あるいは南北朝時代における、性転換物語。
はじめに
「たまさすらひ物語」を読んだことがあるものは極めて稀であろう。
しかしこれを永遠に埋もれさせておくのは惜しく、またこのような小説投稿サイトで誰でも気軽にその形跡を残せると知り、私は筆をとったものである。
筆者が「たまさすらひ物語」と初めて出会ったのは当時通っていた福島県福島市にある高校の図書室であった。
それは30ページほどの紙幅で、「本」というよりは「冊子」と呼ぶのにふさわしいものだった。
信夫山出版といういかにもローカルな出版社の出した郷土の民話集のシリーズであり、表紙には地元の作家の手によるであろう、恐ろし気ではあるがどこか間抜けなクマのイラストが描いてあった。
なぜ手に取ったのかは覚えていない。おそらくは時間つぶしによさそうと思ってのことだと思う。
出版年はその当時ですでに20年以上前であるにもかかわらず、表紙はまるで日焼けをしておらず、ページに折り目もなく、ほぼ新品のまま誰にも読まれずにずっと本棚の一部で身を潜めていたのであろうことがわかった。
それもそのはずで、活字にされてはいるものの、いわゆる「古文」そのままであり高校生がさらっと読むにはためらわれそうに見えたのである。(実際はかなり読みやすい程度のものであったが)
筆者は期待せずに読み始めたのであるが、これがひどい代物であった。無意味な暴力とあからさまな性描写、そしていかなる教訓も導き出せない内容であり、なぜこんなものを出版したのか理解に苦しんだ。しかしひとつ確かだったのは、筆者の股間がむくむくと学生服を内側からおしあげていたことである。
これはたまらんと思った筆者は、次の日に「たまさすらひ物語」を古文担当の教師の下へ持っていき、「こんなものを見つけたのですが、果たしてこれは有名なのでしょうか」と尋ねた。
教師はぱらぱらと読むと、「おそらく出版社の人間が創作したもの」と断じ、不自然な点をいくつか指摘し、「興味があるならその出版社を訪ねてみるといい」と促してきた。
奥付にある信夫山出版の住所はなるほど、高校からほど近い。古文教師は「行く前に電話をなさい。そこの地所のあたりは毎日通っているが、そのような会社の看板を見たことはない」というとくぐもった声で笑った。
放課後に、携帯から奥付にあった番号に電話してみると、案の定「おかけになった電話番号は現在つかわれておりません」という定型文が流れた。
しかたなく現地に自転車で行ってみると、そこは築50年はあろうかという、朽ちかけた木壁にくすんだ赤いトタン屋根の古民家であった。
自転車をそばに止めて門扉を開くとその先は玄関扉までびっしり雑草が生い茂り、とても人が住んでいるようには見えなかった。
途方に暮れていると、通りからこちらを眺めていたひとりの老婆が「佐藤さんの家に用かい」と声をかけてきた。筆者が事情を説明すると、「大正時代からこの隣に住んでいるが、そんな会社がここにあったことは知らない」と首を傾げた。
しかし、その本には心当たりがあると言い、佐藤邸の庭に取り残されたプレハブの物置をガタガタと音を立てて引き開けた。
中にはダンボールがいくつか積み上がっており、それぞれ「民話①」などとマジックで書かれた紙が貼りつけてあった。そして図書室で見た30冊ほどのシリーズが収納された箱に、「たまさすらひ物語」も3冊あった。
老婆は「主はもういないし、子供たちも管理を私に任せている。好きなだけ持っていくといい」と言った。筆者はダンボール箱の埃をはらい残っていた「たまむすひ物語」を3冊全部いただくことにした。
佐藤邸を出ると筆者は学校に戻り、職員室の古文教師にあったことを話した。教師は「そうか、そうか」とまたくぐもった声で笑うと「せっかくだから私にも一冊くれないか」と言った。「思い出になったな」と言うと「用が済んだのなら早く家に帰って明日の予習でもなさい」と職員室を追い出された。
筆者はその後、友人で回し読みをしたが、皆が「書いた奴は頭おかしい」と言った。
その後、筆者は地元の大学に進学し、少しばかり書誌情報の調べ方を学んだ。加えて民話や地域史を専門にしている研究職とも知己を得た。そのたびに「たまさすらひ物語」と「信夫山出版」について尋ねるのだが帰ってくるのはいつも「九割九分創作である」「おそらくは小さなコミュニティで配布された同人誌」という答えであった。
