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クワス (Quus)  作者: 宮沢弘
第二章: 対話: 計算機
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2−3: 現象学

 では、起動からそれ以降の処理は計算機にとってなんだと言えるのだろう。計算機自身にとっては、まず自己認識という要素があるだろう。それとともに、デバイスを認識し、ドライバ・モジュールによってそれとの接続、および利用可能になることは、計算機にとっての自己そのものが広がって行く過程とも言えるかもしれない。

 それは、ネットワークが機能をしはじめると、一層広いものとなるだろう。だが、それは後に考えることとしよう。単体の計算機にとってのこれらの処理がどういうものであるのかを考えてからでも遅くはないだろうし、なにより単体の計算機が起動してこそのネットワーク機能だろう。たとえ、その単体の計算機がどれほど小さいものであっても。

 計算機はカーネルがその中枢を担っている。カーネルはマイクロ・カーネルでない限り、一定の機能が一まとまりとなっている。linuxやその他のものはモジュール構成を取っており、カーネルとモジュール、あるいはモジュール間での通信により、計算機は起動し、また接続されているデバイスも含めて機能する。

 ここにおいて、計算機に意志はあると言えるだろうか。もし、起動している限り、機能を維持することが計算機の、あるいはOSの意志だと言えるなら――それが人間に与えられた目的であるとしても――、その限りにおいて計算機にも意志はあると言えるだろう。すくなくも、現在のおよそのOSは、DOSの段階のように、アプリケーションに計算機を支配するという座を明け渡すことはない。常に背後で、プロセス間の通信により計算機全体の状態を監視し、機能を維持している――すくなくとも維持しようとはしている。

 これは、各々のプロセスについても同じように言えるのだろうか。カーネル以外のプロセスは、自己認識を行なっていると言えるのだろうか。各々のプロセスは、計算機の全体ではなくとも、各々が担当する部分については知覚し、知覚に対応する反応をする。このような考えは、どこまで単純に考えることができるだろうか。

 最小に近いものを考えてみよう。エレベータは、時代を経て、少なくとも扉の接触センサーと荷重センサーがついている。エレベータは、少なくとも二つの知覚を持っている。この二つに限られた範囲ではあるが、エレベータは――あるいはエレベータの箱は――、自分自身の状態を理解している。また、この二つに限るならば、それぞれの知覚は独立したものではなく、すくなくともor回路によって結ばれている。それは、意志や思考と呼ぶには貧弱ではあるように思える。だが、それが人間に与えられたものであるとしても、安全という目的がある。

 加えて、エレベータには上下するという本来の目的がある。手動の時代でないなら、指示された階に上がる、あるいは下がるという機能がある。それは、およそボタンによって人間から指示される。この回路はいくらか複雑だとしても、これで三つの知覚があり、それに対応する反応が存在する。

 これら三つの知覚と反応は、エレベータの箱とモータに対して、周囲の世界と対応しており、それはエレベータの箱とモータにとっての世界の写像とも言える。それは、それらの存在、あるいは知覚と反応に先立って人間が与えたものである。

 世界の写像であることと、言語ゲームであることとは、ヴィトゲンシュタインにおいてあまり相性のいい考えかたではない。ヴィトゲンシュタインの前期の思想、あるいはフレーゲやフッサール――さらにはライプニッツやカント――の思想は、写像であると言えるだろう。対して言語ゲームは、言語が世界の写像であることを拒む。知覚、あるいは言語と世界は、言葉と振舞いによって関係し、それはまた人間に先立って存在するものではない――個人にとってはそのような面があるとしても。あらかじめ写像が想定されるのか、あるいは結果として関係が現われるのか。その二つは同一であることを根本から拒んでいる。

 あるいは、現在のエレベータは、待ち行列や群管理という技術が導入されている。一棟にある複数の、それも隣接したエレベータは、箱とモータの集りではない。人間にとってより便利なように機能する中枢を持っている。群管理を行なっているものと、行なっていないものにどのような違いがあるだろう。その違いは、「全体」の範囲であるかもしれない。群管理以前のエレベータはそれぞれの箱とモータ、そしていくつかの知覚からなるものだった。それらは隣接していても、かかわりのない、ただの「個」だった。対して、群管理を行なっているものは、隣接する複数のエレベータが「全体」となる。ここにおいて群管理されているエレベータの「全体」あるいは「全体としての個」は、基本となる三つの知覚だけでも台数分に増える。加えて、各々の箱の位置などの知覚も中枢に与えられる。方法としては、中枢に知覚が与えられるだけではなく、各々の箱が通信し、中枢と呼べるものは存在しない形態も考えられるだろう。その場合であれば、存在に先立って人間によって与えられた言語であるとしも、言語による通信が個々の箱とモータの振舞いに反映される。

 これは、言語ゲームそのものではないとしても、すこしなりともそれに近付いているように思える。もちろん、だとしても写像であり、言語ゲームであるとに違いはないとしも。

 では、計算機はどうだろう。プロセス間のプロトコルは定められてはいるが、パラメータはその時々によって、また計算機の状態によって異なる。パラメータも、プロセスによりパーズできるという条件があるとしても、さらに言語ゲームに近付いているように思える。複雑さという面も無視できないだろう。

 あの男性との会話が成立しなかったことを思いだす。それは、これらとどれほど違うのだろうか。あの男性の発言は、こちらの言語ゲームのルールに、あるいは私が参加している言語ゲームのプロトコルに、あるいはこちらがパーズできる言語になっていなかった。では、プロトコルとしての写像と――それがフレーゲらの写像とは異なるとしても――、言語ゲームのルールとはどれほど違うのだろう。


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