私は綿嶋さんのペットになりたい。
私は綿嶋さんのペットになりたい。
何でこんな事を思うようになったのか。
キッカケなんてものは曖昧なもので思い出せないけど、たぶん、些細なものだったのだろう。
綿嶋さんは、所謂不良少女だ。
学校にはたまにしか来なくて、よく遅刻して、授業もサボってばかりで。
だけど、良いところもある。
運動神経が良い。
頭も良い。
お洒落で。
スタイルも良い。
何より、凄く綺麗なのだ。
だから、私はペットになりたい。
答えになっていない?
衝動というのは、いつだってそういうものなのだ。
……だけど、私たちは相入れない存在だった。
私は、どちらかと言うと地味な人間だ。
クラスでも影が薄い。
高校二年生にもなって、一体何人の友達が居るのかと言うと――居ない。
部活動の部員とは活動中に話すが、連絡先を交換しているわけでも部室以外で話す事もない。
別に、虐められているわけじゃない。
だから、それでいい。
私は、私のままでもいい。
多くは望まない。
何かに期待をしてしまったら、その何かに期待してしまった分だけ駄目だった時のガッカリも大きいから。
だからこそ、声を大にして……っていうのは無理だけど、小鳥の囀りのように静かに囁くんだ。
私は、綿嶋さんのペットになりたい。
――――
……暑い。
その日は梅雨明けの六月も半ばに差し掛かる頃。
外は呆れるぐらいの晴天で、制服のシャツがべっとりと肌に絡み付くのが気持ち悪い。
私みたいに地味で貧相な女には関係ないことだけどクラスメイトの女子たちは口を揃えて「夏はシャツが透けて下着が見えるから男子の視線がイヤラしくて嫌だ」と嘆いていた。
でも、気を付けた方がいい。
イヤラしい視線を向けるのは、決して男子だけじゃないっていうことを――。
……なんてね。
そんな事はいいんだ。
私は今、文芸部の部室にいる。
というのも、私が文芸部員だからだ。
今日は一番乗りらしい。
むしろ、今日はずっと一人かもしれない。
本校の文芸部は、とても適当だ。活動に一貫性は無く、部員も来たり来なかったりする。
だけど、それがまかり通っていて――だからこそ、此処の居心地が良いんだけどね。
それに、部室に居るのが私一人だけだというのなら、私は存分に私だけの創作に没頭出来る。
「えっと。ペンと、紙を……」
そうして鞄から取り出したのは、私がこそこそと描いた手書きの漫画の落書き。
それは、およそ人に見せられる代物ではない。
何故なら、その作品に名付けたタイトルは『私は綿嶋さんのペットになりたい』。
私の欲望を曝け出した悪趣味な性癖本だ。
さすがに、こんなものは誰かが居たら描けないから。
面白半分の落書きのつもりで作業を進めていたら、思いの外筆が乗って続きを描くのが面白くなってしまったのだ。
……それにしても、今日は本当に暑い。
「窓、開けよ……」
そうして窓を開けると、その瞬間に外で運悪く強風が起こり、部屋の中の紙やペンが強風に煽られてしまう。
ふわっ。
「あっ」
不味い。
私の描いた漫画が――。
風に煽られて、窓の外に出てしまう。
ぴたっ。
そして、その一枚の紙切れは私の手から逃げるようにふわふわと宙に舞い、窓の真下の中庭で寝転んでいた誰かの顔に貼り付いてしまった。
「うわ……なにこれ……」
その人は、それを鬱陶しそうに顔から引き剥がして、中身を見てから更に表情を顰めた。
――最悪だ。
その人というのが、おそらく授業をサボるために中庭の校舎影で居眠りをしていた〝綿嶋さん〟だったからだ。
顔を顰めたのも当たり前だ。あんな内容の漫画、見るに耐えないに違いない。
しかも、そのモチーフに自身が描かれているのだから。気持ち悪いとすら思うだろう。思って当然だ。
そして、その後に綿嶋さんはキョロキョロと辺りを見渡して――。
「あっ」
……もしかして、あの漫画が何処から飛んできたのか探そうとしてる!?
その事に気が付いた時には、何をして考えるにしてもノロマな私では完全に手遅れだった。
「これ、あんたのか?」
「……えっと」
綿嶋さんは、二階の窓から下の中庭を覗く私を見上げながら、私の落としてしまった漫画を指差す。
――ごめんなさいっ!
私は、何も言わずに顔を引っ込めて窓を閉めた。
……嗚呼、そうしてしまった以上は今更もう一度外を覗けるはずもない。
「私だって、バレちゃったかな……!?」
そして、往生際悪く頭を抱える。
もうっ、私のバカ! 何で外に落とすの!? ……か、顔に出てたかな?