その後、筆者は何の変哲もないサラリーマンになり「たまさすらひ物語」のこともすっかり忘れていた。しかし、先日、仕事で例の佐藤邸のあたりを通りかかることになり、「そういえば」と寄り道してみた。もう佐藤邸も、隣の老婆の家もなくなり、砂利敷きの月極駐車場になっていた。ただ「空きあり」と立札があった。
「たまむすひ物語」は、一冊は今も私の手元にある。幾度かの引っ越しを経てもまだ捨てられずにいる。また残り一冊の使い道については、末尾につける解説で語ろうと思う。
「佐藤藤原朝臣宗盛、たまをうしなえしこと」
今は昔、建武のころのことである。
陸奥の国、岩代にある吹上城をおさめる侍大将に、佐藤宗盛というものがいた。
宗盛はいち早く、多賀城に下向してきた陸奥守に臣従し、所領安堵の綸旨を賜る。宮方として郎党を率いて従軍した前年の津軽の戦では、数多くの北条方の首級を上げ、皇子からの感状を賜ったのも一度ではなかった。
宗盛のいた吹上の荘は、阿武隈川に面した盆地にある。わずかな平野を田畑にする他は、中央にある丘山の上に立つ吹上城の他目立つものもなく、穏やかなものであった。
俄かに吹上の荘が騒がしくなったのは、隣の柳瀬の荘を収める佐藤宗明が陸奥守に対して出仕を拒否したことからである。
陸奥守は宗明の動向を反乱とみなし、宗盛に「懲らしめよ」との命を下した。
ところが吹上の荘と柳瀬の荘の間には、厄介な「境界」が存在していた。
「大森」と呼ばれるつながる丘陵とそこを覆う森である。それだけであれば通り抜けることはさほどの問題はないが、ここは神代から人ではないものが治めている土地であった。
そこは熊の城であった。
大森の熊たちは、もとから熊の多い陸奥にあっても、際立って体が大きく、また「人語を解する」と言われるほど知恵を持っていた。これが兵の往来を拒絶するのである。
吹上で軍議に及ぶ宗盛は、熊の何するものぞという気概は持っていたが、郎党たちは迷信深く、熊の復讐を恐れ出立を理由をつけては先延ばしにしていた。
業を煮やした宗盛は鎮守府にいる皇子から熊討伐の詔を賜ることにした。
吹上の城に雁首をならべた郎党たちの前に「大熊討伐の詔」を読み上げると「天は我らに味方している。熊畜生の何するものぞ。熊の首をとってきたものに、あの森を分け与えよう」と号した。
こうなると現金なのが武士というものである。「やろうやろう」と家伝の鎧兜、弓馬を持ちだして大森に向かってほとんどの吹上の武士が出立したのであった。
「お待ちください、お父様」
吹上の城の門を馬上でくぐる、宗盛を呼び止めたのは、宗盛の娘であった。
「おフキか、夕飯は熊のフルコースだぞ、ガハハ」
吹上の姫君は「おフキの方」と呼ばれていた。姫と言っても鄙びた田舎であるので、着物は簡素での山を駆けることが出来るようなものである。
「そんなくさいものは食べたくありません」
「そうか? うまいぞ熊のキンタマ! お前も女であれば好きであろうキンタマ! ガハハ!」
そういうと宗盛は娘の目の前で、自慢のまたぐらをぐいぐいと持ち上げて見せた。
「そのキンタマでございます」
「というと」
「大森のメス熊はタマを好むと言います。父上にはまだ男子がおりません。どうぞ一物をおだいじになされませい」
「なんの、熊なぞ、わしの一物にかみつこうものなら」
宗盛はエイヤと股をふりふりとすると「わしのマラでひっぱたいてくれる」と大いに笑った。
おフキは眉間に手のひらを当てるとやれやれと言うていで柏手を打った。
「シロ、シロや」
すると、城の外から「ゴウ」と獣性が上がり、おフキの方よりよほど大きいのではなかろうかという犬が駆け寄ってきた。
「シロや、父上のタマを命をかけても守るのですよ」
なでてなでてと鼻を摺り寄せるシロに、おフキは言い聞かせるように言った。
「かしこまって候」
シロは答えていった。シロは人語を解した。
「まあ、此度は戦にあらずば、犬をともにするのも道理ではある。シロよ案内せい」
シロは目を伏せがちにおフキに向けた。おフキは首を縦に振った。
「かしこまって候」
シロは吠えあげるように答えた。