田舎町の攻防
コントリバリーから南西に1日の距離にある小さな街トレステッドは大都会の南側における中継地点として常に賑わいがあった。
魔族等が人を脅かすようになったここ数年、コントリバリー領内のどの街でもその規模に関わらず壁と堀を外周に設ける決まりになっている。
ここトレステッドも木材で作った2重の壁と水を引いた堀を建築しており、材質は簡易ではあるがそれなりの防衛策を講じていた。
アナは覚悟を決めコントリバリーへ出立した日から僅か数ヶ月でこのトレステッドに戻る事になった。以前よりも進んでいる防壁の工事に目を向け、少しずつ故郷が変わっていく姿を見詰めながら物思いにふけっていた。
「アナ、店先の掃除が終わったら、3号室の掃除もやっておいておくれよ!」
「なによ、せっかく娘が帰って来たのに、少しは労ってよね」
「あんた分かっているでしょう? 家には働かない者に食わせる余裕はないよ」
「はいはい、分かっていますとも」
故郷に戻って早々に休む暇もなく実家の宿業の手伝いをしている。
アナにとっては数週間前の悪夢のような出来事と奇跡のような救出劇に現実味を感じる事が出来ず、今は昔通りの慣れた日常が帰って来たという錯覚に陥る。
家族にはただの休暇であり直ぐ冒険者稼業に戻ると伝えてあったが、本当はこれからどうするか自分でも分からない。
(私、やっぱり冒険者は向いてないのかな……)
すっかり町娘の格好をしている自分を誰が見ても冒険者とは思わないだろう。
心の迷いを掻き消す為に忙しい宿の仕事を引き受けた。そんな偽りの安堵の中、決断を先送りにして無心で働いていた所にアナへ来客があった。
宿屋を訪ねて来た客とはハンスだった。
「やあアナ、忙しかったか? 久しぶりに会いたくなってね。南西方面の依頼の帰りにここに寄って見たんだ。あとこれは家で取れた野菜だ、店の料理にでも使ってくれよ」
「あら、ありがとう。悪いわね。仕事の方は順調みたいね」
「身体も元に戻って、すっかり冒険者稼業に復帰している。本当にリサさん達には感謝しているよ。アナは魔術師組合の勉強会以外にもアルマさんやリサさんと会っているんだろう?」
「そうね、あの人は本当にすごいわ……。魔術開発のお手伝いとかをさせてもらっているのよ」
幼馴染とはいえハンスとは特別な仲では無い。
同じ見習い冒険者の同郷者としてよく行動を共にして街では助け合っていたが、冒険者を辞めるか否かを相談する訳にはいかないだろう。
彼にとっては迷惑な話だ。
「小さい頃、遺跡の広場で遊んでいた頃を覚えているかい? あの頃を考えると今が信じられないな」
「あなたは戦士職でしょう? あの頃は私の方が強かったわね」
「その通りだ。これからはもっと魔術の勉強に力を入れるつもりさ。悪魔との戦いで重々感じたよ、剣技だけじゃ太刀打ち出来ない」
「あれは仕方ないよ。嵌められた訳だし」
「ところでアナ……。いったい何時コントリバリーに戻ってくるんだ? 冒険者をやっているなら大変なこともあるだろう。何かあるなら頼ってくれ、何でも聞いて欲しい」
仏頂面のハンスが急に息巻いて話出したので、驚いたアナはしどろもどろになった。
「えっ? えっと、いつか戻るわよ。そうね、相談事があったらお願いするわね。あ、ありがとう。じゃあ仕事に戻らないと行けないし、明日は朝から修道院のお手伝いもあるから、また今度ね」
