第二話 『二年生の始まり』
四月。旭高校では入学式を終え、桜はその役目を終えたかのようにピンク色の絨毯にその姿を変えている。
俺ー小島竜は二年目となる高校生活を二年五組で迎えようとしていた。窓側の後ろから二番目という自分の席に座ると、数学の参考書を取り出す。やはり朝は手と頭の運動になる数学に限る!
さっそく取り掛かろうとシャープペンシルを手に取った俺の視界に影が差した。何だ? 視線を上げると、そこには友人である茶髪のイケメン、小栗夏樹が立っていた。
「おはよう、今年も同じクラスだね。よろしく。……というか新学期早々に勉強に梓ちゃんを起こしたりと大変だね。梓ちゃん、二年生になったのを機に自分で起きたりはしないの?」
夏樹が本当に不思議そうに聞いてくる。その言葉に、俺は腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「あっはは! 梓が自分で起きる? そんなことありえない。白百合先生が嫁に行くようなものだぞ、それ」
なおも笑い続ける俺が夏樹を見ると、なぜだか俺の背後を見たまま石像のように硬直している。その様子から数学を解くように、俺は瞬時に自分が今取るべき行動を弾き出した。すっと席を立つと、全体重を前に傾け走り出そうとする。
ーが、俺の腕を骨ごと砕かんばかりの握力で捕まえる人物がいた。この時ばかりは流行りのアイデア次第で自由自在、組み換え可能な家具のような体になりたかった。そしたら俺は一寸のためらいもなく、捕まえられている腕を置き去りにしていただろう。
だが現実ではそんなことは起こらない。錆び付いた機械のような動きで、俺は後ろを振り返る。
「やあ、小島に小栗。今年も君たちの担任は私らしい。よろしく頼む」
黒い絹のような黒髪を肩口あたりまで伸ばした二十代半ばの女性、白百合沙希が立っていた。艶然と微笑む表情を見れば、一目惚れする男がいてもおかしくない和風美人だ。
「よろしくお願いします」
夏樹が爽やかな笑顔とともに返事をするが、俺にそんな余裕はない。万力と呼べる握力で俺の手首は締め上げられているのだ。きっとこの人の握力なら、道具を使わずにジャガイモをすりつぶしてマッシュドポテトを作ることができる。そんな強さだった。
「小島、挨拶はコミュニケーションの基本だぞ」
「よ、よろしくお願いします」
痛みで散り散りになっている意識を、急いで集めると俺はようやく挨拶を返す。
そんな俺の様子に満足げに頷くと、ようやく俺の手は解放される。助かった。赤と白の新装開店の垂れ幕のように綺麗に分かれた自分の腕を俺がさすっていると、白百合先生が俺の耳元に口を寄せる。甘い吐息がかかり、ゾクゾクしたものが背筋を這い上がる。白百合先生は小声で囁いた。
「私が結婚する時は是非君も読んであげよう」
「いや、そんな悪いですよ。きっと大した余興とかも俺じゃできないですし」
「それなら私が協力するから大丈夫だ」
頼りになる大人の姿をした女性の姿がそこにはあった。
「ケーキ入刀の前に私がお前に入刀してやろう、楽しみにしておけ」
それを死刑と呼ぶ以外何と言えばいいのだろう。青ざめる俺の顔を見ると、先生は嬉しそうに教卓に向かっていった。
「はいはい、席につきたまえ。今年君たちのクラスを担任する白百合沙希だ。よろしく頼む」
おしゃべりに興じていた生徒たちが、徐々に席に着き始める。全員が席に着いたのを確認すると連絡事項やら提出物の話やらを話し出す。やがて話は二年生の心構えといった定型文のようなものに差し掛かった。
「……ということで君たちの学年は色々な場面で他の者を引っ張っていく役割が多いと思う。ところで今引っ張っていくという話をしたが……小島」
急に名前を呼ばれた俺は、慌てて背筋を正す。一体朝から何を聞かれるのだろう。先生の言葉を待つ。
「まだ全校集会が始まるまでに時間がある。小島は手始めに熊谷を指導室から引っ張ってこい」
思わず目が点になる。俺はガバッと後ろの席へ振り返った。朝の一件で気がつかなかったが、梓がいない。そこではたと気がつく。そうだ、俺が窓を閉めたせいじゃないか。だけど
「ではよろしく頼む。他の者は自由にしてよし、解散!」
再びおしゃべりに興じるクラスメイトをよそに、俺は先生の元に走り寄る。
「先生、あんな屍みたいなやつ、何で俺が」
「小島! 仮にも女の子だぞ、そんな言い方するんじゃない。そもそも小島は熊谷の飼育係だろ?」
屍扱いはよくないけど、動物扱いはいいのかよ。先生の判断基準が分からない。
「わかりました、梓は指導室にいるんですね?」
俺がため息まじりに尋ねると、先生は首肯する。そのまま俺に背をむけると、背中越しに手をヒラヒラと振り、去っていった。