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クワス (Quus)  作者: 宮沢弘
第一章: 対話: ヒトと人
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1−2: 内省

 ホテルに戻り、シャワーを浴びた。その間も、今も、結局あの男性がなにを言いたかったのかがわからず、観てはいるニュースも頭に入って来なかった。明日発表予定の学生の、読み上げ原稿の確認と発表の練習を済ませておいたのは幸運だったのだろう。この状態で、それらを確認するのは無理に思えた。

 そういえば、駅前のコンビニエンス・ストアに、マスキング・テープを売っていた。情報カード――5 x 3 カードと、A5カード――は鞄の中に1パッケージずつくらいはあったはずだ。そう思うと、ゆっくりベッドに座ってはいられなかった。

 

 いつごろからだったか、マスキング・テープがちょっとした小道具感を出すようになっていた。ホーム・センターあたりで買っていた私としては、すこしばかり違和感もある。コンビニエンス・ストアで売っていたのは、やはりそういうマスキング・テープだった。

 私はマスキング・テープを小さなテーブルに置き、鞄を床に広げると、情報カードとボールペンを掘り出し、それらもやはり小さなテーブルに置いた。そして、リーガル・パッドも持って来た二冊を、やはり小さなテーブルに置いた。ベッドに放り出したままになっていたシャツの胸ポケットから太字のボールペンを取り、リーガル・パッドの上に置いた。

 椅子を引き、腰を下ろしてリーガル・パッドを睨み、あったこと、私が思ったこと、ともかくそういうエピソードを書き出した。

 一度書き、読み直してみた。抜けがあるようにも思えた。それを後に付け足し、追加のエピソード記号を書き、そのエピソード記号を、先に書いたものに書き足した。

 もう一度読み直してみた。まだいくつか抜けがあるように思えた。同じくそれらを付け足した。

 そうしてもう一度読み直してみた。今度は、明らかな抜けはないように思えた。

 このままリーガル・パッドを切って、カードにしようかとも思った。だが、それだとマスキング・テープを貼る余裕もない。5 x 3 カードを脇から取り、書き出したエピソードごとに一枚の情報カードに書き写した。情報カードは40枚ほどになった。書き写してから、リーガル・パッドと見比べながら、情報カードに通し番号を入れた。

 情報カードの束とマスキング・テープを持ち、空いている壁に――とは言っても、ハンガーになにも架けていないだけだが――、時間順に、番号順に情報カードを貼っていった。リーガル・パッドに書き出していた時もそうだったが、エピソードごとの情報カードを壁に貼っている今も、やはりあの男性がなにを言いたかったのかはわからないままだ。

 一歩下がって、全体を俯瞰してみる。

 つまるところ、あの男性が言ったのは、「息子が大学を出ている」ということだ。ベッドに放り出したままだったシャツの胸ポケットから数色の芯が入った色鉛筆を取り、その情報カードの左端に赤い線を縦に引いた。

 わからないのは、それを私に言ったということだ。もっとも、これは私でなくてもかまわなかったのだろう。だとすると、私にではなく、教員に言ったということに、そして博士号を持っているだろう相手に言ったということが重要なのだろう。そのことを書いた情報カードがあったはずだ。私は情報カードにまた目を通し、その情報カードを見付け、その情報カードの左端に、同じく赤い線を引いた。

 その二枚の間にある情報カードを一枚ずつ読んだ。だが、「息子が大学を出ている」ということと、「それを博士号持ちに言った」ということを結びつけられるエピソードはないように思えた。

 だとしたら、その後にあるのだろうか。もう一度、最初から情報カードに書かれたエピソードを読んでいった。だが、この学会で発表するわけではない。大学院に進学しているわけでもない。家系として昔から大学に行っているわけでもない。

 ただ一つの可能性と思えるものは、つまり、息子が大学を出ているという一点のみだった。進学率の情報カードを探し、その左端に、今度は青色の線を引いた。

 本当にそれだけなのだろうか。だとしたら、わざわざ言うことでもないように思える。

 それとも、参加証をジャケットの胸ポケットに差したままだった、私の落ち度に過ぎないのだろうか。それが、あの男性の言葉を誘発したに過ぎないのだろうか。誘発させたに過ぎないのだろうか。あの男性自身にしても、意味のない言葉だという自覚があったのではないだろうか。だとしたら、最後のあたりで私が言った、「息子さんが誇らしい」というような言葉は、ただの余計な言葉だったのだろうか。

 それなら、こうやって考えていてもしかたがない。あの男性にはとくに意図はなかったのだから。

 

 さっき、ついでに買ってくればよかったと思った。すこしばかり飲み物が欲しい。

 私はまた着替えると、部屋を出て、ホテルを出て、コンビニエンス・ストアに向かった。コーヒーと、炭酸飲料、それからすこしばかりスイーツを買い、コンビニエンス・ストアを出た。

 そこで、不意に大声がすぐ脇から響いた。

「お前はなぁ、大学を出ているからってなぁ」

 その声に、私は振り向いた。およそ同年代の二人に見える。その言葉を素直に解釈すれば、そう言った一人は大学を出ておらず――そして見る限り、酔っているようだった――、そう言われた一人は大学を出ているということだろう。

 その言葉で気付いた。私は、大学進学率のエピソードを過小評価していたのではないだろうか。

 私は急いでホテルの部屋へと戻った。


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