逃げるようにコントリバリーを出て来た同郷の冒険者に怒りを覚える事に無理はない。悪魔との戦闘が多くなる中、冒険者の成業からの離脱は敵前逃亡と捉えられて当然である。アナは仲間から非難の言葉を受けたように感じ、肩落として仕事場へと戻っていった。
次の朝、アナは冒険者の姿をしていた。
冒険者を続けるかの迷いの中でこの服装と装備一式を身に纏うのは気が引けるが、お世話になった修道院に冒険者としてお手伝いをする約束をしていたから仕方ない。
手伝いというのは治癒魔法の勉強会の助手のような仕事だった。
この世界では生活魔法や簡単な治癒魔法等は一般人でも才能ある者はその能力を活かして身につける。
冒険者の先輩が直接手解きしてくれるというのは、学習者からしてみれば上達の近道でありがたい事だった。
アナが小さい頃に修道院の勉強会に参加した時にも同じように先輩の冒険者が来た事がある。
所謂先輩の義務でもあり、この連鎖が小さな街の修道院の勉強会を支えていた。流石にそういう会に町娘の姿で参加することは出来ない。
「あらアナ、おはよう。立派になったわね」
「はい、おかげさまで。今日はよろしくお願いします」
世話になった修道女に挨拶を終えて、勉強会を行う大部屋で準備を進める。自分が最も得意な治癒魔法の事なら少しは役に立てるだろう。
魔術の勉強といえば先日手伝った、アルマとの実験は実に衝撃的な出来事だった。
彼女は淡々と実験を進めていたが、少なくとも効力が発揮された2つの魔術はこれまでこの世界に無いであろう新しい魔術であり、その効果は恐らく最高位に属するのでは無いかと思えたのだ。
魂の接触によって記憶の中で垣間見た数々の魔法陣を考えると、彼女はこの世界にどれだけ大きな影響を与える事になるのか──。
今日は装備一式を何も考えず持って来ているが、現役の冒険者として見える事も箔が付いて信用を得られる。
当然背負い袋に入っているアイテム等は必要が無い無駄な荷物になってしまった。
開始時間が近づくと部屋に学習者が入って来る。皆は修道院で保護している孤児の中で才能がある者か、自ら何かの技術を身につけようとする平民達であった。
皆敬意を払い、見習い冒険者に対しても会釈をする者もいる。
「では、皆さん揃ったようですね。勉強会を始めましょう」
講師の修道女が勉強会を始めようとした時に、町の中心部から甲高い警鐘の音が響き渡った。
「何があったのでしょうか……」
「私、様子を見て来ます」
アナはこの鐘の音を何度か聞いたことがあった。
多くは火災が起こった時に鳴らされる物だが、修道院の外に出て辺りを見回すと人々の慌て方が尋常では無い。
少し先の通りを小走りで通る衛兵がいたので声を掛けてみた。
「あ、あの、一体何があったのですか?」
「魔族だ! 襲撃だよ! あんたも戦えるなら、南側の防壁付近に来てくれ!」
「襲撃ですか!? なぜ、ここを……」
「分からんが、敵はかなり多い。この街はもう駄目かも知れん……俺たちは何とか時間稼ぎをして住民を北側から逃すつもりだ」
「そ、そんな!」
男は警鐘が鳴り響く中、南側に走って行った。
アナは状況を理解すると途方に暮れた。安寧を求めて故郷に戻って来たのに、どうして命の危険にいつも巻き込まれるのだろう。気を落としながらも急いで修道院に戻った。
修道女達に外の出来事を告げると彼女達は誰一人嘆く者も無く、勇敢にも戦場に出て治癒を行う者と、避難者や怪我人を受け入れる者と別れて準備に取り掛かった。
それを見ていたアナは心中葛藤していた冒険者としての思いが愚だったと恥ずかしくなり、自分に対して怒りが込み上げて来た。
