プロローグ
わたし、ステラ・オルブライト侯爵令嬢の17歳の誕生日の朝、嵐のように彼は我が家へとやって来た。
「だ、旦那様! 大変です!」
「一体どうしたと言うんだ、騒がしい」
いつも通り家族皆で朝食をとっていると、メイドの一人がひどく慌てた様子で食堂へと入ってきた。何故かその頬は、照れたように少しだけ赤い。
「突然屋敷の前に現れた男性が、見知らぬ女性の名前を呼び、出せと言って聞かないのです」
「そんなもの、さっさと追い返しなさい」
「それが、隣国のかなり身分の高い方のようで……」
「何だと?」
そう言われては、一介のメイドに追い返させる訳にもいかなくなる。お父様は深い溜め息を吐くと、仕方ないと言って立ち上がり、食堂を出て行った。
「人間違いかしら」
「さあ、朝から迷惑な人もいるものね」
お姉様方のそんな会話を聞きながら、わたしはたっぷりとフルーツの乗ったパンケーキをひたすら食べ続けていた。
「……ステラ、お前そんなにお腹が空いていたの?」
「いえ、こんなに美味しいものを食べられるなんて、本当に幸せだなと思って……」
「はあ?毎朝食べているじゃない」
お姉様は得体の知れないものを見るような目でこちらを見ていたけれど、わたしは気にせずにフォークを口に運ぶ。
ああ、なんて美味しいんだろう。わたしは一口食べる毎に、とろけるような幸せを噛み締めていた。昨日までのわたしは、これを飽きたなどと言っていつも残していたのだ。今ではそんな自分を、引っ叩いてやりたいとすら思う。
「ですから! 我が家にそんな名の娘など、」
「彼女がここに居るのは分かっているんだ! それ以上隠し立てするようなら、お前ら全員皆殺しにするぞ!」
み、皆殺し……!?
すると突然、玄関からひどく物騒な言葉が聞こえてきて、思わず口に入っていたものを吹き出しそうになった。お母様やお兄様達も皆、驚いたように顔を見合わせている。
尚も言い争うような声は続き、お姉様に「ステラ、ちょっと見てきなさい」なんて言われてしまい、わたしはしぶしぶナイフとフォークを置き立ち上がる。
そうして玄関へと歩いて行き、様子を見たらすぐに戻ろうと思っていたけれど。言い争う二人をこっそりと柱の影から覗いた瞬間、わたしは息を呑んだ。
お父様と向かい合うようにして立って居たのは、人間とは思えないほど輝くような美貌の、一人の男性だった。
漆黒の艶やかな髪に、同じ色の瞳。その整いすぎた顔立ちには、神々しさすら感じられる。その服装や装飾品から、彼が隣国のかなりの身分の人物であることが見て取れた。
あまりの美しさに目を奪われ見惚れていると、吸い込まれそうな漆黒の瞳と、不意に視線が絡んで。そして次の瞬間、彼の切れ長の瞳は驚いたように大きく見開かれていた。
「っドロシア……! やはり、ここにいたんだな!」
「えっ?」
そう言って彼はお父様を押しのけこちらへと来ると、きつくきつくわたしを抱きしめた。その上、すりすりと頬擦りまでされてしまい、わたしは石造のように固まってしまう。
けれど何よりも、彼が先程わたしをドロシアと呼んだことに、驚きを隠せなかった。
それはつい昨夜思い出したばかりの、わたしの前世での名前だったからだ。
「ドロシア、会いたかったぞ!俺はあれから120年も待ったんだからな。それにしても今回のお前は、なんだか小綺麗な感じなんだな。肉もちゃんとついているし」
「に、肉……?」
訳のわからないことを話し続ける彼に、至近距離でぷに、と頬をつままれ、顔が熱くなる。
普通に考えればいくら相手が偉くとも、侯爵令嬢に対してこんな態度をとるなど到底許されるものではない。けれどそのあまりの自然さに、わたしはされるがままだった。
色々と気になることはあるけれど、わたしはまず、一番気になっていた事を彼に尋ねてみることにした。
「……あの、どなた、ですか」
するとわたしのその言葉に、彼はこの世の終わりのような、ひどく傷ついたような顔をした。
その様子に少しだけ胸が痛んだけれど、前世と今世を合わせたって、わたしにこんな美しい知り合いなどいないのだ。こんなにも綺麗な顔とおかしな態度をした人間など、一度会えば絶対に忘れないだろう。
「お、俺のことがわからないのか……?」
「すみませんが、全く……」
すかさずそう言うと、彼はよろよろと後退る。
かと思えば次の瞬間には、何かを思いついたようにハッとした後、すぐに眩しいほどの笑顔になっていた。なんとも忙しい人である。
「そうか、この姿で会うのは初めてだったからな」
そんなことを言うと、彼はわたしの腕をぐいぐいと引いていき、屋敷の外へ出た。そのまま庭の一番広い部分まで行くとわたしから手を離し、数歩後ろへ下がる。
「これなら、わかるだろう?」
そして彼が満面の笑みでそう言った次の瞬間、わたしの目の前には巨大な漆黒の竜が現れていた。
「…………え、」
一体、何が起きたのだろう。人が、竜になった。
視界の端で、使用人やお父様が腰を抜かすのが見えた。わたしも呆然としながら、目の前の竜を見上げることしかできない。間違いなく、人生で一番驚いた瞬間だったと思う。
「思い出したか?」
「……ぜ、全然、わかりません」
目の前の竜は嬉しそうにそう言ったけれど、申し訳ないこことに、余計にわからなくなっていた。わたしに竜の知り合いなどいない。むしろ生まれて初めて見たくらいだ。
やがてぽんっという音と共に、彼は再び人間の姿へと戻ると、ふらふらとわたしの元へとやって来た。
「どうして、俺を忘れてしまったんだ……?」
彼は今にも泣き出しそうな顔でわたしを見つめていて、そのあまりにも悲痛な表情に、何故だか胸がずきりと痛む。
「あの、貴方のお名前は……?」
間違いなく彼とは会ったことはないけれど、万が一と言うこともある。少しでも何か思い出すきっかけになればと、わたしは彼にそう問いかけてみた。
すると彼はきょとんとした表情を浮かべ、言ったのだ。
「お前がつけてくれたキースという大切な名を、俺が捨てるはずがないだろう?」
そしてその瞬間、わたしは思い出していた。
前世で拾い育てていた小鳥に、キースと名付けた事を。