第十一話 『ヘンゼルとグレーテル作戦』
平穏な時間はあっという間に過ぎる。俺は八時のチャイムで、数学の参考書から顔を上げた。集中していたせいか、ものすごくはかどった。
「すごいね、竜。今月の週末課題で設定されてるところ全部終わってるんだ」
横から夏樹が俺の方を覗き込みながら、驚いている。俺たちの学校では数学と英語について、配布された教材から週末課題が出されていた。
「ギリギリまでやらないで、追われるのは好きじゃないだけだよ」
ゆったりと教材を片付けながら、夏樹の方を見る。その手にはパンダのシャンくんに加えて、茶色のクマが増えていた。ご丁寧にシルクのような豪華な服まで来ている。俺の休日の格好よりもすごい。
「チャッピーだよ」
俺の視線に気づいた夏樹がクマの名前を教えてくれる。別に教えてくれなくてもいいんだけどな……。
「竜、ちょっと早いかもしれないけど、梓ちゃん起こしに行かなくていいの? 昨日はギリギリだったから、今日は少し早めの方がいいんじゃない?」
俺がのんびりしているのを見て、夏樹は心配になったらしい。だがその必要は今日に限ってはない。
「朝スマホを開いたら、梓からメッセージが来てたんだ」
そう言うと俺は画面を操作して、夏樹にそのメッセージを見せる。夏樹はシャンくんとチャッピーを両手に持ったまま、俺のスマホに顔を近づけた。
「何々。『明日はヘンゼルとグレーテル作戦を実行するから、起こさなくて大丈夫だよ!』か。本当に起こさないつもりなの?」
「まさか」
「というか『ヘンゼルとグレーテル作戦』ってなんなの?」
「俺もそれは初めて聞いたんだよ、また訳が分からないことをやろうとしてるんだろうな」
俺は鍵束を指先でくるくると回しながら答える。俺は小さい頃から梓のことを知っているのだ。その言葉を百パーセント鵜呑みにしてもいいかどうかなんて、分かっている。だが全く信用していないわけじゃない。確かに百パーセントは信用してはいないが、三パーセントぐらいは信用してるつもりだ。
「十五分前になっても教室にいなかったら、起こしに行くつもりだよ」
「そうだよね」
ひとしきりの会話を終えると、俺は夏樹を連れ立って教室に向かった。
時計が八時十五分を示す。梓の席は空っぽのままだった。梓の席はまだ昨日七並べをするためだけにしか使われていない。俺は自分の席を立つと、梓の家につながる三号館二階の窓に向けて、歩き出した。そしていつも通りの変哲もない窓にたどり着く。そして窓を一つ開ける。
ピリリリ、ポンピンパンピン、ドドドドド
ん? 何の音だ? 俺の周りの生徒も、いつもなら俺が梓を起こす様子なんて気にもとめないのに、今日は足を止めてこちらを見ている。
まあ、そりゃ気になるよな。俺はみんなの視線を背中で受け止めながら、最後の砦である窓を開けた。
ビンビロビン、バンバンバン、ギンゴンガンゴン、ドドドド
窓を開けると、そこは騒音の動物園だった。鼓膜が破れそうな轟音が辺りに響き渡る。俺の様子を見守っていた生徒たちもクモの子を散らすように四方八方に逃げていく。
う、うるせえ! ってか梓の家の窓すごいな! こんな大音量をさっきまで防いでいたなんて! 俺は耳を両手で塞ぎながら、梓の家に向かって大声を上げる。
「梓、朝だ! 起きてくれ!」
だがどんなに声を張り上げても、俺の声は轟音に飲み込まれてしまう。しょうがない。俺は上靴を脱ぐと、梓の家に窓を通り抜け入り込んだ。




