1−5: ヘテロ現象学
学会の最終日も終り、昨日と同じくコーヒーと弁当、そしてスイーツを買い、ホテルへと戻った。
朝、出かける時に、やはり部屋の掃除はいらないとフロントに伝えた。「二日めですが」とは言われたものの、タオルだけ新らしいものを入れておいてもらえるようにお願いした。部屋に戻り、まず壁の情報カードを確認し、それが乱れていないことに安心した。バスルームを覗くと、タオルが取り換えられていた。
タオルを取り換える際に、壁を見ただろう。汚しているわけではないが、奇妙に思われたかもしれない。
レジ袋をテーブルに置き、着替え、まずはコーヒーと弁当を引っ張り出した。壁の情報カードを思い出し、昨日の頭の中の配置を思い出した。
つまるところの問題は、「困惑 “-b”」と「是認 “+B”」であるように思えた。なぜ私は困惑したのか。だが、私は困惑したということしか、そこには存在しない。だとしたら、ここでは一歩引こう。なぜその人は困惑したのか。
その人は、異なるルールにもとづく発言を聞いた。異なるルールによる発言であるため、その人は、その発言の意味、あるいは意図を理解できなかった。それが困惑として現われ、「あぁ。えぇと……」という発言として現われた。
だとしたら、言語ゲームに限った問題ではなく、別の問題があるのではないか。あるいは言語ゲームという概念が内包する、別の問題があるのではないか。
脳機能はどこまでハード・コーディングされているのか。脳機能はどこまで言語ゲームのルールに支配されているのか。fMRIなどを用いた研究成果やDNA解析を待つまでもなく、それは示されていたのではないか。ユングによるアーキタイプ論、そして集合的無意識。それは、人間の認知や認識がどこまで生得的、つまりはハード・コーディングされているのかという問いでもある。あるいはプロップによるファンクション。なぜプロップのファンクションは存在できたのか。プロップのファンクションが結果ではなく、原因だとしたらどうだろう。そこにおいて、ユングの論とプロップの論は、同じ場所に辿り着く。人間は、人間自身が思っているようには、あるいは人間自身が考えているようには、それとも人間自身が考えているほどには、考えていないということだ。
それ自体は、とても古い問いだ。人間は意志を、自由意思を持つのか、あるいはオートマタなのか。
壁の情報カードが、あるいは私の頭の中に展開されているそれらの配置が示すのは、人間は限りなくオートマタに近いということに思えた。それは統計的な思考、あるいはデータ処理とも異なるものであるように思えた。人間は、現状の人工知能ほどにも考えてはいない。それが、壁の情報カードが、そして私の頭の中に展開されているそれらが示していることのように思えた。
この考えは、脳機能が統計的な処理である、あるいはそれを基礎に置いているという考えを、私が受け入れ難いと感じたときと似た気持ちを呼び起こした。それは、人間が、あるいは人間以外の動物も含めて、意志や思考が、ただの幻想であると言っているように思えた。いや、思えたのではない。実際にそう言っている。人間という存在が立つ位置が、ふたたび後退するように思えた。
受け入れ難いとしても、検証が必要であるように思えた。そして、検証が可能であるように思えた。検証が失敗すれば、それは人間、あるいは人間以外の動物も含めて、なんらかの、あるいはどれほど小さなものであれ意志や思考が存在すると言えるだろう。検証が成功すれば、私はこの考えを受け入れなければならない。そして、検証の方法は、言語に限るなら膨大なコーパスが存在する。それらが統計的に書かれたのか、統計的に書かれたのですらないのか。
その検証方法の基本的なアイディアは、あまりに単純なものであるように思えた。計算に時間とメモリは必要になるだろう。だが、多層ニューラルネットワークのように、ただし語や句、そして概念階層による、多層の統計ネットワークがどれほど意味を持つかという問題だった。層の中には、述語の連鎖に関する層も必要だろうか。必要なら、バルトによる枢軸機能体とそのほかの三つ、あるいは枢軸機能体を含む機能体と指標の区別は、個々の述語、あるいは述語の種類によって、簡単な近似はできるように思える。
その多層の統計ネットワークは、三次元、あるいはそれ以上の、ただの配列であるに――性質上、無駄な座標が多いにしても――すぎないように思えた。多層の統計ネットワークによって充分に再現できるのであれば、人間は統計的にデータを処理している。それは下位機能においてだけではなく、上位機能においてもだ。多層の統計ネットワークによって充分に再現できないのであれば、なにかそれ以外のものが――それが意志であれ思考であれ――存在すると言えるだろう。そしてもし、多層の統計ネットワークが、どのような方法であれ充分に簡略化できるとしたら、人間は、人間自身が思っているほどには考えていないと言えるだろう。
コネクトーム。それは詳細な調査と検討が行なわれている。では、ここで使う多層の統計ネットワークはなんと呼んだらいいだろう。ミームの全結合。ミメクトーム (memectome)。ひとまずは、それをそう呼ぶことにした。
私は、ベッドに放り投げておいたジャケットのポケットからカメラを取り出し、壁に貼った情報カードの全体像を写した。部分も、全体も。そして、情報カードを壁から剥がし、マスキング・テープも剥がし、改めてマスキング・テープで十字に束ね、鞄に放り込んだ。
ここに登場する「プロップのファンクション」、「ユングのアーキタイプ論」、「ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム」、「バルトによる枢軸機能体など」は、実際に存在する論です。
「ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム」については、原典を読むのがいいかは悩むところですが、ほかのものについては、時代的に新しかったアプローチや手法であり、現在においてそれらの原典の邦訳を読む際には、楽しんで読めると思います。