「無論、私達の側にも落ち度があります。視認出来ない相手を避けろなんてそれは無理な話でしょうし、実際アレは事故だったのですから。しかし、事故だからこそあんなところで急にアクセルを踏み込んだあなたにも少なからず責任がある。実際妹の命を奪ったのはあなたの車ですからね。だからこそこうやって穏便に話を済まそうとしているんです。出来るならば、あなたにも、同じ目にあってもらいたいのに」
静かな怒りと純粋な殺意が店内に充満する。
冷静なそいつの口調のの端々に混じる怒気。
「しかし、それではあまりにも酷というもの、私達の法もそれを認めてはいない。だからこそ話し合いの場を設けたのです。それが私達、透明人間の法です」
そういって、帽子とサングラスを取ったそいつには、首から上が無かった。
声を発するべき口のあるはずの場所から、最終通告が響く。
「要するに、金銭的に話をつけようということですよ」
いつの間にか俺は、浮遊する包丁やフライパンに周りを囲まれていた。
「五千万、か。もっと搾り取れたんじゃねえか?」
つまらなそうにピアノ線で吊った包丁を指でつつきながら男がぼやいた。
「まあ、そう言わずに無事成功したんですから」
首の無い人形を担いだ男がそのぼやきに答える。
「てめえはその机の下で腹話術やってただけだからそういえるがな、実際こんな店開いて挙句真夜中にカモ探してジェルパック轢かせてんのは俺なんだ。少しは敬えこの野郎」
「まあまあ、いいじゃないですか。次のカモ探せば。書籍や映画で透明人間が認知されている限りこのやり方で詐欺繰り返せるんですから」
「まあ……な、透明人間さまさまだな」
「著作権とか請求されませんかね?」
ケラケラと、店内に笑い声が響いた。
何十人ものの笑い声が。
「惜しい。ここで支払うべきは著作権ではなく肖像権です。人の名前や姿で商売をするならば、許可料を支払うのが道理。私達の法です。まあもっとも、人様に見せれる顔など無いんですがね」
いつの間にか彼らは、浮遊する包丁やフライパンに周りを囲まれていた。