「私は南側の防壁に行って来ます!」
アナはその場から直ぐ近くにある実家の宿屋に行き、まだ残っていた家族に北側から逃げる様に伝え南の防壁へと向かう。
家族を助け、小さい頃から世話になった修道院、それに自分の故郷を守りたい。
この街には僅かだがコントリバリーの中継地点として冒険者が滞在していることが多い。衛兵もリストーニアの事件以降、数十名は常駐するようになった。
アナは走りながらリサ達が成功させたリストーニアの撤退戦の話を思い返した。
(私も冒険者の端くれとして何か出来るはず……)
トレステッド南側、内側の壁から少し離れたところにある居酒屋が本陣として使われており、その付近には30名の衛兵と20名程度の冒険者達が戦いの準備をしていた。
「アナと申します! 下級の攻撃魔術が少しと治癒魔法ができます」
「よく来てくれた歓迎する。魔術師隊は中央の足場から、出来るだけ広範囲でぶちかましてくれ」
「はい、やって見ます!」
まだ工事中の内側の壁を通り抜けて数メートル外側にあるもう一つの壁には、一定間隔で足場が設けられており、その上には冒険者のパーティや弓兵が疎らに数人ずつ待機していた。
物見台にはレンジャーの冒険者が外部の様子を窺いながら逐次状況を報告している。
衛兵に案内された場所は、どこのパーティにも所属して無い2人の魔術師が待機していた。
足場まで登りその上に立つと一気に壁に遮られていた視界が晴れて、鋭利にとがらせた木材の間から遠くまで状況を見渡す事が出来た。それは身が縮む様な光景で敵軍勢がびっしりと大地を埋め尽くしていた。
今まで遭遇したアンデッドを想像していたが、目の前にいる種族はオークだ。そして中心には巨人のオーガ1体が目に付く。
「おいおい。もう少し頭は伏せて」
「オークどもは、弓やスリングも使うからね」
明らかに自分より戦い慣れている男女2人の魔術師は、落ち着いてアナに状況を説明した。
「敵は、1,000はいるな。それに一応だが統率が取れている。今は様子を窺っているが、もし正面からまともにやったら話にならない。救援要請は出たが早くても1日掛かる。だから出来るだけ時間を稼ぎ、最悪はこの街を明け渡して援軍と合流が最善だろう」
「そういえばさっき街の明け渡しを条件に停戦を申し入れようとしている者がいたのよね、余計なことはしないで欲しいのだけど……」
「今戦いが始まってしまったら明日までは持たないぞ。残念だが街は放棄する事になるだろうな」
「そ、そんな! それじゃあ、あいつらに街が蹂躙されてしまう」
「だからこそ住民が退避する時間を稼ぐのが我々の戦いだよ」
「やつら街を囲む様子は無い。今なら北側から逃げることは容易だろう」
どうにか故郷を守りたいと思いここまで来たが急に残酷な現実を突きつけられ、アナは自分の無力さを怨んだ。
「そ、そうですか……」
だが戦い慣れた先輩達の言うことを聞く事が今の最善かもしれない。憤る気持ちを抑え、とにかく今は指示が出るまで待機しているしかない。そう考えて足場に座り込んだ時に辺りがざわめき出した。
「あのバカ、本当に行ったよ」
「くそ! こちらの戦力の無さを露呈するようなものだ!」
2人の嘆きを聞いて頭を低くしていたアナは、外で何が起きているのか確認する為に再び木材の間を覗き込んだ。
壁の外に広がる草原、手前にはまだ収穫前の肥沃な畑が広がっていた。
草原にびっしりとオークと巨人が陣取っている所に、人間の騎兵が旗を揚げて3騎ばかり何か声を発しながら向かっている。
