ドロシアという少女2
「キース、今日もひとりでご飯を食べてきてくれる?」
こくりと頷き、森の方へと飛んでいくキースに「行ってらっしゃい」と声をかけたあと、ドロシアも自身の食事を用意するため、川へと向かう。あの川は流れが早く危ないから気をつけなければいけないと、いつも老婆に言われていた。
以前作り方を教えてもらった罠には、今日は十匹ほど小さな魚がかかっていて、ドロシアは嬉しくなる。いつもはその半分以下しかとれないのだ。
今日はキースにもあげられると微笑み、竹で編んだカゴに魚を入れ、小屋へと戻ろうとした時だった。
「……おい、こんな所に女がいるぞ!」
不意に聞こえてきた声に振り向けば、そこには二人の男が立っていた。ドロシアは、老婆以外の人間を見るのは初めてだった。そして男を見るのもまた、初めてだった。
「ガリガリだけど、可愛い顔してるじゃねえの」
「お嬢ちゃんは一人か?」
「あなたたち、誰? あと、森にキースがいるよ」
「誰だそれ、男か?」
「小鳥」
そう答えれば、男達はおかしそうに笑った。ドロシアには何がおかしいのかわからなかった。
けれど久しぶりに人と話すのは新鮮で、ドロシアは少しだけ嬉しかった。毎日キースに沢山話しかけてはいたけれど、キースから言葉が返ってくることはなかったからだ。
「じゃあ、男を知らないんだな」
「あなたたち、男なの?」
「おう、そうだぜ」
そう言ってまた笑う男達に、ドロシアは少し嫌な気持ちになり始めていた。何故だか彼らの視線が、とても怖かった。
早く、キースの元に戻ろう。そうして歩き出すと、近くにいた男にきつく手首を掴まれた。
「いたい、やめてよ」
「どこ行くんだよ、少しくらい遊ぼうぜ」
「いやだ、帰る!」
いくらそう言っても、男達は離してくれない。
「キース! キースの所に行かせて!」
そう、叫んだ瞬間だった。無理やり腕を引かれたせいでずるりと足元が滑り、ドロシアの視界がぶれた。次の瞬間、彼女は足元の石に、思い切り頭を打ち付けていた。
痛い、と思う間もなく、そのままドロシアの身体は川の中に沈んでいく。男達の「やべえ、殺しちまったか?」なんて声が、ひどく遠くから聞こえてきていた。
穴という穴から水が入り込み、息が出来なくなっていく。あまり頭の良くなかったドロシアにも、自分が老婆と同じように死ぬのだということが、なんとなくわかった。
──もう1回だけ、キースに会いたかったな。今日はお魚、いっぱいとれたのになあ。
そんなささやかな願いも虚しく、ドロシアの命は水の中で静かに尽きていった。すぐそこまで彼女の声を聞きつけたキースが、飛んできていたことにも気付かずに。
……それはドロシアが生まれてから21年が経った、少しだけ肌寒い、秋の始めのことだった。
◇◇◇
もうすぐ17歳の誕生日を迎えるわたし、ステラ・オルブライトはかなり浮き足立っていた。
明日の夜には盛大な誕生日パーティが催され、沢山の人やプレゼントに囲まれるのだ。その上、婚約者であるバーナード王子にも会えると思うと、余計に胸が弾んでしまう。
とにかく今日はお肌の為にも早めに寝ようとベッドへ向かう途中、突如わたしは何もないところでずるりと滑って転び、お気に入りのテーブルに頭をぶつけてしまった。
そしてその瞬間、突如わたしの頭の中には濁流のように、ひどく懐かしい記憶が一気に流れ込んで来たのだ。
「……嘘、でしょう」
そうして、ドロシアという哀れな少女だった頃の記憶を思い出したわたしの瞳からは、涙が溢れ出していた。
あまりにも寂しく辛い境遇だったけれど、ドロシア自身は、自分を不幸だと思ったことなどなかった。それが全て、当たり前だと思っていたからだ。むしろ何もない平凡な毎日を幸せだと思い、懸命に生きていた。
そしてあんな呆気ない、理不尽な最期を遂げて尚、ドロシアは誰かのことを恨むことすらしなかったのだ。
それに比べて今のステラと言えば、侯爵家の令嬢としての贅沢な暮らしを当たり前だと思い、人よりも大分我儘に育ってしまっていたことに気付く。