なんて、考えながら。
描いたのが私だと、バレてたら……そんな最悪を想定するだけで、背筋が凍る。
だけど、あの漫画にペンネームはない。
漫画のタイトルと登場人物には確かに綿嶋さんと分かる内容が掲載されていたが、主人公の女の子は美化された私だ。
その事に関しては誰かに言われなければ気付くはずも、私だという名前が出て来るはずもないだろう。
大体、綿嶋さんとは同じクラスメイトながら一度も話したことがない。
私の事なんて、顔と名前も一致してないぐらいのはずだ。
……なら、大丈夫?
――と、私はそんな根拠ない言葉を自身に言い聞かせ、文芸部の活動など何もせずに逃げるようにして家に帰った。
結局、その後の一日は、家に帰っても落ち着かない気持ちのままに過ごした。
――――
翌日、昼休みの時間になっても綿嶋さんの姿はなかった。
――良かった。
気付けば私は、胸を撫で下ろしていた。
今の今まで、気が気で無かった。
いつもよりも眠れなかったせいで、少し寝不足だ。
綿嶋さんはまだ学校に来てないようだった。
此処まで来たら大丈夫だろう。
それに、綿嶋さんはあの窓から顔を覗かせた私を誰かと認識出来ていないはずだ。
いや、むしろ一日経って「まあ、どうでもいいか」と忘れてしまってくれたはずだ。
そうだ、そうに違いない!
「なあ」
「ぴゃいっ」
なんて呑気に考えていると不意に誰かが私の肩に触れ、声を掛けてきたようだった。
普段は誰も喋り掛けて来ないのに。
慣れていない突然の事に、私は思わず変な声を出してしまった。
「なんつー声出してんだよ。ええっと……確か詩島、さんだっけ?」
そして、その相手は綿嶋さんだった。
「あ、あれ? 学校、来て、たの……ですか……?」
「ついさっきね。……で、ちょっと付き合ってくれない?」
ざわっ。
教室の空気が一変した。
クラスの不良が、陰キャに絡む。その意味、即ち――。
「え、ええっと。で、でも……」
私は口を動かそうとするも、モゴモゴと上手く返事をすることが出来ない。
「……いいから、早く」
そして、席に座ったままの私の手を引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。
――抵抗出来ない、出来るはずがない。
こうして、私は返事もろくに返せないままに綿嶋さんに教室の外へと連れ出されてしまったのだった。
……大変なことになってしまった。
――――
「うし、ここで……って、何で泣いてんの!?」
「う、うう……い、いえ……なんでも、ないんでず……」
手を引かれて連れて来られた場所は中庭だった。昨日、綿嶋さんが居眠りしていた場所だ。
「……いや、落ち着くまで待ってるよ」
「は、はい。ずびまぜん」
なんて優しいんだ。
私は、ポケットティッシュでズビズビと鼻を噛む。
「……此処、綿嶋さんがよく居る場所ですよね」
「うん? まあ、そうかな……」
うちの学校の中庭は広さこそあるけれど、殆ど陽の当たらない構造になっているために人気がない。
そこから校舎影まで行くと、恰好のサボりスポットだ。
もっとも、うちの学校に授業をサボろうなどと考える不良生徒は殆ど存在しないため、そんな場所があることすら大半の生徒は知らないだろう。
「って、なんでそんな事を知ってんの?」
「此処が、部室の真下だからです。私、文芸部なんです」
「ああ、そういう理由があるのか……」
それを何で私みたいな根暗な地味人間が知っているのかと言うと、文芸部の部室の真下がこの場所だからだ。
そのせいで綿嶋さんは密かに私の創作の餌食に遭ってしまい、そのせいで私の描いた漫画は此処に降り立った。
……災難にも程がある。
「で、本題だけど」
「あっ。は、はいっ」
そういえば、そうだった。
ようやく落ち着いた様子の私を見て、綿嶋さんは話を進めようとする。
不良なのに気の利く人だ。
いや、失礼だ。
私みたいな奴がそんな事を考えていると知られたら……。
「この漫画、あんたが描いたの?」
ぴらり。
綿嶋さんの手には昨日、私が落とした漫画が――。
「うわああああああああ!!!!!!」
「わあっ!? き、急に大声出してなんだよ!?」
もっとヤバい事を考えていた(描いていた)ことを、知られてしまっていた!
「ち、違うのっ、これは――」
「何が違うって?」
「私じゃないです! こんな漫画、私、知りません!」
「でも、この真上の教室から顔出してたの詩島だろ? さっきも、部室が真下だって……」
「あああああああ! そうでした! 私が描きました! ずみまぜえええええええんっ!!!」
「お前、情緒不安定過ぎるだろ!」
だって、こんな事になるなんて……!