巨人が合図をするとオークの軍勢が3騎を迎え入れるように中央から割れていった。その先には1体の巨人が待ち構えている。
3騎は巨人の前まで来ると、友好的な態度で挨拶をして何かを話し出した。恐らく女性の魔術師が言った通り停戦の申し出をしているのだろう。
この街を守る為に居るはずの兵士が勝手にそのようなことを交渉してしまい、戦わずして故郷が奪われるなどという事は到底承諾出来ない。
アナは怒りを押し込めるように呟いた。
「ゆ、許せない……」
「時間を稼いで睨み合いを続ければ、いずれ援軍が来るというのに……数に怯えたか……」
「あいつらに人間の作法が通じる訳無いわ。無事じゃ済まないわよ?」
足場で待機している他のパーティからも非難が聞こえてきた。
外からはオークの軍勢が騒ぐ音が聞こえてきた。木材の間からもう一度外を覗き込むと、3騎の一番前にいる恐らく隊長騎に対してオーガは巨大な棍棒を振り上げ威嚇している様に見える。
恐らく交渉は決裂したのだろう。
次の瞬間、巨人の怪力によってもの凄い速度で棍棒が横に大きく振り抜かれた。
「グシャリ」と寒気がする嫌な音がここまで響き、その後には手綱を握ったまま首が無くなった隊長騎が、ゆっくりと身体を後ろに仰け反らせて落馬した。
「オオオオオオオオォー!」
地鳴りのような巨人の雄叫びが響き渡りそれを合図にオークも雄叫びを上げながら、まだその場に残っている兵士に襲いかかった。
残りの2騎はオークの軍勢から逃れようと、防壁の門に向かって一直線にその場を駆け出した。
「な、なんてことを……」
「くそ、これで始まるな。仕方ない、あの二人を援護するか」
駆け戻る2騎を援護する為に一斉に弓矢が放たれる。
最初の攻撃にオークは何の構えも無かった為に何体かは致命傷を負った。魔術師達は攻撃の準備をしてはいるが、まだ距離があって手をこまねいている。
全速力で馬を走らせる2騎に左右からオークの軍勢が迫り来る。どんどんその距離を詰められ、後方を走っていた1騎がオークの軍勢に飲まれてしまい、見るも無惨に串刺しにされてしまった。
その犠牲によって出来た隙を突いて最後の1騎は逃げ道を見つけ走り続ける。
距離が近づきようやく魔術師達の援護が始まった。魔術の範囲攻撃で追っ手の数が幾分減りはするがまだまだ多い。
アナはすれすれで攻撃を回避して馬を上手に操りながら逃げる騎兵から目が離せなくなっていた。
「あ、あぶない! 逃げてー!」
「あと、もうちょっと。そうそう、がんばってちょうだい……よし、今だ! 〈フラッシュ・フレア/光閃の目眩まし〉」
隣の女魔術師が魔術を発動した。
逃げる騎兵の後ろで瞬間的に大きな光が輝いてオーク達は視界を奪われ立ち止まった。
味方を巻き込みかねない目眩ましだったが、騎兵はこの好機を逃さず門の内側に逃げ切った。
「あああぁー! 目が、目がぁ!」
「あらら、ごめんね。直ぐに見えるようになるからさ。まったく、撤退の時に取っておこうと思ったのにねぇ」
「生き残ったら、あいつからおごって貰うと良い」
敵軍は1騎に注目していた為に目眩ましが全体に影響を及ぼした。その隙を見て、防壁の足場で待機していた攻撃部隊は弓や魔法攻撃を一斉に放つ。
熟練の魔術師から見習いまで腕前はバラバラで統率の取れていない攻撃ではあったが、範囲攻撃に巻き込まれて少しでも傷つけば、アンデッドとは違いオーク達は怪我を負い動きが悪くなる。
(これなら私だっていける!)