あんな生活をしていた頃の記憶を思い出してしまっては、大好きな家族がいて、暖かい家があって、お腹いっぱいご飯を食べられる今の自分が、どれだけ恵まれているのかを思い知ってしまい、わたしは涙が止まらなかった。
……もしかしたら神様が、わたしに心を入れ替えるきっかけとして記憶を返してくれたのかもしれない。だからこそ明日からは謙虚に生きよう、そう思っていたのだけれど。
あれから半日が経った今、もしかしたらわたしはドロシアの最後の願いである、キースと再会するために記憶を取り戻したのではないかとすら思い始めていた。
「本当に、貴方がキースなの……?」
「ドロシア、俺のことを思い出したのか!?」
「う、うん。少しだけど」
「良かった……! このままお前が思い出してくれなければ、俺は人生二度目に泣く所だったぞ」
そう言ってキースは微笑むと、わたしを再びぎゅうっと抱きしめた。一度目に泣いたのはいつだったんだと気になったけれど、今は聞かないでおくことにする。
……それにしても、本当にこの美青年があのキースなんだろうか。にわかには信じがたい。
けれどドロシアが小鳥だと思っていたあの黒い生き物が、竜だったとしたら。というより、ぼんやりとしか思い出せないけれど、どう見てもあれは鳥なんかではないと、今ならわかる。あれ、普通に竜だわ。無知とは本当に恐ろしい。
そして先程彼は、120年も待っていたと言っていた。つまり今はドロシアが死んでから、120年が経ったことになる。そもそもあの場所がどこなのか、いつだったのかすらわたしは当時も今もわかっていない。
それでも、キースがそんなにも長い間自分を忘れずにいてくれたことは、本当は泣きたくなるくらいに嬉しかった。
「それにしても、どうして今日来たの?」
「昨日の夜中、急にドロシアの気配がしたから飛んできた」
昨日の夜中ということは、わたしが記憶を取り戻したことに何か関係がありそうだった。
「どこから飛んできたの?」
「隣の国から」
「は?」
「寝ないで飛んできたから実は眠いんだ、ふぁあ……」
そう言って欠伸をし、目元を擦る姿はあまりにも可愛らしくて、思わず心臓が跳ねる。キースのこの人間の姿は完全に目に毒だ。あまりにも綺麗な顔をしすぎている。わたしは生まれたてのキースの姿を思い出し、必死に平常心を保つ。
キースはそんなわたしを突然ひょい、と抱き上げた。
「よし。ドロシア、帰るぞ」
「えっ?わたしの家はここなんだけど」
「あの森に帰らないのか?」
「そ、それはちょっと……」
いくら記憶を取り戻したと言えど、今のわたしは侯爵家の令嬢としての贅沢な暮らしを知ってしまったのだ。あんな森での生活など、流石に耐えられる気がしない。
キースはしばらく考えるような素振りを見せた後、「分かった」とわたしをそっと地面に下ろした。
「では、俺がここに住む」
「ええっ」
流石にそれは両親も許さないだろうとお父様に視線を向ければ、最初の勢いはどこへやら、彼はひどく小さくなっており、伺うようにしてこちらを見ていた。
「あ、あの、すみません」
そうキースに恐る恐る声をかけたのもお父様で。今にも消え入りそうな声だった。
「も、もしや貴方様は、隣国であるユシテア王国の、黒竜王キース様ではありませんか……?」
隣国の黒竜王と言えば、わたしでも聞いたことがある。
先の戦争でユシテア王国を救い、相手国を壊滅まで追い込んだ最強の竜、だったはずだ。その黒竜の存在によりユシテア王国は今現在、敵なしと言われているくらいの勢いを見せていた。
……ん? 黒竜? その言葉にまさかと顔を上げれば、キースはふふん、と得意げな顔をしてわたしを見た。
「それは俺のことだろうな。まあ、人間共が勝手に言ってるだけだが。そもそもあの国を助けたのも、ドロシアが生まれ変わってくる時に滅びてたら困ると思っただけだし」
それなのにお前、隣国で生まれ変わってるから驚いたぞ! なんて言って笑うキースを前にして、わたしはひどい目眩に襲われていたのだった。