私は、年甲斐もなく取り乱してしまった。
そんな私が落ち着くまで、先程のように綿嶋さんは静かに待ってくれた。
うう、なんでそんな優しいところを見せてくるの……。
不良女子が陰キャに優しいって、創作だけの話でしょ? オタクに優しいギャルとか、現実であり得ないって……。
私は、どこまでも失礼な奴だった。
―――
「それで、結局は詩島ってことでいいんだよな?」
「はい、私です……私が、描きました……」
結局、私は白状した。
変に意地を張って違うと言い続けても殆どバレてしまっているような状況だ。
悪いことをした時は、素直に白状する。
幼少時代に学んだことだ。
その返事もチラチラと顔色を窺うだけのものでまともに目を合わすことも出来ない。
「その、なんだ。この漫画を見る限り、飼い主役が私で、その、相手が……」
「……わたし、です……本当にすみませんでした……」
「い、いや、怒ってるわけじゃないから謝らなくていいんだけどさ。というか、喋りにくいから普通にしてくれよ」
「ヒィッ、こっ、これが普通なんです! どどど吃っててすみませんでした……!」
「そ、そうか……ごめんな……」
どうしよう、すっごい気を遣われた上ですっごい引かれてる気がする。
だけど、これが陰に潜む人間の正しい在り方。
普通にしてくれと言われただけで綿嶋さんの言う普通になれるというのなら、私はクラスでもボッチのポジションなんて不名誉な立ち位置は確立していないだろう。
「詩島って、こんな奴だったのか……いや、まあ、予想は出来たか……」
そう、私はボッチだ。
そして、綿嶋さんは不良生徒だ。
――そういえば。
「……私の名前、知ってたんですね」
「まあ、同じクラスだしな。正直言って覚えてない人の方が多いけど……詩島と綿嶋ってなんか似てるだろ?」
「詩島、綿嶋……さん」
「そうそう。二人でしましまだなって印象に残ってたんだ」
「し、しましま……」
「うん。……って、なんで笑ってんの?」
私はすぐにでも「笑ってしまってすみません!」と言おうとしたけど、笑いが止まらなくてお腹を抱えてしまった。
まさか、あの綿嶋さんからそんな可愛いワードが出て来るとは思わなかったからだ。
確かに、顔は綺麗だけど。
そういう事を言うタイプだと思わなかったから。
「な、なんだよ。私変なこと言ったか?」
「あ、あははっ、だ、だって、綿嶋さんの口から、しましまって……」
「う。や、辞めろよ、なんか恥ずい。ただでさえ、こんな漫画見たんだし……」
……ハッ!
「その件は、誠に……何と、お詫び申し上げれば……」
「いや、そういうのはもういいから。……っていうか、それわざとやってないか?」
「え、ええっ? 私は、本当に申し訳ないと」
「――ははっ、何なんだよ、お前。面白いやつだなっ」
あくまで真剣な表情で謝る私に、今度は綿嶋さんが笑い出してしまった。
その普段の雰囲気とは違うままに見せるカラッとした笑顔に私は立ち眩みでも起こしてしまいそうだった。
―――
「で、詩嶋は私のペットになりたいのか?」
「へぶちっ!」
「えっ。何だよ、その返事……」
「すみません、くしゃみと驚きの感情が同時に……」
「……そうか」
恥ずかしい。
二人とも落ち着いた瞬間に、急に現実に戻された。
「アレは、何というか、創作の中の話なので……」
大体、私がそんな内容の漫画を描いてしまったのも衝動的なものでしかない。
本当にペットになりたいだとか……。
だって、不良の女の子に言い寄られて良いようにされてる地味な女の子ってシチュは強くない?
だから、描いてみたくて――。
それでリアルティー持たすために、近場の材料で。
「私、たぶん、綿嶋さんに憧れてて……」
「は、私に? なんでまた」
「だって、綿嶋さんは誰よりも頭が良くて、運動神経も良くて、スタイルが良くて、顔も良くて」
「そうやって真面目な顔をしながら歯の浮くような台詞を面と向かって言われるとか、なんか恥ずかしいんだけど……」
「それなのに、学校には全然来ないんです。綿嶋さんは誰よりも凄くて、先生の言う事も軽く流して、そうやって誰よりも自由に生きてて……」
だから、私は綿嶋さんみたいになりたいと思った。
綿嶋さんのペットになれたら――。
私の憧れた綿嶋さんに、ほんの少しだけでも近付けるかもしれない。そう、思った。
「……私は、面倒臭い事から逃げてるだけだよ。私からしたら、そうやって普通に順応出来る人間の方が……」
「そんな事ないです!」
「…………」
「私は、そんな綿嶋さんに憧れたんです! きっと、私以外にも同じように考えてる人は居ます!」
「ペットになりたいって?」
「……いや、それは私だけかもしれませんが……」
というか、なんで私は綿嶋さんみたいになりたいからペットになりたいという発想に至ったんだ。
意味が分からない。
本当に意味が分からない。
「……でも、私の近くに居たら、私みたいになれるかもな」
だけど、本当に意味が分からないのは。
「お前、素材自体は悪くないと思うし……」
そんな事を言ってくれる綿嶋さんの方に違いなくて――。
私はこの日、胸に刻んだんだ。
物語の始まりとは。
いつだって唐突なものである、と。
「詩島、私のペットになりなよ」
「……はいっ」
――こうして、私は綿嶋さんのペットになってしまったのだった。