〈ファイヤーボール/炎の玉〉
一日に数度しか使えない攻撃魔法をアナは出し惜しみ無く発動させた。辺り一面に蠢く軍勢に飲み込まれるように火の玉は消えていく。
壁の正門は可動橋がすでに引き上げられていたが、外周の堀はそれほど深く作られておらず巨人が何本か丸太を投げ込むと、積み上がった丸太が防壁までの橋になった。
梯子を持ったオーク達が一斉に丸太を渡ろうとするが、それを阻止するために弓や魔法攻撃が放たれる。
アナ達は多すぎる敵に対して消費が大きい魔法を撃ち続けることができず、投石や熱した油を流したりして登場を試みるオーク達を落とすのが精一杯だった。
しかし、応戦するには数が圧倒的に足りない。
全力を尽くして退けているが、次から次へと向かってくるオーク。
この攻防が続けられたのは小一時間程度で、ついにオーク達の中には木製の壁を登り切ってしまう者達が出て来てしまった。
一箇所が崩れると、そこから雪崩れ込む軍勢を止めることが出来ない。
外側の防壁の中は大混戦になった。
「内側の壁まで退避だ! 急げ!」
「近接戦闘が出来るものは、この場所でもう少し踏ん張ってくれ!」
誰かが大声で叫ぶと足場で応戦していた魔術師の攻撃部隊は、まだ工事途中の内側の防壁に逃げ込んだ。
それを支援するように兵士と戦士職の冒険者がオーク達を迎え撃つ。
アナは足場から内側の壁に逃げる途中にハンスの姿を見た。
幸い外側と内側の壁の距離がさほど無いために囲まれることは無く、兵士達は辛うじて敵軍を食い止めていた。
その時間を利用して内側の壁に逃げ込んだ攻撃部隊は、開戦時と同じ様に足場に登り再度敵を迎え撃つ。
「こりゃあ、かなりまずい状況になって来たわね」
「住民の避難はどうなっているんだ、もう間に合わないぞ!」
弓と魔術の一斉攻撃に怯んだオークの隙を突いて、戦士職の部隊が内側の壁に撤退する。
「お嬢ちゃん、あと魔術はどれくらい使えるの?」
「あとは、もう治癒魔法くらいしか出来ません……」
「そう。それならここは私達に任せて、あなたは後方に行って怪我人を回復してやった方がいいわ」
「そ、そんな、私も投石でも何でもお役に立ちます」
「いやいや、そういうことじゃない。さっきの混戦で傷ついた者を戦線に戻すんだ。重要な役目だぞ」
「あっ、はい! そうですね!」
感情的になっていたアナは冷静になり、怪我人がいる本陣として使われている街の居酒屋まで大急ぎで向かった。
建物の中に入ると10人程の怪我人が寝かせられており、2人の修道女が手当をしていた。
「アナ! 大丈夫でしたか……戦況はどうですか?」
「思わしくありません、早く住民の皆さんと避難を。この街から逃げていただかなくては……」
「やはりそうなのですね……避難の準備は進めています、動ける者は皆北門に集合している筈です」
「そうですか、良かった。もう時間がありません。皆さんも向かってください」
横たわっている怪我人達の中にはまだ治療を受けていない者がいた。
アナは最も状態が悪い者を選んで治癒魔法を使う。
一度に発動出来る回数はアナの実力では3度が精一杯だったが、魔術を施した3人は無事に動けるようになり戦線に戻って行った。
アナはマナを使い果たしてしまい、魔術ではない通常の手段で怪我人の手当をしていた。
(どうにかして移動しないと……もうすぐ壁が破られて、いずれここにも敵が来てしまう)
アナは怪我人達を何とか運ぶ方法を考え、農作業用の手押し車を用意してそれに怪我人を載せて移動することにした。
準備を進めようとしていたところに、また一人怪我人が運び込まれて来る。
兵士が担ぎ込んだ怪我人は瀕死の状態にあった。全身血だらけで顔が半分潰れ誰か判別するのが難しい程だったが、それはアナは見覚えのある装備だった。
「すまん! 彼を頼むぞ」
「えっ! ハンスなの!?」
「ア、アナなのか……」
怪我人を運んできた兵士は直ぐに持ち場に戻るために前線に戻って行った。
これほどの重傷では魔術の力を借りなければハンスは死んでしまうだろう。アナは治癒魔法を限界まで使い切ってしまったことを後悔した。
この場所にいる修道女達も既に治癒魔法を限界まで使い切ってしまっている。
