舌立ち
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
先輩の舌って、何色ですか?
あっ、「そんなこといったって、人間の舌はたいてい赤系統だろ?」とか思っている顔ですよ、今の顔。
いいからいいから、べーっと舌出してください、舌。根っこがのぞいちゃうくらい、べーっと。
――ほむほむ、ちょーっと白い感じですね。じゃあちょっくら失礼しまして……せいやっと!
おお、取れた取れた。良かったあ。お昼に牛乳とか飲んでましたかね?
いや、いきなりティッシュで拭ったご無礼は、お許しください。実は僕、昔から追いかけているものがありましてね。そいつ、人の舌にくっつく厄介な奴なんです。
人間の舌が色を失う時には不調の証って、聞いたことありません? 舌そのものの異状だったり、全身性の病気だったりと厄介なものが色々と存在するんです。でも、中には別方向で物騒なものが現れることがあって……。
ん? 先輩、興味あるんですか?
その日、僕は盛大に舌を噛みました。
ちょっと大きめのステーキが晩御飯で出ましてね。ナイフとフォークの扱いがへたくそな上に、食い意地が張っている僕は、サイズそのまま。口から半分以上はみ出るステーキをくわえこむと、前歯で懸命に引きちぎります。
離された片割れがハネを飛び散らせながら皿の上を転がり、家族がちょっと顔をしかめますが、そんなことお構いなし! 僕は口いっぱいにほおばった肉をかみしめます。
僕は肉そのものもですが、脂身も大好きでして。歯を突き立てた時のやわらかさ、肉汁のジューシーさを味わい、「生きてて良かった〜」と頭の中に幸せが注がれてきます。
飲み込まない限り、こいつを長く味わえるんですからね。逃す手なんかなく、僕は延々と脂身をいじめていました。
そうして力がこもった時、舌の中ほどで「ごり」と音がし、遅れて痛みが走ります。思わず僕は手で口を押さえてしまいました。
舌を噛む瞬間って、ものすごく痛いですよね? 以降はさほどではないとはいえ、その瞬間は歯と歯に、遠慮ない力でサンドイッチされる舌。そりゃ飛び上がりたくなるわけです。
洗面所へ駆け込みましたよ。備え付けのティッシュを取って、すっかり身体を崩した脂身を吐き出します。血はついていませんでしたが、べっと口から出して鏡に映すと、舌の真ん中あたりの側面に、赤いシミが。そっと歯を当ててみると、やはり飛び跳ねたくなる痛みが。
もう食事を楽しむどころじゃありません。幸い、うがいならさほど強い痛みを味わわずに済み、僕は血が表に出てこなくなるまで、盛大に口をゆすぎます。
「口の中は直りが早いから、下手にいじらない方がいいよ」
親から受けた忠告の通り、僕は患部には触れず、大好きだった夜食も我慢して布団に入ります。翌日には、すっかり良くなってくれることを期待して。
朝。目が覚めるや、再度洗面所の鏡を覗き込む僕は、驚きを隠せませんでした。
血は止まっています。昨晩、血が出ていたところは、白いかさぶたらしきもので見えなくなっていましたが、その範囲が広い。まるで包帯を巻いたように、一センチ程度の太さで舌を横へ横断しているんですから。禁を破り、ティッシュでこすってみましたが、わずかな色落ちさえ見られません。
両親に相談したところ、「これはますます、下手にいじらない方がいい」と言われて、放置安定です。その日もまた間食を控えることになり、ちょっとストレスを感じてしまいましたね。
二日目、三日目も同じような状態で、そろそろ治ってくれないかなあと期待を込めた四日目。目覚めてからの文字通り開口一番。白かった部分は、紫色になっていたんです。
今度の色は拭うことができました。触れなくても、口の中へつばを溜めるだけで洗い流すことができます。ただ、時間を置くと内側から染み出し、色を元通りにしてしまうんです。
これまでのように、色が拭えなかったら親に話していたでしょう。でも、この時の僕は一時しのぎでも色を落とせたことで、つい考えがよぎっちゃったんですよね。「親に頼らず、事態を解決したい」と。
僕が相談しないせいか、親の方から僕に経過を尋ねてくることもありませんでした。きっと自分の経験も込みで、治ってしまったと思っていたのでしょう。実際、ひどくない口内炎の類なら数日で落ち着くことが多いですし。
で、僕はというと家のみならず、学校でもうがいを徹底するようにしました。口をゆすぐたび、汚れかけていた僕の舌は、白さを取り戻します。その状態で胸をなでおろしていたのですから、僕ももうおかしくなっていたんでしょうね。本来の舌はもっと桃色がかったもののはずなのに、そこに違和感を覚えなくなっていました。
そうして一カ月半が過ぎた夜のこと。
前に歯医者さんで指導を受けて以来、僕は歯磨きにだいぶ時間をかけます。前歯の前面から歯の裏側まで、何分も費やして、ようやくうがいタイムです。歯磨き粉は使わない派なので、たっぷり水を口に含みました。
その吐き出す寸前にですね。飛び出しちゃったんですよ、僕の舌が。
先っちょだけ出たわけじゃありません。本当に舌全体がぼろりと取れる感覚がありました。
でもね、妙なんですよ。普通、本当に舌が取れたのだったら、根っこの部分の断面がありそうな感じでしょう。それがこの舌、ミミズのようにどちらも同じような先端を持っていて、前後が分からない。
蛇口から飛び出す水に打たれ、びちびちと小さく跳ねるさまは、金魚のそれを思わせますけど、僕自身はそれどころじゃありません。手を口に突っ込んで確かめると、舌はちゃんとそこにありました。
けれど、おかしい。つまんでいる感覚はあるのに、味がないんです。
自分の指、なめたりしゃぶったりした経験、先輩もありますよね? まったく味がしないなんてないはずです。食事の後でなくとも、汗のしょっぱい味が臭いと共に口の中と鼻の裏を這いまわる。そんな経験が。
なのに、それらを一向に感じることがない。
戸惑っている間に、双頭の舌は水と一緒に排水溝へ流れていきます。髪の毛を防ぐ金網がついた、小さい穴。とても通り抜けられないはずのすき間へ、舌は押し出されるところてんのように突っ込み、中へ中へ落ちていくんです。
その間、血の一滴も出すことなく、このひと月あまり付き合い続けた白い帯を僕に見せて、舌は消えてしまいました。
僕の舌は形こそ元通りですが、味覚はいまだ完全に帰ってきていないんです。あの時、出て行かれたまま。
ひょっとしたら、誰かの舌にひっついちゃったんじゃないかと、今もこうして探しているわけです。