前線で戦っている魔術師で治癒魔法を習得している者を探してここに呼んでくる事は、あの戦況では難しいだろう。
誰も彼を救うことが出来そうもない。
「ああ、ハンス。こんなになるまで……ど、どうすれば……」
「ア、アナ、最後に君に会えるなんて…………」
アナは動転した気持ちを抑えて、どうにか僚友を救う為に考えを巡らせた。何か手は無いかと自分の背負い袋を見た時に、すっかり忘れていた重要な事を思い出す。
あまりに高級品だったので使うつもりが無く見過ごしていたアイテム。アルマと魔術実験をしていた時に譲ってもらった羊皮紙の巻物を背負い袋から取り出した。
動物実験を行なった『萎靡の再起』は、死に際の鯉を見るからに全快させることが出来る魔術。これがいかに高位魔術だとしても羊皮紙の巻物として魔法陣が描かれている物は僅かなマナで発動することが出来る。
それは今のアナでも十分だった。
「こ、これを使うしかない!」
アナは急いで巻物を広げてハンスに向かって『萎靡の再起』を発動させた。
人間に使うのは初めての筈だが、何故かアナはアルマに対して絶対の信頼があり成功を信じて疑うことは無かった。
魔法が発動されると瀕死の体は輝きを放ちその光が落ち着くまでの一瞬の間にハンスは元の見知った顔に戻った。
革鎧や装備はそのままで寝かせていたので身体はどうなっているか確認出来ないが、その必要は無かったようでハンスは信じられない面持ちで起き上がった。
弄るように重度の怪我を負った箇所に手を当てて確かめている。
「これは……どういうことだ。俺は助かったのか……」
「よかった、成功した……」
その様子見ていた修道女達は言葉を失い驚いていたが、直ぐに天を仰ぎ神に祈りを捧げた。
「アナ、ありがとう。これなら戦線に戻ることが出来る」
その時、南側から轟音が響いた。
「何の音?」
アナとハンスは急いで表に出て音が響いていた南側を見ると上空に人の姿が見えた。それは意図的に飛行しているのでは無く、無残にも攻撃により吹き飛ばされた人達だった。
轟音の正体は遂に内側の壁が巨人によって破壊されてしまった音だった。
防壁はさほど距離が無いので戦況は良く見える。大穴を開けた巨人が壁の内側を伺っていた。
その巨人とオークの侵入を阻止する為に冒険者と兵士が必死に攻撃を仕掛けていた。
「もう、この町は終わりなの……?」
「アナ、僕は戦いに戻るよ」
「そうね…………それなら、せめて……」
アナはこの混乱の中でも同郷の冒険者に何とか生き残ってもらいたく、もう一つの切り札であるアルマ製の羊皮紙の巻物を取り出した。
『儚く消える影』は発動すればその姿を完全に消すことが出来る。うまく使えばこの状況の中でも生き残ることが出来るだろう。
「アナ、この戦いで僕は命を賭けてこの街を守るつもりだ。多分……もう戻っては来られないだろう」
「何をいっているの!? あなたも私も生き残ってこの町を守るのよ!」
「そうだな。そう出来たら良いけど……とにかく、君に最後に伝えておかなければいけない!」
アナは『儚く消える影』をハンスに向かって発動した。
「アナ! 僕はき……」
「よし! 成功したようね。その魔術は姿、音、気配を消す事が出来るアルマさんの作った魔術よ。それを使って生き残って。私は怪我人を北側に運ぶから!」
アナは魔術が成功した事に満足して、もうコミュニケーションが取れなくなったハンスを気にすることも無く、農作業用の手押し車を再び準備しようとした。
だがこの場所から壊された壁まで距離はそれほど遠くない。手押し車に手をかけながら最悪の戦況が目に入って来ていた。
巨人が破壊した防壁からオーク達が町に雪崩れ込むように侵入して来ているのだ。絶望的な状況を目の当たりにして、アナは自分の考えが浅はかだったと落胆した。
「とても、怪我人を移動させるなんて間に合わない……」
状況は思ったよりも悪く、今すぐにでも北門から避難をしなければ間に合わない程だ。
大挙して押し寄せる敵軍勢に対して成す統べ無く後退する友軍を見ながら頭の中が真っ白になる。
(どうしたらいいの……。私に何か出来る事は無いの?)
アナはここで死を意識した。
最後に何でも良い……ただ縋りたい思いで自身が尊敬するアルマから貰った最後の巻物『朋友の繋属』を取り出した。
これは実験に失敗した魔術で何も起こらなかったが、もしかしたら状況の違いや自分が発動する事で何か起きないだろうかという淡い期待を抱き巻物を広げる。
こんな時にアルマやリサがいたらと、2人の事を思うと胸が苦しくなった。
そしてアナは自身に対して巻物の魔術を発動させる。
「アルマさん、助けてください……」
魔術を発動するとその証として巻物は白く輝き掻き消えたが、実験の時と同じようにやはり何も起こらない。
アナは最後に手押し車を使って怪我人を出来るだけ乗せて北門まで走る決意をし、一歩前に踏み出した。
その時、突然気分が悪くなり立っていることすら出来ずにその場にしゃがみ込んでしまう。
「あれ? あ、あぁ。な、何これ? く、苦しい……」
まるで高熱病にでもなったのかと思うほど全身が熱くなって鼓動が早い。さらに酷い頭痛と体の痛みがアナを襲った。苦しさのあまり、そのまま地面にうつ伏せになって倒れてしまう。
「あ、熱い!」
意識が朦朧とする中、アナは何が起こっているのか理解しようとした。それは自分の身体に現れた変化に覚えがあったからだ。
霊体を悪魔に奪われアルマが自分に憑依していた時に感じた無尽蔵のマナと強大な魔力。
自分に起こった身体の異変は間違い無くアルマの巻物によるものだろう。苦しくてただその変化に耐えているだけだったが、身体の変化に慣れた為かアナは不思議とその負担から解放され自由に身体を動かす事が出来るようになった。
身を起こして見ると随分と鼻血を垂らしていたらしく、地面が真っ赤に染まっていた。
自分の体を確認してみるとまるで霊体の様な白い霧が纏わり付いている。
「アルマさん、この魔術は……そういう事だったんですね!」
アナは再び戦えるようになった自分の身体に希望を感じ、暴れまわっている巨人めがけて一直線に駆け出した。
「きっと今のこの身体なら、あれが出来るはず!」
巨人達に近づく為に本来のアナであれば出来る筈の無い技術、風の精霊魔法を使って空中に浮遊して進行方向にある邪魔な建物を飛び越える。
気流操作に慣れていないアナに着地は難しく、転げ回る様に民家の屋根に飛び降りた。
あっという間に巨人をその攻撃範囲に捉える距離まで迫る。周囲の冒険者と兵士の戦線は既に崩壊して、皆が撤退を余儀なくされている状況だった。
「お願い、上手くいって!」
アナは以前に体験したアルマの精霊魔法を真似た。
両手を振り上げて2本の上昇気流を発生させ魔力を注ぐ。2本の凄まじい上昇気流は、発生した周辺のオーク十数体を空高く吹き飛ばした。
次にアルマが以前して見せたように振り上げた手を交差させて、まるで故郷の収穫祭の踊りのように腕をグルグルと回した。
「回って! もっと回ってー!」
凄まじい魔力をどう扱って良いのか分からない中、無我夢中で上昇気流を操作していたところでつむじ風が出来上がった。
異常な暴風に気付き両軍はつむじ風に注目する。
アナは止まらない鼻血を気にも止めず、注ぎ込めるだけ魔力を出し続けた。
やがて力強いつむじ風はその規模を拡大して巨大な竜巻きへと変化する。オーク達は自軍の中心部に発生した巨大な竜巻きに驚愕して、どう対処していいのか分からず混乱が生じていた。
なおも竜巻きは巨大化し、破壊された防壁に使われていた鋭利に尖った木材を巻き上げた。
竜巻はそこにいる誰もが抗う事が出来ない凶悪な渦へと変化して、次々とオークを串刺してその色をどす黒い血の色に染めた。
アンデッドとは違い感情を持つオーク達は凶悪な竜巻きを目にして恐慌状態に陥る。
腰を抜かし這い蹲り逃れようとする者、武器を捨てて走り出す者、オーク達は次々と戦意を喪失して逃げ出した。
魔力を放出し続けてマナは減る気配がないが、見習い魔術師のアナの体は強大な魔力の扱いに悲鳴をあげていた。
全身が震えて鼻血が止まらないし、またしても酷い頭痛が起こり意識も朦朧としてきた。このまま竜巻きを操れなくなったら守るべき故郷を破壊しかねない。
(もう限界……安全な所に誘導して魔法を解除しないと……)
アナは最後の気力を振り絞って、赤く濁った竜巻きを破壊された防壁の向こう側に移動させた。
その進路はこれから街を侵略しようとしていたオーク軍の中を進む事になり、残りの敵軍を殺戮の渦に巻き込む。
外側の壁を過ぎて草原の辺りまで誘導した所でアナは魔法を解除した。
舞い上がっていた木材や巻き込まれたオークとその装備が多数落ちてきたが、ちょうど防壁が遮って被害はなかった。
竜巻きが発生した付近には多数のオークと巨人が木材によって串刺しにされていた。
この辺り一帯の誰もが竜巻きの動向を追って戦いを止めていたが、それが消え去った事で皆が我に返る。街に侵入していた残りのオーク達は完全に統率を失い、我先にと防壁の大穴に向かって血で赤絨毯の様になった竜巻きの進路跡をビチャビチャと駆け出した。
「うおおおお! 勝ったぞ!」
「おおおおぉー!」
「やったぁ!」
勝鬨を上げた兵士たちは完全に街からオークを追い払うべく防壁の外まで掃討戦を開始した。
到底扱う事が出来ないような巨大な魔力に翻弄されながらも何とか操作を成功したことに安堵して、気力が無くなったアナはその場に力なくへたり込んだ。
頭痛は消えて震えも止まり身体的な大きな負荷は終わった。体に纏わり付いていた白い霧は既に消えている。
「ううぅ、良かった……。アルマさん、ありがとう……」
アナは故郷が守られた事に、そしてアルマへの感謝に涙が出た。
統制無く逃げ惑うオークの残党狩りはあっという間に終わり、生き残った兵士と冒険者は戦局を決める大魔法を行使した英雄の元に集まって来た。
「おい、あれってさ。アナ・ケトリーじゃないのか?」
「あの噂のカーノルディンのか?」
「きっとそうだぞ、竜巻きの魔法だっただろ?」
地面に座り込み、なぜか泣いて鼻血を垂らしている少女の周りに多くの兵士と冒険者が集まって来た。
「マジで助かったぜ。あんた、この町の救世主だよ」
「あんたのお陰だ。今回は本当にやばいって覚悟していたんだ」
「そんなに若いのに、凄まじい魔力ね。あんな魔術、見た事ないわ」
賞賛の言葉が飛び交う中、アナは自分の話題になっている事に気が付き辺りを見回すと、沢山の兵士と冒険者達が自分を取り囲むように集まっていた。
「アナさん、ありがとう!」
「俺たちを救ったのはアナだ!」
「アナ・ケトリー! ありがとう!」
「アナ!」
「アナ! アナ! アナ! アナ!」
集まった人々は、戦闘員以外にも次第に増えていって、皆がアナの名前を連呼した。
「アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ!」
「ちょ、ちょっと! 違うんです! そんなんじゃ無いんですよー!」
「アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ! アナ!」




